大晦日です。年末には今年の十大ニュースとかこの一年を振り返って、という記事を書くのが標準的な態度でしょうが、私は天の邪鬼ですから、一年の締めくくりとして一風変わった記事を書いてみましょう。
たまには「私」という人間について赤裸々に語ってみようという趣向です。と言っても、自分自身について言及することにはあきらかに「自分に対する偏見フィルター」が(ほとんどの場合、厳しすぎるか甘すぎるかのどちらかに)機能しますから、客観的に私の行為に関する一領域の「データ」を並べて、そのデータ自身に物語らせよう、という目論見でやってみます。
私は重度の活字中毒です。若い頃には標準的な厚み(200〜300ページ)の文庫本なら1時間程度で読み切れていましたが(ですから、本屋で数時間立ち読みをして文庫本を何冊か読み切る、が学生時代の休日の娯楽でした)、さすがに加齢とともに視力と集中力と背筋力が落ちてそれに比例して読書力は落ちています(背筋力?と思われるかもしれませんが、姿勢が崩れるとあちこちが痛くなって読書に集中できなくなってしまうのです)。それでも、テレビをほとんど見ない・晩酌をしない・当直は基本的に暇、という空き時間を生み出す三大メリットを有効に使って、古今東西硬軟理文老若男女おかまいなしの乱読を現在でも続けています。
その中で医学のにおいが漂うものの感想をこれまでこちらの「読書感想」シリーズで紹介しています。最近ちょっと「読書感想」系の投稿が多くなっていますが、これはネタの水増しを狙っているわけではなくて、ここで紹介したい本を読むことがたまたま増えているからです(どうせ医学系の本を読むのは「仕事」の一部です。あくまで読書は趣味なので、趣味の時間はできるだけ自分の商売から離れたものを読もうとしてはいるのですが)。そこで、仕事以外で今月何を読んだかをちょっとまとめてみました。
私は同時に何冊かを平行して読むことが多いのですが(本によって読む速度はバラバラです。休日に一挙に数冊まとめて読むこともありますし、ものによっては一日に数ページずつこつこつ読み続けることもあります)、読み始めた時期は問わずこの12月に入ってから昨日までの30日間に読了したものに限定してリストにしてみました(私はこの数年、二度読みや二度買いを予防するために、読んだ本の記録を残しているので、こういったリストアップは簡単です)。
『わが骨を動かす者へ ──1611年のシェイクスピア』(上巻・下巻)マイケル・グルーバー 著、 冨永和子 訳、 エンターーブレイン、2008年、1800円(税別)
『情念戦争』鹿島茂 著、 集英社インターナショナル、2003年、2800円(税別)
『安全学』村上陽一郎 著、 靑土社、1998年、1800円(税別)
『安全学の現在』村上陽一郎(対談集)、靑土社、2003年、1800円(税別)
『日本めん食文化の一三〇〇年』奥村彪生 著、 農文協、2009年、3800円(税別)
『シルバーウィング ──銀翼のコウモリ(1)』ケネス・オッペル 著、 嶋田水子 訳、 小学館、2004年、1600円(税別)
『サンウィング ──銀翼のコウモリ(2)』ケネス・オッペル 著、 嶋田水子 訳、 小学館、2004年、1600円(税別)
『ファイアーウィング ──銀翼のコウモリ(3)』ケネス・オッペル 著、 嶋田水子 訳、 小学館、2004年、1600円(税別)
『自分の体で実験したい ──命がけの科学者列伝』レスリー・デンディ、メル・ボーリング 著、 C・B・モーダン イラスト、梶山あけみ 訳、 紀伊國屋書店、2007年、1900円(税別)
『ラ・フォンテーヌ寓話』ラ・フォンテーヌ 著、 ブーテ・ド・モンヴェル 画、伊藤比呂美 訳、 白泉社、1981年、1400円
『天文対話(上)』ガリレオ・ガリレイ 著、 青木靖三 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1959年、★★★★
『天文対話(下)』ガリレオ・ガリレイ 著、 青木靖三 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1961年、★★★
『食品偽装の歴史』ビー・ウィルソン 著、 高儀進 訳、 白水社、2009年、3000円(税別)
