「ことば」に関してはいろいろ面白いものが歴史に転がっています。
昔の中国には「白馬は馬ではない」と主張した人がいました。主張したのは公孫龍という人ですが、その理由は、「もし『白馬がいること』と『馬がいること』が同じなら、すべての馬は白馬ということになる。したがって『白馬がいること』と『馬がいること』は同じではない。『白馬がいること』と『馬がいること』が同じではないのだったら、白馬は馬ではない」です(「白」は色の概念で「馬」は物の概念。「白馬」は「色」と「物」が合わさった概念。したがって「白馬」と「馬」は概念の種類が違う、という説明もありますが、私の好みは括弧の前に書いたものの方です。と言っても、どちらも出典は忘れているので歴史的に正しいかどうかの保障ができないのが残念ですが)。
しかし、ゼノンのパラドックスと同様、「え? おかしいぞ」と思いつつ、その理由を見るとなんだか説得されてしまいそうになります。ついでですが荘子はその主張に真っ向から反論せずに、こんな批判をしているそうです。「そういう論理は詭弁であり、口から出る言葉の力で人の説に勝つことができても、人の心を感服させることはできない」。
私は「風邪薬」というものはない、とお題を出してみましょう。これのリクツは簡単です。「風邪とは様々な病原体による様々な症状の複合体で『風邪』という単一の「病気」や「症状」があるわけではない。したがって『風邪薬』なるものは存在しない」。
さて、何か反論は?
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「それでも地球は動いている」これはガリレオ・ガリレイ(1564-1642)が語ったとされる有名な言葉です。もっとも、宗教裁判所で拷問道具を見せられて自説を「撤回」したばかりの人間がうっかりこんなことを人に聞こえるように呟くとは思えません(もし聞こえたら裁判所の出口から即座に被告席にUターンまたは拷問部屋に直行です)から実際に彼がこのように呟いたかどうか、私は疑問には思っています。心の中では叫んでいたでしょうけれど。
最終的に天動説は地動説に破れガリレオ・ガリレイは「勝利者」になったわけですが、このことを指して「科学の真理は、はじめは無視・反対され、次に迫害され、最後には『そんなことは10年前から知っていた』と述べる多数派によって支持され逆に否定派が迫害されるようになる」と皮肉っぽく述べた人もいます。(そうだ、ガンジーの「最初、彼らはあなたを無視する。次に、彼らはあなたを嗤う。その後、彼らはあなたに戦いを挑んでくる。そして、あなたは勝つだろう。」の方が学問的ではないけれど“感動的”ではありますね)
ただ、その道のりは平坦なものではありません。天動説絶対の世界でコペルニクスが異議を唱えたのは1543年ですが、ニュートン(1647-1727)の仕事が完成するまで天動説は実はしぶとく生き続けていました。
科学の世紀に生きている我々は科学的真理とは絶対的なものだと思いがちですが、なぜその「正しさ」が認められるのにこんなに時間がかかる手続きが必要だったのでしょうか。昔の人間が迷信深くバカだったから? そうではありません。
たとえば20世紀、ほんの数十年前には「大陸移動説」はトンデモ理論でした。1912年にウェゲナーが唱えたこの説は1960年代まではただの珍説として無視・反対・迫害を受けていたのです。ウェゲナーがあげた地形上の証拠(同じ氷河の削り跡が異なる大陸に大洋ををまたいで存在する。氷河の跡が熱帯に存在する)、生物学上の証拠(同じ種の生物や化石が違う大陸の向き合った部分に存在する。珊瑚の化石が北に存在する)、その他当時彼が入手できた「すべての地球科学(測地学、地球物理学、地質学、古生物学、動物地理学、植物地理学、古気候学)」の証拠の数々は「論評にも値しない」と切り捨てられていました。ところが海底の磁気など新しい証拠が見つかりプレートテクトニクス理論によって大陸移動が「真実」に昇格すると……今大陸移動に反対する人間がいたら「そんな人間は学問をやるに値しない」と切り捨てられてしまうでしょう。
つまり、昔の人間だけではなくて今(ほんの数十年前)の人間も、ガリレオ・ガリレイを迫害した(そして転向した)人間たちと同じ行動をとっているわけです。したがって「昔の人間はバカだった(今の人間はエライ)」という仮説は否定できます。知的態度はそれほど差がない、といって良いでしょう。やってること(少数派の迫害)も同じですし。
