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日本では古来、なにかややこしい病気が見つかるととりあえずそれを「親のせい」にしてきました。先天性の疾患や遺伝病だけではなくて、実はそうではないものまで。
たとえば、「らいは遺伝病」「肺病の家系」「自閉症は母親の愛情不足」などなど。
さらに、その主張が正しいかどうかはちょっと置いておいて、大切なのは「親のせい」と言っている人が、「では、その親のために一肌脱ごうか」と動くか、それともその親に石を投げて喜ぶか、を見極めることも大切でしょうね。こんな場合、大切なのは「ことば」ではなくて「その人の行動」です。
「石なんか投げないよ」
でも、「親のせいだから、僕は関係ないもんね」(知らんぷり)がホンネだったら、それはそれでちょっと哀しい生き方ではないです?
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「他力本願」は現代ではみごとに誤解されていることばです。「すべて他人まかせでうまくいくことを願う」の意味で使われることが多いのですが、これは仏教の「他力」を「自力」の対義語として並べるから字面からそんなイメージを持たれてしまうのかもしれません。
私は仏教の専門家ではないのであまり丸ごと信用して欲しくはないのですが、私が知る限りでは「他力」はたしかに「自力」(常人離れした厳しい修行の結果解脱する)に対するアンチテーゼとして登場したはずですが、ただ、自力を否定する立場ではなかったはず。自力で救われるくらいの“強さ”を持たない衆生はそのままでは輪廻転生から永遠に解脱することができません。ならば「救いの手」を出そう、ということでその代表が「すべての衆生を救いたい」の阿弥陀仏の本願。で「阿弥陀仏様、私を救って下さい」と唱えるのが「南無阿弥陀仏」。
「なんだ、やっぱり阿弥陀様に救われるから“他人任せ”じゃないか」
いえいえ、話は最後まで聞きましょう。
「南無阿弥陀仏」と唱えたらそれでミッション完了、ではありません。これは「私は阿弥陀仏に帰依します」という宣言です。宣言は「自分」でしなければなりませんし、宣言した以上それからあとは「帰依した人間」としての人生を送る必要があります。いくら悪人正機説だと言っても「南無阿弥陀仏と唱えたぞ、さあ、明日からまた犯罪に励もう」なんてことはダメなのです。つまり、本来の「他力本願」は、(特に根っからの悪人には)けっこう厳しいものなのです。もちろん「自力」よりは楽ですけどね。少なくとも「南無」ということばの持つ絶対性とそれを唱えた(宣言した)覚悟の重みは意識する必要があります。
「安心立命」(「あんしんりつめい」あるいは「あんしんりつみょう」と読みたくなりますが、辞書では「あんじんりゅうみょう」が正式のようです)ということばもあります。あまり現代社会では流通していないので辞書を引いてみると「人力を尽くしてその身を天命に任せ、どんな場合にも動じないこと」とあります。「人事を尽くして天命を待つ」と雰囲気がよく似ています。で、よくよく見ると「他力本願」とも少し似ていません?
ただ座り込んで自分は何も努力せず「どうしてはやく救ってくれないんだ」「どうしてちゃんと安心させてくれないんだ」と言っているよりは、自分にできる努力をすべて100%やり尽くしておいて「ここまでやったんだ、もう悔いはない」とする方が、「安心」にしても「救い」にしても得られやすいんだよ、と昔の人は言っているようです。
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