『ヴィクトリア朝ロンドンの下層社会』ヘンリー・メイヒュー 著、 松村昌家・新野緑 編・訳、 ミネルヴァ書房、2009年、4600円(税別)
『ドイツ高速鉄道ICEー3ケルン脱線事故 ──鉄道用車軸の金属疲労はなぜ起ったか』平川賢爾 著、 慧文社、2009年、3000円(税別)
『オーディンとのろわれた語り部』スーザン・プライス 著、 当麻ゆか 訳、 徳間書店、1997年、1200円(税別)
『直筆商の哀しみ』ゼイディー・スミス 著、 小竹由美子 訳、 新潮社、2004年、2800円(税別)
『天才と分裂病の進化論』デイヴィッド・ホロビン 著、 金沢泰子 訳、 新潮社、2007年(09年5刷)、1900円(税別)
『日本SFアニメ創世記 ──虫プロ、そしてTBS漫画ルーム』豊田有恒 著、 TBSブリタニカ、2000年、1500円(税別)
『コーヒーとコーヒーハウス ──中世中東における社交飲料の起源』ラルフ・S・ハトックス 著、 斎藤富美子・田村愛理 訳、 同文館、1993年
『メリーゴーラウンド』ロザムンド・ピルチャー 著、 中山富美子 訳、 東京創元社、1998円、1800円(税別)
『ベルギー人は肩が凝らない ──ソシュール言語学に魅せられて』飯島英一 著、 創造社、2000年、2095円(税別)
『天球回転論』コペルニクス 著、 高橋憲一 訳・解説、 みすず書房、1993年、3600円(税別)
『それは火星人の襲来から始まった ──現実を侵略するヴァーチャル・リアリティの脅威』マーク・スロウカ 著、 金子浩 訳、 早川書房、1998年、1900円(税別)
『沈んだ世界』J・G・バラード 著、 峰岸久 訳、 創元推理文庫、1968年、150円
『精神病院の社会史』金川英雄・堀みゆき 著、 青弓社、2009年、2800円(税別)
『ある文人代官の幕末日記 ──林鶴梁の日常』保田晴男 著、 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー283)、2009年、1700円(税別)
小説は、児童もの(ちなみにケネス・オッペルで一番のお勧めは『エアボーン』です)・冒険小説・寓話・現代小説、ノンフィクションに歴史もの、はては古い古いガリレオ・ガリレイやコペルニクスまで。なんというバラエティの豊かさ、と私は自画自賛しつつ、あきれはてます。お前になにか「一本スジの通った人生のポリシー」はあるのか?と。ただ、このリストをじっくり眺めたら(もしできたら、全冊読破をされたら)、「こんな本の群れを喜んで読む人間」としての「おかだ」を理解する糸口が得られるかもしれません。(ちなみに、『天才と分裂病の進化論』と『沈んだ世界』以外はすべて図書館から借りてきています。本当は図書館の方向には足を向けて寝られないはずなのですが、あちこちの図書館を活用しているのでそれが難しいのが悩みの種)
しかし、これだけ並べると、自分の精神生活を裸でさらしたみたいで、なんだかすんげえこっぱずかしい気分になってしまいますな。ま、たまには、サービスサービス(葛城ミサトの口調)。
ただ読書の場合、「何を読むか」も大事ですがもっと大事なのは「どう読むか」でしょう。農業で言ったら「土作り」「施肥」に当たる作業を、本を読むことで脳に対して行なっている、と私は捉えています。本当はもっと若いときにこの作業をしっかり行なっておくべきだったのですが、言っても詮無いことは言わないことにしましょう(言っちゃいましたが)。ある講演で「人は、明日死ぬ、というときまで成長の可能性がある」と聞きましたが、それが本当なら私はまだ成長の可能性が(たぶん)あるわけで、まだまだせっせと脳を本で耕し続けることにします。
ちなみに、12月に入ったときに読みかけで今でも読みかけのままなのは、
『悲しき熱帯(2)』レヴィ=ストロース 著、 川田順造 訳、 中央公論新社(中公クラシックス)、2001年、1400円(税別)
『ゼロ年代の想像力』宇野常寛 著、 早川書房、2008年、1800円(税別)
の二冊です。どちらも医療とはかすりもしない内容ですから、たぶんこちらに読書感想は書かないでしょう、というか、いつになったら読み終えるのかな?