天動説から地動説への「転向」をパラダイムシフトと表現しますが、詳しくはトーマス・クーンの『科学革命の構造』よりは、『コペルニクス革命』の方がお勧めです。前者はパラダイムについて詳しく書いてありますが、それよりも後者の方が(パラダイムということばはほとんど登場しませんが)パラダイムがいかなるものか具体的にわかります。つまり、天動説が立派な「科学」理論であったのかがよくわかるのです。それは精緻で矛盾がほとんどない理論で実際の天体観測結果ともほぼ合致し、当時の社会を支配していたキリスト教の教義とも強く結びついていたため、理性と信仰の両方から受け入れられていました。だからこそ、それを捨てさせる(パラダイムをシフトさせる)ためには莫大な知的努力と長い時間が必要だったのです。
大陸移動説に関しては、宗教が無関係だったのと、大陸移動説に対する反対論もまた根拠薄弱な「陸橋説」や「永久不変説」だったのが幸いでした。「状況証拠」は揃っていたので、「常識」をひっくり返されることへの抵抗を破るには、大陸が移動するメカニズムに関して納得できる理論と証拠を示すだけで十分だったからです。ウェゲナーにはその理論がありませんでした。彼は「軽い大陸が硬い海底の上を滑るように進むのではないか」と述べましたが、これでは誰も納得できません。大陸は船でも橇でもないのですから。古地磁気学の進歩と海底の調査でプレートテクトニクス理論が生まれ、「地球の表面は複数のプレートで構成され、それぞれのプレートは移動している。プレート上に乗っている大陸はその結果として移動する(移動させられる)」と言われ、それでやっと多くの人が納得できるようになったのです。
しかし、なぜ「反対」と「支持」の間に「迫害」がはさまるのでしょうか? もしかしたら、自分が抱いている常識に対する異議申し立てにある種の正しさを感じたときこそ、その「正しさ」を認めないために人は過剰に反応して「(論の)否定」ではなくて「(行動としての)迫害」をしてしまうのかもしれません。逆に言えば、迫害されない異見は結局大したことは言っていないのだ、と言ったらやはり言いすぎでしょうね。現在「反対」「迫害」されているからこれは将来の真理になる、とも言えません。たとえば理論と証拠がなくてただの思いつきで述べていることを否定されたからと言って「迫害されている」と言うのは大げさすぎます。必要なのは、精緻な理論・確かな証拠・多くの人を説得する努力、です。「正しさ」だけで渡っていけるほど(あるいは万人がすぐに自分にひれ伏してくれるほど)世界は甘くはありません。
参考図書
『天球回転論』コペルニクス 著、 高橋憲一 訳・解説、 みすず書房、1993年、3600円(税別)
『天文対話(上)』ガリレオ・ガリレイ 著、 青木靖三 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1959年、★★★★
『天文対話(下)』ガリレオ・ガリレイ 著、 青木靖三 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1961年、★★★
『科学革命の構造』トーマス・クーン 著、 中山茂 訳、 みすず書房、1971年、2600円(税別)
『コペルニクス革命』トーマス・クーン 著、 常石敬一 訳、 講談社学術文庫、1989年、1250円(税別)
『磁力と重力の発見 3 近代の始まり』山本義隆 著、 みすず書房、2003年、3000円(税別)
『大陸と海洋の起源』アルフレッド・ウエゲナー 著、 竹内均 訳、 講談社、1975年(80年4刷)、1500円
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そろそろスギ花粉が飛ぶシーズンとなりました。
日本列島の南西部では例年2月上旬から中旬には飛び始めてどんどん北上してきますので、スギ花粉症を持っている人はそろそろ準備を始めておいた方がよろしいかと思います。特に坑アレルギー剤は、症状が出る1〜2週間前からのみ始めておくとスギ花粉に出くわしたときに軽くすみます。それが逆に無防備の状態でどんと花粉を吸い込んで鼻も目もぐしゃぐしゃになってしまうと、これは少々の薬ではなかなか収まりません。
