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薬理学の授業で医学生は「in vitro」と「in vivo」の概念をたたき込まれます。(最初は「医者は「in vitro」と「in vivo」の概念を持っています」と書いたのですが、すべての医者が持っているわけではないよなあ、と気づいて上記のように訂正しました)
「in vitro」の語源はラテン語で「ガラスの中で」→「試験管内で」という意味です。「in vivo」は「生体内で」。(ついでですが、ガラスはけっこう古くから使われています。完全な保存状態で現存する最古のガラス容器は、トトメス三世(BC1502-1448)の紋章入り杯(大英博物館所蔵)だそうです)
たとえばある化学物質が「薬」として使えるかどうか、実験室の中でいろいろやったら生化学的に好ましい化学反応を起こしてくれることがわかった……これは「in vitro」です。ところがそれを実際に動物実験や人体実験をしてみたら予想外のとんでもない副作用が出てきた……これは「in vivo」の話です。
こう説明したら明らかに違うことは誰でも納得できるのですが、ところが具体的に薬物について話を始めたら容易に“誤魔化”されてしまうことがあります。
俗に「痛み止め」「熱冷まし」と呼ばれる鎮痛消炎解熱剤はプロスタグランジン(炎症や発熱作用を持つ)の生合成を阻害することで効果を発揮します。
しかし、そこで話は終りにはなりません。試験管の中ならそこでお終いですが、生体の中では話が違ってくるのです。
アラキドン酸(不飽和脂肪酸の一つ)にシクロオキシゲナーゼ (COX) が作用するとプロスタグランジンG2 (PGG2) が合成され、そこからいろいろあって最終的に様々なプロスタグランジン類かトロンボキサンが得られます。ところがこのアラキドン酸にリポキシゲナーゼが作用するとロイコトリエン(アレルギーの化学伝達物質の一つ。強力です)が合成されます。本当はもっとややこしいのですが「そんなものだ」と読み流してください。ついでですが、アスピリンはCOXの働きを阻害します。
で、「薬を投与する側」から見たら目的のプロスタグランジンができなくなればそれで「めでたしめでたし」ですが、「投与された側」から見たらどうでしょう。
プロスタグランジンの生合成が活発に行なわれるのは、生体が何らかの理由でそれを欲しているからです。ところがそこに人為的なストップをかけたらどうなるか。たとえば日本の官僚はそこで話がすっぱり終わるのを好むでしょうが生体はそうはいきません。「余った」アラキドン酸はどうなると思います? 中にはロイコトリエンへのルートに乗ってしまうものも多くいるかも、と思いません? 「アスピリン喘息」(アスピリンなどの鎮痛解熱消炎剤を使った後気管支喘息の発作を起こす)の原因はまだ完全解明されていないはずですが、このルートを考えている人はけっこう多くいます。
人体内で化学伝達物質は複雑なネットワークを作り、それぞれがネガティブまたはポジティブなフィードバックをかけ合っています。そのうちの一つだけを人為的に操作した結果がどうなるか(複雑系の世界において「ルーマニアで蝶が羽ばたいたら、フロリダでハリケーンが発生する」かどうか)は、今のところ誰にもわかりません。プロスタグランジンには様々な種類がありますが、発熱や痛みで人体に「迷惑」をかけているのではなくて、実は最終的には人体にとてもよい物質だった、というのがオチかもしれません(最もシンプルには「炎症や発熱によって、細菌やウイルスに対しての“環境悪化”を起こして死滅させやすくする」なんてことはすぐ考えつきます)。
薬物が単体としての化学物質でもこの騒ぎです。漢方薬の場合にはもっと話がややこしくなります。なにしろ「単体」ではありませんから。
ご存じだと思いますが、ほとんどの漢方薬は複数の生薬が組み合わされて構成されています(中には「甘草湯」のようにたった一つの生薬から成立しているものもありますが、これはむしろ例外です)。さらにその「生薬」自体が化学的には純粋な単一物質ではありません。様々な物質が複雑に混じり合っています。さらにそれらの生薬は動植物由来ですから、「化学物質」として毎年同じ品質のものとは限りません。産地によっても成分が異なります(中国と同じ植物を日本に植えて「地産地消」と言っても、同じ成分を同じだけ含んだものが育って同じ効果が出るとは限らないのです)。
ややこしいでしょ? でもここまではまだ「in vitro」の話。私はここから「in vivo」の話を始めます。覚悟はよろしいですか?