ついでですが、このお正月、私は勤務に関しては出勤義務が全然ありません。さて、本を読む時間がたっぷり。図書館から『磁力と重力の発見』(山本義隆 著、 みすず書房)全3巻と『レ・ミゼラブル』(ヴィクトル・ユゴー、潮出版社)これまた全3巻、を借りてきてテレビの脇に積んでみました。見ているだけで読む前から満足感がこみ上げてにまにましてしまいます。
これが2009年最後の投稿(の予定)です。
本年はありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
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先週、ブログの読者の立場で、もし読後に何か反応をしたいと思ったらどんな手があるかと考えてみました。まず「推薦」ボタンがあります。m3のシステムがブログの記事の最後にこのボタンを用意していてくれて、それを押すとm3ブログのトップページに「医師による月間推薦記事ランキング」として集計結果が掲載されます。ただしこのボタンを押せるのはm3の登録メンバー(医師)だけ。m3に登録していない人だったら、できるのはコメントをつけるか自分や他人のブログでここのことについて触れるか、くらいでしょうか。どちらもそれなりにハードルの高さを感じます。
そこでこの27日に「人気ブログランキング」という所に登録をしてみました。これなら読者はお手軽にクリックだけで反応ができます。もちろんポジティブなものだけでネガティブな反応はできませんが、すべてがいっぺんに簡単に満足できる、というのは難しいでしょう。
ここはちょっと面白いシステムで、複数のカテゴリーに登録が可能で、クリックの配分も選べます。私は「転がるイシあたま」を「医学」と「本・読書」に登録して、配分をとりあえず「80%と20%」にしました。クリックされたら、「医学」で0.8クリック/「本・読書」で0.2クリックカウントされる、という仕組みです。できたら選択制(ブロガーが「この記事は医学」「この記事は本・読書」とか、読者が「この記事は医学の方に投票したい」とか選べる)だったら嬉しいのですが、残念ながらそこまでにはなっていません(一応要望は出しました)。なお、同一IPからのクリックは一日一回だけ有効カウントされるそうです。
で、参加してまだ数日ですが、週間ランキングで「医学」は21位/193人、「本・読書}は197位/728人、で上昇中、というまずまずのスタートです。もし記事がお気に召したら、クリックをよろしくお願いします(なおこの文章は、読者の皆さんにクリックを強制するものではありません)。
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貯まっていたメールを整理していて、ついさっきこんなものに気がつきました。
「年末年始、生活にお困りの方へ」というメッセージを厚労省がYouTubeで発しています。総理、副総理、厚労相、政務官がそれぞれ登場していますが、昨年「年末年越村の村長」で有名になった湯浅さんも政府参与として登場しています。
湯浅さんのパートは「【政府】湯浅参与メッセージ 年末年始、生活にお困りの方へ(12月29日)」
これは良いことだと思います。年末年始をなんとか過ごす手だてを政府が考えていること。国民に「見捨てない」とメッセージを発していること。
ただ気になるのはそのメッセージがちゃんとそれを必要としている人に届くのかどうか、です。せめてその一助になれば、と思ってここでも発信しておきます。
アメリカの小説にはときどき「シェルター」という表現が登場します。そこに行ったら、とりあえず寝る場所とあたたかいスープや食料が無料でもらえる、という感じで書いてあったと記憶していますが、日本でも、年始年末に限定せずに常設のシェルターを充実させた方が良いんじゃないかなあ、なんて思います(もしすでにそんなものが機能しているのなら、無知をお詫びします)。
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「「再びボールは医療界に投げ返された」、川崎協同病院事件の最高裁決定 ──医療界の不作為がもたらした有罪、安楽死の社会的合意形成が必要」(m3)
事件そのものについてはWikipediaに「川崎協同病院事件」もありますので、m3が読めない方はそちらあたりで概要を掴んでください。
法律の話以前に、脳死かどうかも確認せずに抜管したら苦しんだからあわてて鎮静剤と筋弛緩剤を注射して息を止めた、という話、と私は医学的に捉えています。消極的安楽死に私は反対の立場ではありませんが、それにしても準備不足で乱暴な話の進め方だ、と。
で、m3の記事で大磯義一郎さんは「これは最高裁からの「法理上自分たちは現行法の下では何もできないから、医療界がなんとかしろ」という強いメッセージである」と主張されています。
