理非曲直ということばがありますが、ふつう人は「曲がったこと」を嫌います。逆に「まっすぐ」が好まれます。(タテマエとしては、ですが。でないと、この世にこれだけ「曲がったこと」がはびこる理由がわかりません)
ところが自然界には「まっすぐ」はほとんど存在しません。「水平線」でさえ曲がっています。ですから、カモフラージュ理論では、形態の中の直線や見慣れた形(たとえば人影)をいかに崩すか、が重要となっています。
そういえば「背筋をまっすぐに」と無理なことも求められますし「千鳥足」は高く評価されません。
しかし、生理的には湾曲している背骨がまっすぐになるのは、多くの場合病的です。たとえばひどい痛みなどで背中の筋肉が異常に緊張した場合など、脊椎骨はみごとにまっすぐになります。
また「まっすぐ歩く」ことは人間にとってはどうなのでしょうか。モデルの訓練をテレビでやっていましたが、たしかに直線上をまっすぐ歩くように足を運んでいます。しかし、その結果は骨盤(とその上の背骨)に負担をかけているように私には見えます。
「おおむねまっすぐ」で、良いんじゃないです?
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30年くらい前のこと、大学の実験室で私はマウスにアンジオテンシン1という物質を注射していました。すると血圧がひょいと上がって戻ります(マウスの動脈に糸のように細い手作りカテーテルを留置しておいて、直接血圧が計測できるようにしてありました)。アンジオテンシン1はアンジオテンシン変換酵素の働きによってアンジオテンシン2になり、そのアンジオテンシン2が受容体に結合して血圧上昇作用を示します。ところがアンジオテンシン変換酵素の働きを阻害する薬物を先に投与してからアンジオテンシン1を注射すると、それほど血圧上昇がありません。
高血圧治療のためのアンジオテンシン変換酵素阻害薬(ACE阻害薬)が発売されたのはそれから数年後のことですが、当時の私はそんなことを知るよしもありませんでした。ただ目の前の血圧の動きを面白がっていただけです。
腎臓からはレニンという物質が分泌されています。腎臓への血流が落ちたりするとレニンの産生が増え、このレニンによってアンジオテンシノーゲンがアンジオテンシン1に変化します。それがアンジオテンシン変換酵素の働きによってアンジオテンシン2になり、アンジオテンシン2はアルドステロンというホルモンに働いて最終的に人間の血圧は上がります。これを「レニン・アンジオテンシン・アルドステロン系(RAA系)」と呼びます。腎臓の血流が落ちたのは血圧低下による、これは大変だ補正しなきゃ、で血圧を上げることで腎臓の血流を回復させる、という流れです。このメカニズムが解明されたのはたしか100年くらい前だったと記憶しています。
最近までRAA系に働く薬は、前述のACE阻害薬と、アンジオテンシン2が受容体に結合するところをブロックするARBの二系列でした。で、最近レニンそのものをブロックする直接的レニン阻害薬が発売されました。これでRAA系で人の手が関与できるすべての種類の薬が出たと言えるでしょう。ずいぶん長くかかったなあ、というのが個人的感想です。私がマウスに注射をしていた頃から考えてももう30年ですからねえ。
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ちょっと長くて申し訳ないし、人のふんどしで相撲を取るようで忸怩たる気分ではありますが、以下の二つの記事を読んでください。(最初のは会員制なので読めない人にはごめんなさい、ですが)
新型インフルエンザ感染によって明確にあぶり出されてきた日本の厚労省の抱える根本的な問題点についての指摘と改善に関する重要な発言、と私は捉えています。できましたらまずはご一読下さい。
「新型インフルエンザ/方針転換は不可避、「分からない」を受け入れるべき--自治医科大学・森澤雄司氏に聞く「これを機に日本の医療の現状を広く議論することが重要」」(m3.com 医療維新)
「【新政権の課題】 必要なのは、日本版ACIP(JCIP)!(日本の予防接種をよくするために) 岩田健太郎」