実は私はスギ花粉症とは30年以上のつきあいでして、はやいところ縁を切りたいと思えば思うほどしがみつかれているような……ただ、年を取って免疫反応が元気をなくしてきたためか最近はそれほど激烈な症状が出なくなったのが救いで、「加齢のメリット」を享受しています。
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直接お会いしたことはありませんが、ホンダの創業者本田宗一郎さんは私が特別な尊敬を捧げている人の一人です。その本田さんが書かれた『私の手が語る』は本来医学とは無縁の本ですが、医者である私にとって特別なことばがその中にありましたので紹介します。
「心の修理業」と題された章の前半、「車をこわしたお客さんは、修理工場に来たり、電話で連絡してきたりするまで、さんざん苦労し、憤慨し、動揺しているのがふつうである。機械もこわれているが、お客の心もこわれている。」、そして章の後半、ホンダ・インターナショナル・テクニカル・スクールの学生たちに校長として話す「自動車修理の仕事に従事して、お客さんと接したとき、車をなおしたうえで、その人の不安や怒りを取り除いてやることができたら、それは素晴らしいことである。親切というかたちで、そういう生きた哲学を使える人になって欲しい」、がそれです。
本田さんは、お客に信頼されにくい“若造の修理工”の時代から、単に車の修理が上手いだけではなくて、ちょっとした心遣いでお客さんの信頼を勝ち得るように努力していたのだそうです。
「車」を「体」に読み替えるだけで、そのまま私の世界に通用する言葉になります。いや、読み替える必要さえないかもしれません。こういった一般性をもった言葉を自分の体験から豊かに汲み出すことができ、さらにそれを他者に伝達できることがすごい人の証拠なのでしょう(本田さんの場合にはそういった“証拠”を今さら探す必要はないでしょうけれど)。
「これは負けてはいられない」と私は呟きます。勝ち負けの問題ではないんですけどね。
そうそう、本書の各章はそれぞれ2〜3ページずつにコンパクトにまとめられています。取り上げられる題材も多彩で、穏やかなユーモアにくるまれて平易な言葉で深い哲学が示されています。もし本田さんの時代にブログがあったなら、きっと彼は超人気のブロガーになれたのではないか(それも「有名人だから」ではなくて「ブログの内容がすごい」ことで)と私は想像します。足元にも及ばないのはわかっていますが、それでも何とか大差で負けないように頑張ってみようか、と私は思います。生きる姿勢の問題であって、勝ち負けの問題ではないんですけどね。
書誌情報:『私の手が語る』本田宗一郎 著、 講談社、1982年
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テレビや映画の冬山遭難のシーンで「寝るな! 眠ると死ぬぞ!」と絶叫する演技があります。
さて、それはどうしてなんだろう、と不思議に思ったことはありませんか? 私はあります。
吹きすさぶ強風と低温と一面の雪氷という環境で安眠ができるとは思いませんが、「眠るな寝たら死ぬ」ということは「起きていたら死なない」というわけですよね。その「わけ」がわからないのです。普通の環境では寝れば副交感神経が優位となるから体温は少し下がりますが、凍死するくらいには下がらないように思えるのです。
寒い環境では体温が奪われます。また、強風下では風に体温が奪われます。高校生の時に何の本かは忘れましたが「風速1m/秒ごとに体感温度は1°C低下する」と読んだ記憶があります。するとバイクで時速54kmで走るとそれは秒速15mですから体感温度は外気温より15度下になっているからそれに合わせた服装を、なんて計算をして、大体それで合っていたように思います。すると冬山では環境温度がマイナス20度で風速が40m/sだと体感温度はマイナス60度! よほど装備がしっかりしていないと、これは寝ようが起きていようが、低体温症ですぐ死んで(凍死して)しまいそうです。
ネット検索をしたらこんな式が見つかりました。「体感温度」(wikipedia)
気温(摂氏)をt、湿度(%)をh、風速(m/s)をv として
ミスナール体感温度(摂氏)
M(ミスナール体感温度) = t - (0.8-h/100)(t-10)/2.3
リンケ体感温度(摂氏)
L(リンケ体感温度)=t − 4×√v