おことばですが、なぜ「医療界」に「ボール」を投げ返すのでしょう。「最高裁は法の番人」と私は学校の社会科で習いましたが、「自分は法律には逆らえないし何も決められないから、医者が法律を何とかしろ」(大磯義一郎さんの解釈)とはずいぶん無責任で横着な言いぐさだと私には思えます。それだと「番人」ではなくてただの「解釈屋」です。
大磯義一郎さんは「ガイドラインを整備すればよい」というご意見のようですが、どんなガイドラインだろうといざ裁判で「違法」と判断されたらお終いです。したがって法の整備が必要です。で、「法の整備」は現場の医者ではなくて行政と立法のお仕事ではありません? それとも、誰をどう安楽死や尊厳死をさせるか、の全国システムを医者が勝手に決めて良いんですかねえ。
というか、「医者は勝手をするな」が最近の風潮だったと思うのですが。
・患者の承諾無く医者が勝手に治療法を選択してはならない。
・医者が勝手に「薬はメーカー品に限る」なんてことを言ってはならない。
・たとえ家族の強い要請があろうと、医者が勝手に患者を死なせてはならない。
・おまけとして、医者は住居地や科を勝手に選んではいけない(これはまだ“未遂”ですが)。
それなのに大磯義一郎さんは「医者が勝手に安楽死や尊厳死の要件を決めろ」と。まあ、やってもいいですけど、まず間違いなく「社会」(特にマスコミ)には“却下”されると思いますよ。「ネット外でも暴走する医師たち」とか言われて。
方法論(どのような手段で安楽死や尊厳死を行なうか)は医者が決めても良いんじゃないかと思います。安楽死や尊厳死の基準に合致しているかどうかの判定も、医者が責任を持って行なうべきでしょう。
で、特に医者以外の読者の方に質問です。そもそも「(積極的あるいは消極的)安楽死や尊厳死を日本の社会で行なうべきか」やその次の段階の「どのような人に安楽死や尊厳死を行なうか」について、医者だけで勝手に決めて、本当に良いんです?
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他人のミスを激しくあげつらう人間の言動がどのくらい信頼できる(高く評価できる)ものであるかは、その人自身がミスをしたときに自分を他人と同様にきびしく扱うかどうかを見るまで、私は判断を保留いたします。
おっと、天に唾したかな?
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この前アステラス製薬がTVで「夜間頻尿は、お医者さんに相談を」とCMをしていました。「本当は○○ケア(薬品名)を使ってくれ、と言いたいのに、もどかしいことだろうな」なんて思いながら見ましたが、気になることが1.5個。「どうして製品名を宣伝できないのか」は、おそらく宣伝合戦になったり宣伝費が潤沢に使えるところが勝ち組になったらマズイから厚労省が禁止してるのだろう、と自己完結で回答できたので「0.5個の疑問」です。もう一つは、「実際にテレビでこんなことを言っていたから、相談に来ました」という人が外来に現われた場合、私がどう対応したらよいか、です。
内科医の立場から考えると、夜間頻尿の原因はいくつもあります。ざっと思いつくまま書いてみると……
1)尿量の増加
尿量が増えれば排尿回数も増える、という理屈です。単純な飲水量の問題から、水をつかさどるホルモンの異常まで、さまざまあります。
2)過活動膀胱
アステラスが狙っているのはここでしょう。膀胱が過敏になってしまって、ちょっとのおしっこでもトイレに行きたくなってしまう状態です。それは膀胱の“緊張”をほぐしてあげたら解決です。
3)不眠
「トイレに行きたくなって目が覚めた」と言われる方が多いのですが、その中には「目が覚めた、なぜだろう、ああ、トイレに行きたいんだ」でトイレに行かれる方がけっこうおられます。つまり「夜間頻尿」の原因が「尿」ではなくて「不眠」の場合があるということです。この場合の処方は「安眠」となります。
4)馬尾の圧迫
脊髄の一番下の所を「馬尾」と言います。これは見た目からつけられた名前ですが、ここがたとえば腰部脊柱管狭窄症(馬尾型)などで圧迫されると、膀胱(あるいは性機能)に障害が出ます。
5)膀胱の機械的刺激
泌尿器科や婦人科だったら、前立腺や骨盤内のなんらかの病変で膀胱が外から刺激されてそれによって頻尿、という状態になるのはおなじみでしょう。私は骨盤の中はあまりなじみではありませんが、内科だったら直腸癌などで膀胱が圧迫、などは忘れてはいけません。
6)その他
まだいろいろありそうですが、すぐに思いつかないので、とりあえず項目だけ置いておきます。
一つの症状だけからすぐに診断がついたら話は楽なのですが、現実はなかなか難しいものです。あ、だから「お医者さんに相談を」なんですね。