重要なのは、単に「ワクチン行政」についての技術面での話ではないことです。医療行政全般に根本的・構造的な問題点が存在すること、そしてそれを何とかしないと日本の医療がますます壊されていくことが容易に予想できることが問題なのです。
他人の発言を紹介して簡単に感想をつけるだけですませるのもナンですから、私の言葉での考察も書いておきます。
日本の官僚機構で問題なのは「原則」ではなくて「規則」の方を重要視する人が多いことです。
ただそれは理解できます。原則では飯が食えないが規則では飯が食える。原則には罰則はないが規則には罰則がある。
さらに日本では社会的な決めごとに関して「原則」という言葉が持ち出されるのは多くは“それ”が守られない(守らない)状況の時です。「〜が原則だけど……」「原則的には〜だが……」といったことばはその「原則」が破られることを示しています。「〜が原則だから、守りましょう」と言うと、日本語としてはなぜか違和感が生じたりそう主張する人が敬遠されることが多い。(政治約束の明示であるマニフェストでさえ「政権を取ったから、マニフェストを守る」と党首が言ったら、「何を青臭いことを言っているんだ」と否定的な雰囲気が生じる、という日本の風土の影響かもしれません) 日本社会での「原則」は、まるで道路の最高速度制限のように「たしかに決まりは決まりだが、守る人はいないもんね」の世界のようです(*)。
しかし、敢えて言いましょう。医療行政で「原則」を欠いたら、国全体が迷走します。今のように。
「何のために行政を行なうのか」「誰のために行政を行なうのか」「手続きを誰がどう行なうのか」「決定を誰がどう行なうのか」「決定を誰がどうやって広報するのか」「決定の効果を誰がどう評価するのか」「その評価を次の決定にどう生かすのか」「その評価を誰がどうやって広報するのか」……それらの(規則ではなくて)「原則」が明確で、その上で緊急事態にはアドリブで対応するようにすれば良いのです、最初から原則無しのアドリブありき、ではなくて。もちろんこういった「原則」もまた定期的に見直しをします。(こう書くとまるで「アドリブ否定」のようにも見えますが、私はアドリブは高く評価しています。たとえば優秀なジャズプレイヤーや優秀な救急医はアドリブの名手です。ただしそれは、基本がしっかりしていて経験が豊富で結果をすぐに自分にフィードバックする能力を持っている人だからつぎつぎ素晴らしいアドリブが繰り出されるわけで、素人や下手くそな自称プロの行き当たりばったりとは根本的に異世界のものです)
たとえば今回のような新興感染症は、これからもまた次々登場します。その時にまた「アドリブ」でどたばたをするのではなくて、たとえば専門家会議を招集するのなら、そのとき厚労省の課長が適当に自分の好みで指名したりするのではなくてあらかじめ招集リストを公表しておきましょう。リストの人選に異議や提言のある人は平和なときには公開で討論すればいい。で「いざ鎌倉」となったら、リストの上から順々に電話していって、緊急に駆けつけることができた人だけで専門家会議を開催するのです。そういった人的リストは考えられる緊急事態ごとに作ってあらかじめ公開しておけばいいでしょう。(ところで、厚労省に限りませんが、日本のお役所が大好きな有識者会議、人選の基準と選考の“原則”とその具体的過程は明確ですか?)
原則・基本方針・戦略、なんと呼んでも良いのですが、ともかくそういったものを「科学」と「政治」で確立した上で公開、さらにその原則を現実化するための手続きに透明性を確保しなければ、結局今の「目先の医療」と「官僚」で行政を推進されるだけになってしまうでしょう。結果は「規則のジャングル」と死屍累々です。
*)道路の最高速度制限は、機械的な一律制限であることに大問題があると私は考えています。道路ごとに“危ない速度”は違うはず。だったら「この道路では自動車がこの速度を超えたら人身事故の確率がどんと増す」速度を道路ごとに明示する、という“原則”を示した方がいいのではないか、と私は考えています。
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あ、打ち間違えた、「打ちました」です。脳になにか来たかな?