リンケでは、風速9m/sだと12度↓、風速16m/sだと16度↓、風速25m/sだと20度↓、風速49m/sだと28度↓、となります。風速20m/sくらいまでなら「風速1m/秒ごとに体感温度は1°C低下」と概算で言っても良さそうではあります。
ただ、恒温動物の場合は環境温度が下がっただけでは即座に体温はそれに合わせて低下はしません。アラスカで犬ぞり旅行をした人の旅行記に、犬が雪に潜り込んで眠ることが書いてありましたが、それだけ見ても「雪の中で寝たら死ぬ」わけではないことがわかります。もちろん犬は毛皮を着ていますが、それは人間も犬の毛皮に相当するものを着れば同じ条件のはずです。さまよい歩いて体力が奪われ、汗をかいて下着が濡れて断熱性が低下し、腹も減って血糖が低下、といった条件が重なったら危ないでしょうが。
「低体温症(Hypoxia)」には、軽症(深部体温32度以上)の場合には「眠ると体の震えが止まるので、体が温められるまで、許してはいけない」とあります。そして重症(深部体温32度未満)の場合には「震えが止まる」とも。すると、がたがた震えている人の場合には「寝るな」が有効、とは言えそうです。でも映画などの場合には大体ぐったりと眠たそうになっている人に向かって「眠るな、寝ると死ぬぞ」と言ってますよね。というか、がたがた震えながら眠りにつこうとする人って、遭難現場でそんなに多いのかな?
結局、低体温で凍死に向かって意識を失っていく(傾眠になる)のを見た人がその状態を「眠る」と捉えたのではないでしょうか。つまり「眠ったから死ぬ」のではなくて「凍死寸前で意識を失っていってそれが眠るように見える」。だったらそこで周りの人間がするべきことは「その人の熱環境を適正にする(熱産生ができるように栄養補給、冷えないように断熱や保温、あるいは加温の工夫をする)」ことでしょう。「その人が寝ないように努力する」ことではなくて。
そうそう、冬山遭難のニュースを見て「毎年毎年、遭難するのがわかっているんだから、冬山には登らなければいいんだ」と言うのは、夏に「毎週休み明けには溺死のニュースが報じられる。泳ぐと溺れ死ぬから誰も海水浴に行くべきではない」と言うのと同じようなものと私には思えます。大切なのは「冬山登山禁止令」ではなくて「どうやったら遭難しにくくなるか」「遭難したときどうしたら生還できるか」の知恵の普及ではないでしょうか。
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「秋葉原事件「記憶ない部分あるが」加藤被告謝罪 初公判」(朝日新聞)
謝罪したというのですが、これって本当に「謝罪」です?
>>「亡くなられた方やけがをされた方、ご家族やご遺族に対しては大変申し訳ございませんでした。記憶のない部分がありますが、今回事件を起こしたことは間違いありません」
の「亡くなられた方やけがをされた方」の部分に私の気持ちは鋭い針先で薄く引っかかれた思いです。だって彼らは自然現象か何かで「亡くなられたりけがをされた」わけではありません。ここは「自分が殺した人、自分が怪我をさせた人」でしょ?
なんて言うかなあ……ほとんど他人事のようなものの言いように私には感じられます。まさか「自分は大したことはしていないのに、彼らが勝手に死んだり怪我をした」という認識?
それとも「記憶のない部分」というのは「自分が車ではねたり、自分がナイフで刺したりしたこと」なのかしら? だから「殺した」「傷つけた」という“実感”がないのかな。
なんだか「昨日は酔ってて何にも覚えていない」と昨夜の蛮行を“謝罪”する(あるいはしない)人のことも連想してしまいました。
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日本では「役に立たないもの」は嫌われます。たとえば壊れた機械、場所ふさぎで高く売れるあてのない美術品、役に立たない人(病気、障害、極貧……)……
福祉の現状とか介護保険でのリハビリテーションの扱いを見ていると、ここでも「役立たずは嫌い」が露骨に露出しているように思えます。ただ、厚労省のこういった態度には、もちろん「コスト削減」がベースにあるでしょうが、「世間の(「役に立たないもの」への)冷たさの反映」も大きく作用しているのではないか、と私には思えます。
だけど、たとえば脳卒中の後遺症を抱えた人をまるでこわれたおもちゃのようにぽいと捨てる態度、自分の親や子どもに見せたいですか?