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これまで私が勤務する病院には学生実習で様々な「プロのたまご」がやって来ましたが、時には「体験学習」で近くの中学生や町内会の人なども出入りします。プロとは無関係の(中学生は将来医療系のプロになるかもしれませんが、とりあえず現時点では無関係の)一般人は大体介護体験をされていますが、そこで私の連想が始まりました。
病院には様々な人がいます。それらの「すべて」を体験できる体験型テーマパークのような病院があったら面白いのではないか、と思いついたのです。もちろんその病院は現実に活躍できるプロがワンセット揃っているものとします。そしてそのプロのそばに付き添って、現実に仕事はできないまでもその雰囲気を密着して朝から晩まで味わうことができる病院です。もちろん医者体験もできます。実際の診察場面の脇に立って、医者の仕事の流れをかぶりつきで“体験”です。夜も泊まり込んでもらって医師の当直がどんなものかも味わえます。
なお「すべて」と言った以上「すべて」です。「病人の体験」ももちろんできるのです。これは医学生や看護学生なんかにはお勧めコースでしょうね。数日だけの入院体験でも、それがあると無いとではプロになってからの心の持ち様や体の動きが違うはずです。
そうだ、医療事務の体験もできるのですから、そこで新しい医療事務システムの体験、というか、シミュレーションはいかがでしょう。理論的には上手くいくはず、で病院にシステムを導入してみたらあらびっくり、は困りますから、体験病院でまず「体験」してもらうのです。
……ただ「すべて」とは言っても、「モンスター患者をやってみたい」は勘弁してもらいたいな、と思いましたが「そういった人への対応を経験してみたい」という人とセットだったらOKかしら。
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高尾山は、江戸から甲府に抜ける最短ルート上にありますが、山道は険しく、修験道の道場でした。江戸時代に、表参道は一般の人がお参りをしたり富士登山(これもお参り)のために通行していましたが、山の裏側では、精神病者が長期逗留をして「水治療」を受けていました。滝のそばには旅館(一般人や症状の軽い病者用、明治時代には一日1円)や参籠所(精神病者や眼病者用、精神症状の重い人用に格子窓のついた隔離室もある、明治時代には1日38銭)がありました。療養目的の逗留は短くて3ヶ月、長いと数年ということもあったそうです。そこで、修行者に混じって、精神病者が滝に打たれて“治療”を受けていたのです。本書に載せられた宿帳の写真には、病名までちゃんと記載されています。
1889年には甲武線が新宿〜立川〜八王子まで開通し、高尾山詣でが楽になります。1927年(昭和2年)には、大正天皇の多摩御陵ができ、当局から「聖域近くに、精神病者が野放し状態で参集するのはいかがなものか」とクレームがつきます。その影響か、同年小林病院(精神科、内科)が開設され、1935年にはその近くの佐藤旅館が高尾保養院となり、それまで荷物を運んだり滝に打たれる介助をしていた「強力」が「看護人」として病院に雇われます。病院になっても滝療法は継続されましたが、統合失調症の興奮に対しては卓効があったそうです。
著者が高尾山の史料に夢中になって、焦点が安政年間よりあとに絞られてしまっているのが惜しまれます。たとえば『精神病院の起源』を読んでいれば、精神病者への「水治療」(滝に打たれる)が平安時代から主に密教系の寺院でおこなわれていたこと(漢方療法は室町時代頃から主に浄土真宗系の寺で、そして読経療法は江戸時代に日蓮宗系の寺で行なわれるようになった)に触れることで本書の記述がふくらみを増したでしょうに。
お話変わって、東京府。東京府で最初に公認された精神病院は「加藤瘋癲病院」でした。ただ、病院の名前にも時代の反映があり、たとえば「加命堂病院」は1846年(弘化3年)「小松川狂疾治療所」から始まって「癲狂院」→「小松川精神病院」→「加命堂病院」→「加命堂脳病院」→「加命堂病院」と名前が変遷しています。「脳病院」とは今の感覚では古風な名前ですが、命名当時は「精神病は呪いや狐憑きなど超自然的な原因によるものではなくて、脳の器質的な異常によって起きる」という新しい概念を反映した時代の先端を行く名前だったことでしょう。
1872年(明治5年)ロシア帝国アレクセイ大公が来日しました。それに合わせて東京では、こじき浮浪者240人の一斉狩り込みが行なわれ、彼らを継続収容するための施設として東京府頓狂院が1879年に設立、86年に巣鴨に移り89年(明治22年)に東京府立巣鴨病院と改名されました。