話を単純にするために「ただ一つの生薬」を飲み込んだ、としましょう。ところがこれでも話はちっとも簡単になりません。
まず用法の問題があります。薬物がその効力を発揮するためのは、血液に入ってそこで標的臓器に運ばれレセプターに結合することが必要です(湿布とか塗り薬のことはちょっとの間忘れてください)。漢方薬には生薬を粉にしてそれをそのまま服用するもの(薬名が「○○散」)もあれば、熱湯で成分を抽出するもの(薬名が「○○湯」)もあります。ここで「同じ生薬」でも「生」か「熱湯処理」かで消化吸収に差が出て結果として「人体に対する作用」に差が生じることは簡単に予想できます。
さらに「消化管の環境による修飾」が加わります。飲み込まれた生薬はまず胃液に出くわします。食後だったらpHは相当上がっているでしょうが空腹時ならpHはすごく下がっているはずです。胃酸過多と胃酸があまり出ない人とでも胃内のpHに差が生じます。これによって生薬の成分変化は各人で異なっていきます。まだ話は続きます。
胃から出たら、胆汁と膵液、そして腸液のお出迎えです。もちろんここにも個人差があります。大腸に入ったら大腸の細菌たちが生薬の成分を盛んに食って別の形に変えていきます。この細菌叢にも個人差があります。こうして消化液や細菌によって形を変えられた(中間代謝物となった)「物質」もそれぞれの「薬理作用」を持っています。
こういった「消化管の内部の環境」の差によって、同じ生薬を飲んだとしても最終的に体内に吸収される「薬物成分」には人によって相当な差が出るのです。
漢方では「証」を重要視します。これは「薬物の証」と「病人の証」と「病気の証」とに分けられてそれぞれを解説するのは大変なのですが、「病人の証」(人の体質によって、同じ症状でも使う漢方薬が異なる)とはつまり上に書いた「消化管の環境の個人差」のことも含んでいるのではないか、と私は想像しています。
だとすると、近代医学の薬理学(単一の物質に対する標準的な人体モデルの反応を基準とする考え方)は漢方薬を解析するには向いていません。成分は単一でも均一でもなくて複雑系で個人差があるのですから。
それでも科学的な態度で薬理学的に漢方薬を扱おうとする手段はあります。たとえば統計的なものが考えられます。あるいは「最終的な代謝産物を含んだ血液そのもの」を「粗な薬物」として扱う「血清薬理学」。
「血清薬理学」とはなにやら怪しそうな名称ですが、その発想は実はシンプルなものです。昭和薬科大学の病態科学研究室のサイトなどにその解説があります。
科学で漢方薬を解明するためには、科学の方をいろいろ調整する必要がありそうに私は思っています。漢方薬を科学に合わせて改造したら、薬としての効力がなくなっちゃうかもしれませんから。
※私がゾロ品を信用しないのは、その「効力」が試験管の中では確認されていても生体では確認されていないからです。「化学物質」としては先発品として同等でも「薬品」としては同じとは言えませんから。こんなことを書いたら「溶解試験」「人工胃液」なんて言い出す人がいそうなので、先回りしておきましょう。それらはあくまで「in vitro」の話でしかありません。ですからその程度のことをいくら強く言われても、「in vivo」では?の私の疑念は1ミリグラムも軽くなりません。
ここまで書いたら疲れたので、本日はここまで。この件に関してはいつかまたエネルギーが貯まったら書きます。書くことでなんかスッキリしたのでもう書かないかもしれませんが。
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私の学部卒論テーマが「漢方薬の薬理学的研究―麻黄湯と桂枝湯の呼吸・血圧に及ぼす影響」でした。漢方が見直され始めた昭和40年のことで、又、薬学4年生のレベルの研究ですので、種々工夫はしたのですが、お察しの通り、結果は得られませんでした。しかし、漢方に興味を持つ切っ掛けにもなり、勉強にもなりました。
ジェネリックのお話、先生が疑念を抱かれるのは当然で、同等として処方されると・・・。
「in vivo」での同等性が証明されていれば政治力を使わずとも繁用されるのは確実で、実例も有りますが、少数です。後発品メーカーはTV-CMなどに使う資金があるのなら、バイオアベラビィティー試験を実施すべきと思います。
薬価差のみでごり押しする当局、それを後押しする一部薬剤師、現場を離れたとは言え薬剤師の一人として情けなく感じて居ます。
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