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ある患者さんのご臨終で、そのことを家族の皆さんに告げたら、その中のお一人がいかにも不思議そうに「心臓が止まったんですか?」と尋ねられました。
こちらはこちらで不思議に思いましたが、よくよく聞くと「心臓ペースメーカーを植え込んでいるから、もう心臓はずっと永遠に止まらないものと思っていた」とのこと。
状況がそんなものでなければ、私は笑っていたかもしれません。
心臓ペースメーカーというのはあくまで「心臓のペース(動くリズム)」を電気信号を送ることで作るもので、心臓の筋肉そのものを直接ぐいぐい動かしているものではない、ということを説明したらすぐに理解してもらえましたが、おかげでこちらは死後直後にするべきもう一つの説明にスムースに入っていけました。ペースメーカーの摘出です。
心臓ペースメーカーにはリチウム電池が使われていますが、そのリチウムの沸点が1300度。そのまま火葬場に行くと熱で破裂することがあるのです。(たまに「爆発してお釜が傷む」という人がいますが、爆発ではなくて破裂です) ですから私は極力ご遺体が院内にある内にペースメーカーを埋めたチームに連絡してペースメーカーを摘出してもらっていました。
なおこの問題に関して、病院ではない視点からの考えが「新しいペースメーカの考え方と患者さんの死亡」で読めます。
ペースメーカー植え込み術は、私の県では私が医学部を卒業した頃に盛んになりました。症状によって様々なタイプがありますが、心臓にカウンターショックをかけることができる埋め込み式のペースメーカーの話を30年近く前に講演会で聞いたときは、私にはショックでした。今あちこちにあるAEDの小型版を胸に埋め込んでいるようなものです。これだったらそれこそ「ペースメーカーを埋め込んでいるから、心臓は止まらない」に近い状態になれたかもしれません。1秒に1回ずつどっかんどっかん電気ショックを与えたら、とりあえず「心臓が動いている」にはなれるかもしれませんので。
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子供時代、親が電話をしているときに、しきりにお辞儀をしているのが子供心には滑稽にうつりました。電話だから相手に見えるわけではないのに、と。しかし今気がつくと、受話器を持って喋りながら頭を下げている私がここにいます。
人と人が対面でおしゃべりをしている姿を観察すると、動いているのは口だけではないことに気づきます。表情や身ぶり手ぶりを総動員して、「自分が伝えたいもの」を相手に伝えようと人は努力しています。直立不動で口だけ動かす人は、あまりいません。
大統領選挙で、ケネディとニクソンの討論を聞いた人にどちらが大統領候補として優れているかを尋ねたら、ラジオで討論を聞いた人はニクソンの勝ちと判断したけれど、テレビを見た人はケネディの勝ちと判断した、という調査があると聞いたことがあります。それが真実かどうかの根拠を私は持っていませんが、さもありなん、とは思います。
身ぶり/手振りなどのコミュニケーション手段を「nonverbal communication((身ぶりなどの)非言語的コミュニケーション)」と言いますが、この「nonverbal」が非常に多くのものを伝達するのです。
逆に、nonverbalが使えない環境、最近のメールやネットの掲示板では、nonverbalがあれば起きなかったであろうトラブルが頻発しています。「(笑)」とか「w」とかでも、書いた方は「微笑」や「苦笑」のつもりでもそれを読む方が「嘲笑」と取ってしまう、とかはザラです。nonverbalは偉大です。
ところが、身ぶりと音声言語は脳の同一領域で処理されている、という研究結果がありました(「身振りと音声言語は同一の脳領域で処理 ──言語の進化過程を解く鍵に」(メディカルトリビューン))。わざわざ「non」verbalと言っているのに、実はverbalとnonverbalとは脳の中では重なっていたわけです。これは本当に不思議なことです。