1919年(大正8年)に施行された「精神病院法」で、内務大臣は各道府県に公立の精神病院の設置を命じることができますが、道府県にきちんとした精神病院を建築する余力がないという事情がある場合、「代用病院」として民間の精神病院を指定することができました。本来の「県立病院」の「代用」です。なお、その建築費の半分は国が補助しました。さらに大きなイベント(一番大きかったのは、天皇の行幸)があるとその地域には精神病院を建てる予算が下りやすかったそうです(戦後も、天皇陛下の御幸があるとなるとまず国道が舗装された、を思い出します)。ちなみに、上に書いた「加命堂脳病院」も1920年(大正9年)に東京府代用病院に指定されています。
本書には面白い装置が紹介されています。ドイツで盛んに行なわれている「水治療器」Dampfdusche(ダンプドゥーシェ)です。本書の写真では、個室ブースのミストシャワー装置ですね。1932年の赤城山滝沢療養所ではこの装置と滝療法を売り物にしていたそうです。(ネットの画像では、http://shop.ms-company.de/index.php/cPath/262にいろいろ並んでいます)
戦前に「精神病院」は約5万床になりましたが、終戦直後は5000床になっていました。理由は空襲による焼失と、軍の接収です。本土決戦で大量に発生するであろう傷病兵に備えるため陸軍が次々入院患者を追い出して陸軍病院として確保したのでした。追い出された人がどうなったか? 精神症状、空襲、食糧不足、結核の蔓延……確証はありませんが、悲惨な末路だったのではないかと想像はできます。それでも『灰色のバスがやってきた』(フランツ・ルツィウス)よりはマシと言えるのでしょうけれど(障害者を施設から連れ出すときのナチスの口実も「傷病兵のために空きベッドを作る」でした。ただし輸送の優先順位は、症状の重さとユダヤ人かどうか、で、連れ出された直後に次々「事故死」や「病死」の通知が家族に届いたのですが)。
「衛戍病院」という耳慣れない言葉も登場します。私も知らなかったので国語辞典を引くと、「衛戍(えいじゅ)」とは「軍隊が一つの土地に長く駐屯すること」を意味し、衛戍病院は日本陸軍の衛戍地に建てられた病院のことです(1936年に「陸軍病院」と改名されました)。徴兵された人々はちょうど統合失調症の初発年代でもあり(公には否定されていましたが、戦争神経症もあったはずです)、初期対応をする衛戍病院精神科とその後方病院として継続治療を行なう精神病院は密接な関係があったはずです。ただ、その実態は明らかではありません。帝国の軍人が精神病院に入院するなんてこと自体が当時は「軍機」だったのでしょうね。
書誌情報:『精神病院の社会史』金川英雄・堀みゆき 著、 青弓社、2009年、2800円(税別)
参考図書:『精神病院の起源』小俣和一郎著、太田出版、1998年、2800円(税別)
『灰色のバスがやってきた ──ナチ・ドイツの隠された障害者「安楽死」措置』フランツ・ルツィウス 著、 山下公子 訳、 草思社、1991年、2136円(税別)
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初期研修が終わって、私は中山間地の病院に派遣されました。ところがその冬はまれに見る大雪の年でした。
ある冬の日、当直が明け、雪を踏みながら約35時間ぶりくらいに帰宅した私を迎えたのは、凍りついた家でした。「水道管が凍りついて破裂するから、細く水を出し続けておくこと」という教えを守っていたのにそれも虚しく、洗面所と風呂場の水道は死んでいました。台所の流しには、ステンレスの上に氷の石筍ができていましたが、ここは何とか水が出ました。ただし氷のためにゴムパッキンが破壊されていて、今度は水を止めることができなくなっていましたが。
私はとりあえず台所でくんだ水をぬるま湯にして、風呂の水道管の復活を試みましたが、無駄な努力でした。まあ、暖房器具がない家(研修医の時には「暖かい家でくつろぐ」という時間が無かったので、暖房器具を揃えないままこの地に来ていたのです)で風呂に入ったりしたら、湯冷めで体が凍りついていたかもしれませんが。(そうそう、トイレはくみ取りだったので問題ありませんでした)
次の日私は、火の用心の観点から石油ストーブは買いたくなかったので、一番近くの電気器具店(ナショナル特約店でした)に出かけて、電気炬燵とポータブル布団乾燥機を買いました。布団乾燥機は、布団大のマットを敷き布団と掛け布団の間に突っこんでスイッチを入れたら両方がいっぺんに温もるという優れもので寝る前に使えばぬくぬく寝られるし、しかも温風暖房機としても使える、という目論見でした。これだけでなんとか大雪の冬を乗り切ったのですから、若いというのは大したものです。しかし、朝目が覚めたら窓の内側に氷が張っていたり、かけ布団の縁の息があたるところが凍っていたりする、なんて体験はなかなかできないものです。もう一度やれ、と言われてもできません(したくありません)けどね。
