何でもかんでも電子化すればいい、というものではありませんが、やはりその恩恵は大きなものです。たとえばこのブログ、もし紙に手で書いて掲示板に貼れ、と言われたら私には実行困難ですし、もし貼れたとしても誰も読んでくれません。だって私の肉筆は自分でも解読困難なのですから。日本語が読める人になら誰でも読める字で書いてくれるITさまさまです。おかげで「手書きをする」ことはずいぶん減りました。
この前自分の手をしげしげ眺めていたら、中指のペンだこがほとんどなくなっているのに驚きました(「ボールペン」で書きましたが、私は筆圧が高いのです)。かつてはぽこりんと盛大に飛び出していたのに今はかろうじてかすかに膨れているのがわかる程度になっています。得るものもあれば失うものもある、それが人生なんですね(ちょっと大げさかな)。
そういえば、と左手を見たら、案の定左手指先にあったギターだこも消失していました。若いときにあんなに熱心に弾いていたのに、記憶だけではなくてこうやって人は形としても“昔”を失っていくのです(しみじみ)。
ところで耳にできる胼胝は、耳のどこにどんな形でできるんでしょう?
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私が映画(特に邦画)を見ていてうんざりするのは、たとえばタイトルがやたら巨大な文字(たとえば一画面一文字)で表示されたときです。「字がでかければインパクトがある」という素朴な発想なのでしょうが、こちらは何を観に来たのかわかっているわけですし、それなのに「あ・い・う・え・お」と読まされるのは単なるエネルギーの無駄遣いに感じます。中くらいの字でも、真っ赤でなくても、タイトル文字を目立たせることはできるのです。あのへんはプレゼンテーションのセンスとテクニックの問題でしょう。
似たことは、医学系の雑誌などを読んでいるときにも感じます。ページをめくっていて見開き全面の広告(つまり2ページ丸々ひとつの広告)に出会うと、よほど興味を持っているもの以外では私はさっと次のページに行ってしまいます。なにしろ医学系という前提がありますので出てくるのはまず間違いなく医薬品の広告です。安心して読み飛ばすことができるのです。
これは広告主としては心外でしょう。わざわざ高い金(ですよね?)を払って広いスペースを占有したのに1秒未満で読み飛ばされてしまうのですから。(ただし、それは私の場合であって、他の人がどうかは知りません)
もし私が読みたい広告があるとしたら、たとえば記事と連動している広告がその記事と同じページ(またはその次のページ)にある場合とか、いろんな会社がコラボして「一つの病気をコントロールするのには、これだけ手段がある」と示しているとか、そういったものの場合でしょう。たとえば「敗血症の基礎」「最新の治療法」の記事が並んでいてそのすぐそばに「良い抗生物質(とその正しい使い方」なんて広告があったら、私はその知識を“刷り込”まれてしまうかもしれません。
私は素直な人間なのです(本当に素直な人間はそんなことを強調しないって? ごもっとも)。
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