3600円払って、「医療者優先」というふれこみのワクチンを昨日打ちました。散髪しようと思っていたお金が飛んでいきました。この領収書、来年の確定申告で医療費のところに使えるのかな?てなことはさておき、隣の市のある総合病院では看護師さんが3人気分不良で倒れた、なんて噂も伝わってきていたので、ちとびくびくものです。まったく、大規模人体実験なのだから、せめてそのコストは国が少しは負担して欲しいものです(社会的なメリットは国が享受し、リスクは個人が負担するのですから)。さらに言うなら、「説明」もきちんと実験の実施者である国がするべきでは?(それとも「政治主導」だから、説明責任は官僚ではなくて政治家にある、という認識なのかな? そうだとしても「国の施策についての説明は民間医療機関の民間人がするべきだ」とはなりませんよね)
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今回東京で“お勉強”をした中に、西内さんという弁護士の講演が一つありました。タイトルは「医療ADR 〜東京三弁護士会の医療ADRを中心として〜」。(「三弁護士会」って何だ?と思ったら「東京弁護士会、東京第一弁護士会、東京第二弁護士会」の三つのことだそうです。さすが帝都、弁護士会が三つも必要なんですね)
話のなかで、まず訴訟とは一般的にいかなるものか(民事訴訟法などにより手続きが法定されており、その手続きに従って審理が進められ、被告には応訴義務があり(出廷して争わないと相手の言いなりに判決が出てしまう)、証拠調べ(証人尋問など)が行なわれ、それに基づいて判決を行なう(ただし、裁判手続きの中での和解もあり得る)。開始から終了までのすべての手続きが法により厳格に決められており、最終的には裁判所が判断するところに従って判決することにより解決するという国家権力に基づく権力的な紛争解決手続き、である)、が示され、ついで医療裁判そのものに関する問題点が列挙されたスライドが登場しました。以下の5点です。
1)裁判の長期化(ただし最近は24ヶ月に短くなってきたそうです。それでも一般裁判の6.5ヶ月よりはるかに長いのですが、一般裁判でも証人尋問を実施する裁判の平均値は18.7ヶ月(平成20年)だそうです)。
2)訴訟は「責任(過失、因果関係)の有無と損害額につきその範囲内にて可能な限りで判断するシステム」であることから、患者側の求める真相究明(=事故経過の全貌)が必ずしも明らかになるわけではない 。
3)事故の原因となった医療提供システム全体を分析するものではないことから、事故の再発防止には必ずしもつながらない。
4)原告と被告の対審(対立)構造がとられて相互に攻撃と防御の手続きを行なうことから、患者側の求める感情的な癒しや対話・説明・謝罪などの多様なニーズを実現することはできず、かえって対立がエスカレートしがちであり、お互いに真意が伝わりにくい。
5)患者側・医師ともに訴訟の準備や打ち合わせのために多大な労働と時間及び経済的なコストを負担しなければならない。
だから「対話」のためには「医療ADR」を活用しましょう、というお話でした。
参考までに「医療事故紛争とADRのあり方に関する提言書」(東京三弁護士会)
実際に始まったときの「スタート!医療ADR」というページはこちら。
対立を求める人は訴訟/対話を求める人はADR(それも司法ADRではなくて医療ADR)/調査・システム改善による再発防止は真っ当な調査委員会、という使い分けが良さそうです。
講演自体は大変面白かったのですが、それ以外に“言外”のところで気になることがありました。何回か「経験豊富な弁護士だったら、スムーズに手続きが……」「患者側にも病院側にも経験豊富な弁護士がいれば……」という言葉が繰り返されたのです。ということは、経験が豊富ではない弁護士や見識がなかったり動機が不純な者が関与したら、対立がますます激化することがある、ということに関しても西内さんは経験豊富なのでしょうか。(立場上言えないこともあるでしょうが)