ちなみにこの炬燵、今でも使っています。さすがにヒーターは先週壊れたので別売りのヒーター(とコントローラー)を買ってきて木ねじでやぐらに取り付けました。
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薬理学の授業で医学生は「in vitro」と「in vivo」の概念をたたき込まれます。(最初は「医者は「in vitro」と「in vivo」の概念を持っています」と書いたのですが、すべての医者が持っているわけではないよなあ、と気づいて上記のように訂正しました)
「in vitro」の語源はラテン語で「ガラスの中で」→「試験管内で」という意味です。「in vivo」は「生体内で」。(ついでですが、ガラスはけっこう古くから使われています。完全な保存状態で現存する最古のガラス容器は、トトメス三世(BC1502-1448)の紋章入り杯(大英博物館所蔵)だそうです)
たとえばある化学物質が「薬」として使えるかどうか、実験室の中でいろいろやったら生化学的に好ましい化学反応を起こしてくれることがわかった……これは「in vitro」です。ところがそれを実際に動物実験や人体実験をしてみたら予想外のとんでもない副作用が出てきた……これは「in vivo」の話です。
こう説明したら明らかに違うことは誰でも納得できるのですが、ところが具体的に薬物について話を始めたら容易に“誤魔化”されてしまうことがあります。
俗に「痛み止め」「熱冷まし」と呼ばれる鎮痛消炎解熱剤はプロスタグランジン(炎症や発熱作用を持つ)の生合成を阻害することで効果を発揮します。
しかし、そこで話は終りにはなりません。試験管の中ならそこでお終いですが、生体の中では話が違ってくるのです。
アラキドン酸(不飽和脂肪酸の一つ)にシクロオキシゲナーゼ (COX) が作用するとプロスタグランジンG2 (PGG2) が合成され、そこからいろいろあって最終的に様々なプロスタグランジン類かトロンボキサンが得られます。ところがこのアラキドン酸にリポキシゲナーゼが作用するとロイコトリエン(アレルギーの化学伝達物質の一つ。強力です)が合成されます。本当はもっとややこしいのですが「そんなものだ」と読み流してください。ついでですが、アスピリンはCOXの働きを阻害します。
で、「薬を投与する側」から見たら目的のプロスタグランジンができなくなればそれで「めでたしめでたし」ですが、「投与された側」から見たらどうでしょう。
プロスタグランジンの生合成が活発に行なわれるのは、生体が何らかの理由でそれを欲しているからです。ところがそこに人為的なストップをかけたらどうなるか。たとえば日本の官僚はそこで話がすっぱり終わるのを好むでしょうが生体はそうはいきません。「余った」アラキドン酸はどうなると思います? 中にはロイコトリエンへのルートに乗ってしまうものも多くいるかも、と思いません? 「アスピリン喘息」(アスピリンなどの鎮痛解熱消炎剤を使った後気管支喘息の発作を起こす)の原因はまだ完全解明されていないはずですが、このルートを考えている人はけっこう多くいます。
人体内で化学伝達物質は複雑なネットワークを作り、それぞれがネガティブまたはポジティブなフィードバックをかけ合っています。そのうちの一つだけを人為的に操作した結果がどうなるか(複雑系の世界において「ルーマニアで蝶が羽ばたいたら、フロリダでハリケーンが発生する」かどうか)は、今のところ誰にもわかりません。プロスタグランジンには様々な種類がありますが、発熱や痛みで人体に「迷惑」をかけているのではなくて、実は最終的には人体にとてもよい物質だった、というのがオチかもしれません(最もシンプルには「炎症や発熱によって、細菌やウイルスに対しての“環境悪化”を起こして死滅させやすくする」なんてことはすぐ考えつきます)。
薬物が単体としての化学物質でもこの騒ぎです。漢方薬の場合にはもっと話がややこしくなります。なにしろ「単体」ではありませんから。
ご存じだと思いますが、ほとんどの漢方薬は複数の生薬が組み合わされて構成されています(中には「甘草湯」のようにたった一つの生薬から成立しているものもありますが、これはむしろ例外です)。さらにその「生薬」自体が化学的には純粋な単一物質ではありません。様々な物質が複雑に混じり合っています。さらにそれらの生薬は動植物由来ですから、「化学物質」として毎年同じ品質のものとは限りません。産地によっても成分が異なります(中国と同じ植物を日本に植えて「地産地消」と言っても、同じ成分を同じだけ含んだものが育って同じ効果が出るとは限らないのです)。
ややこしいでしょ? でもここまではまだ「in vitro」の話。私はここから「in vivo」の話を始めます。覚悟はよろしいですか?