人の進化の過程で、音声言語よりは身ぶり・手ぶりの方が先に出現したであろうことは容易に想像がつきます。蜜蜂のダンスよろしく、身ぶり手ぶりで「あちらの方向に何やらがある」と示すのでいろいろ想像しながらついて行ってみたら、そこに一人では運べない鹿が行き倒れになっていた。そこで「鹿」という概念が共有されたらしめたもの。身ぶり手ぶりで「鹿」を示すことができたらこれは「手話」ですが、その時に音声が発せられて、これを「シカ」と呼ぶ、という約束事が共有できたら、音声言語の獲得です。だから進化の過程でverbalとnonverbalは脳の中で重なって発達した。
そんなに簡単ではないでしょうが、大筋はこれでいいんじゃないかな。
そういえば、ミラーニューロン(他者の運動を真似するニューロン)は、ブローカ野(運動性言語中枢)に近いところに位置するんでしたね。
「他者の運動を理解するミラーニューロン」(京都大学)
相手の身ぶりや表情を真似することが、言語にも関連しているのなら、verbalとnonverbalとが同じ領域で処理されるのも当然、とも思えます。これら総てが関連しているのが人間本来のコミュニケーションなのでしょう。
そうそう、こうして「身ぶり」と「音声言語」が脳内で重なり合って処理できるからこそ、「パントマイム」が演技として成立するんですよね。人は演技者の動きを見ながら、おそらく自分の脳内ではミラーニューロンを活動させさらにそこに「言語」を響かせているはずです。
ところで、こうやって文字だけ打つのは、明らかにnonverbalが不在です。だったら、タイプをしながらお辞儀でもしてみましょうか。そうしたら少しは「気持ち」が伝わりますか?
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胃癌検診にかかわっていた頃私は「検診で異常なしだからと言って、手放しで安心はしないで下さい。極端なことを言ったら、検査の次の日に癌ができる、ということもあるのですから、早期発見をしたければ定期的な検査をお忘れなく」と言っていました。ところが「検診で異常あり」と言われた人には「この検査は、癌に似たものも全部引っかけますから、精密検査をしたら『癌ではなかった』となることがほとんどです。だから、心配するのは『これは間違いなく癌です』と言われてからにしてください。心配が無駄になりますから」と言っていました。人を心配させようとしているのか安心させようとしているのか、自分でも混乱しそうです。
ところが毎年胃癌検診を受けていてもそれをすり抜ける癌があります。たとえば検査の見落とし・非常に見つけにくい形の癌・進行が異常に速い癌。
見落としは論外ですが、検査には弱点(死角)があります。
バリウムを使うレントゲンでは、胃の緊張が非常に高いと壁の伸展性などがわからないし、前壁の造影が苦手です。また凸や凹は描写できますが、真っ平らな病気は表現が困難です。
胃内視鏡は、なにせすべて肉眼で見られるのですから、平らだろうが凸凹だろうが粘膜に変化があればそれは見えます。ただ、胃の入り口の病変は見つけにくいのです(ファイバーをUターンさせて下から見上げますが、こんどは内視鏡自身が邪魔をしてくれます)。さらに、粘膜の下を静かに這っていくタイプの癌は、内視鏡ではなかなか見つけられません。(バリウム検査だと、胃の壁が広く固くひきつれているのが描写できます)
この「粘膜の下を這っていく」のがスキルス胃癌です。堀江しのぶさんや逸見正孝さんのことを書くと年齢がばれますが、このタイプの違う二人の有名人によって「スキルス」は日本語になったように私は思っています。
困ったことにスキルス胃癌は進行が非常に速く、それこそ最初に書いた「極端なことを言ったら、検査の次の日に癌ができる」場合だと、数ヶ月後には手遅れになっています。
「だったら毎日胃の検査」……これは無茶。遺伝と環境とでの発ガン因子を特定して、このリスクが非常に高い人には厳重な検診、が現実的な手段でしょうか。
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