論語に「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」とありますが、「意見が違う」ことはすなわち「対立する」とイコール、ではありません。意見が全く違っていても穏やかに話し合うことは可能です。たとえどんなに意見や持論や立場が異なっていても、対立前提で争うのではなくて穏やかに話し合うことで解決を探る方法もあるはずなのです。
そうそう、東京三弁護士会の医療ADRには仲裁委員として「患者側代理人経験者」「医療機関側代理人経験者」も加わりますが、それは「どちらかの利益代表」としてではなくてあくまで「中立の立場で、自分の経験を生かして仲裁に関与する」ためだそうです。西内さんはこのことを何回も強調されていました。「利益代表者」が自分の立場だけを強く主張したらそれは容易に「対立」になってしまうからでしょう。繰り返しますが「対立」をしたい人は、ADRではなくて訴訟の方に行けば良いのです。
ちなみに日弁連ADRセンターでは、札幌・仙台・名古屋・大阪・広島・福岡の各弁護士会にも東京モデル(3人体制)と同様の医療ADR設置を推進しているそうです。お近くの方はお楽しみにお待ち下さい。(岡山には全国4番目の医療ADRが設置された、と読んだ記憶があります)
「来た見た勝った」ではありませんが、今回東京には本当に「(仕事が済んでから夕方)出かけてホテルで寝て朝から勉強して夜遅く帰った」だけでしたが、その間に「借金相談」の広告を何回見たかなあ。「経験が豊富ではない弁護士」が多くなって“生存競争”が厳しくなったら、「もしかしたら医療ミスではありませんか? 相談はこちらへ」の広告があちこちに出るようになったりして…… いや、それが「経験豊富な弁護士」のものだったら良いのですが。
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非常に誤解をされやすい言葉です。この言葉を、「人格に欠陥がある人」という解釈をしている人はけっこう多いのではないでしょうか。かつて日本(の精神科)では「境界例」と呼ばれたことがありますが、DSM-IVでは「人格傾向とは、環境および自己を認知し、かかわり合い、それについて考える様式が持続しているもので、広範囲の重要な社会的および個人的状況において示されるものである。人格傾向において、柔軟性がなく、適応不良で、著名な機能の障害か、または主観的苦悩の原因となっている場合にのみ、人格障害に相当する。人格障害の症状は、しばしば青年期か、それ以前までに認められ、成人期のほとんどを通じて持続するが、中年から老年期には、あまり目立たなくなることが多い」とした上で、「妄想性」「分裂病型」「反社会性」など10に分類されています。(DSMをそのまま日本で採用してよいのか、という議論もあったとは思いますが、私が知っている精神科医は基本的にDSMを使っているので私もそれに従います。異論が言えるほど知識も経験もありませんので)
さらに10の人格障害の中に「境界性人格障害」もあってこれまた「境界」が登場するので、話が混乱する元となります。だから無造作に“略語”で「境界」は使わない方が良さそうです。
2003年のDSM-IV-TRの日本語訳から「パーソナリティ障害」が使われるようになり、日本精神神経学会では2008年5月に「人格障害(Personality disorder)」を「パーソナリティ障害」に用語改定をしているそうです。つまり「人格障害」は「痴呆」と同様、“過去の言葉”です。
しかし、「人格障害」→「パーソナリティ障害」は、単なる言い換えのようでもありますが、語感は相当違うように感じます。だって「人格障害」だと「その人の人としての存在そのものを丸ごと否定」のようですが「パーソナリティ障害」だと「人の一部の障害」のように聞こえません?