話を単純にするために「ただ一つの生薬」を飲み込んだ、としましょう。ところがこれでも話はちっとも簡単になりません。
まず用法の問題があります。薬物がその効力を発揮するためのは、血液に入ってそこで標的臓器に運ばれレセプターに結合することが必要です(湿布とか塗り薬のことはちょっとの間忘れてください)。漢方薬には生薬を粉にしてそれをそのまま服用するもの(薬名が「○○散」)もあれば、熱湯で成分を抽出するもの(薬名が「○○湯」)もあります。ここで「同じ生薬」でも「生」か「熱湯処理」かで消化吸収に差が出て結果として「人体に対する作用」に差が生じることは簡単に予想できます。
さらに「消化管の環境による修飾」が加わります。飲み込まれた生薬はまず胃液に出くわします。食後だったらpHは相当上がっているでしょうが空腹時ならpHはすごく下がっているはずです。胃酸過多と胃酸があまり出ない人とでも胃内のpHに差が生じます。これによって生薬の成分変化は各人で異なっていきます。まだ話は続きます。
胃から出たら、胆汁と膵液、そして腸液のお出迎えです。もちろんここにも個人差があります。大腸に入ったら大腸の細菌たちが生薬の成分を盛んに食って別の形に変えていきます。この細菌叢にも個人差があります。こうして消化液や細菌によって形を変えられた(中間代謝物となった)「物質」もそれぞれの「薬理作用」を持っています。
こういった「消化管の内部の環境」の差によって、同じ生薬を飲んだとしても最終的に体内に吸収される「薬物成分」には人によって相当な差が出るのです。
漢方では「証」を重要視します。これは「薬物の証」と「病人の証」と「病気の証」とに分けられてそれぞれを解説するのは大変なのですが、「病人の証」(人の体質によって、同じ症状でも使う漢方薬が異なる)とはつまり上に書いた「消化管の環境の個人差」のことも含んでいるのではないか、と私は想像しています。
だとすると、近代医学の薬理学(単一の物質に対する標準的な人体モデルの反応を基準とする考え方)は漢方薬を解析するには向いていません。成分は単一でも均一でもなくて複雑系で個人差があるのですから。
それでも科学的な態度で薬理学的に漢方薬を扱おうとする手段はあります。たとえば統計的なものが考えられます。あるいは「最終的な代謝産物を含んだ血液そのもの」を「粗な薬物」として扱う「血清薬理学」。
「血清薬理学」とはなにやら怪しそうな名称ですが、その発想は実はシンプルなものです。昭和薬科大学の病態科学研究室のサイトなどにその解説があります。
科学で漢方薬を解明するためには、科学の方をいろいろ調整する必要がありそうに私は思っています。漢方薬を科学に合わせて改造したら、薬としての効力がなくなっちゃうかもしれませんから。
※私がゾロ品を信用しないのは、その「効力」が試験管の中では確認されていても生体では確認されていないからです。「化学物質」としては先発品として同等でも「薬品」としては同じとは言えませんから。こんなことを書いたら「溶解試験」「人工胃液」なんて言い出す人がいそうなので、先回りしておきましょう。それらはあくまで「in vitro」の話でしかありません。ですからその程度のことをいくら強く言われても、「in vivo」では?の私の疑念は1ミリグラムも軽くなりません。
ここまで書いたら疲れたので、本日はここまで。この件に関してはいつかまたエネルギーが貯まったら書きます。書くことでなんかスッキリしたのでもう書かないかもしれませんが。
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