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日本プロ野球のクライマックスシリーズや日本シリーズの話題を見ていて、ふっとこんな妄想が頭を過ぎりました。なお、特定の試合や特定のチームや選手をモデルにしたものではありません。
サヨナラ負けを喫した某チーム、試合後のロッカールームは雰囲気が荒れていました。とうとうつるし上げが始まります。まずその対象とされたのは、サヨナラホームランを打たれたリリーフA投手。最初はじっと我慢していたA選手ですが、あまりの罵詈讒謗にたまりかねて「そりゃ、ホームランを打たれたのは悪かったけれど、満塁にしたのは俺じゃないぞ。満塁にした人間には責任はないのかよ」と言ってしまいました。ほとんど名指しされたも同然の、A選手の前に投げてB投手は青ざめます。自分が全責任を負うのか? そこで“戦線の拡大”を行ないました。「四球で満塁にしたのは悪かった。だけど、こっちだってランナーを背負った状態で投げにくかったんだ」。あわてて9回頭まで投げた先発のC投手が口を挟みます。「負けたのはピッチャーだけのせいか? 9回表、ノーアウト満塁で三者連続三振なんてことをされたから、肩に力がはいっちまったんだよ。あそこで1点でも入っていたら……」。
さあ大変。ロッカールームは大きく“盛り上がって”しまいました。あちらでは投手と捕手が「お前がノーコンだから」「サイン通り投げたら打たれたじゃないか」とやり合っています。こちらでは野手同士が「そもそもエラーでランナーを出すから……」「最終回のエラーだけが野球じゃないだろ。初回のお前のエラーから取られた1点が最後で効いているんだぞ」「3回のチャンスで凡退した奴が偉そうに言うな」。
医療裁判で患者側専門の弁護士だったら、いろんな理屈を駆使してこの中の誰でも“戦犯”にできそうです。ただ一つ、確かなことがあります。このチームは、明日も負けるでしょう。
※新幹線の中からe-MobileでMacBookProをネットにつないでみました。いやあ、ちゃんとつながるんだ。文明の進歩、万歳! 私は、さすがに音響カプラーは知らない世代ですが、モデム接続は1200とか2400bpsから知っていて、出先での接続にはけっこう苦労した体験を持っているものですから、こんなに楽にネット接続できる時代は、大好きです。
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お酒を熟成させるためには、長い時間と落ち着いた環境が必要です。
それと似たものに、思考があるでしょう。思考を深化させるためには、時間と孤独が必要です。環境に関しては、がやがや騒がしいところで考えるのが好きな人もいるでしょうが、その場合でも回りと一緒にわいわい騒ぎ続けていたら思考を深めることはできません。じっと考え込む孤独の力が必要です。
しかし、孤独なだけでは思考は熟成しません。そもそも孤独な俗人だったら独りよがりの迷宮に深入りするだけですし、すばらしい思考をする人であってもずっと孤独だったらそれは世の中から見たら、文字通り「世間離れ」になってしまうだけです。ある程度思考の枠組みができたら次にコミュニケーションによって思考の中身に外から刺激を与えることが必要です。思いもかけぬ視点や発想を得るためだけではなくて、自分が考えていることが他者と共有可能なものかどうかを確認するために。
つまり思考をまともに行なうためには、「孤独」と「コミュニケーション」の両方が必要なのです。
社会的存在としての人は元々孤独とコミュニケーションのバランスの上に生きていますが、思考もまたその例外ではない、というだけのことかもしれません。さらに「個の思考」ではない「社会の中の思考(人々の共有物としての思考)」が成立するためには、「個人の思考」に対して共有/共感/共鳴が必要となります(反感/反論もあるでしょうが)。
そういえば「コミュニケーション」の接頭語「コム」は「共」でした。ですから「共〜にはコミュニケーションが必要」と言うのは、同義反復をやっているだけかもしれません。
ふと思ったのですが、現在のブログという形式は、一方的な発信から掲示板的なわいわいがやがやまで各ブロガーが自分の孤独度に合わせて調整可能な点から、孤独とコミュニケーションがけっこう良いバランスで成り立った世界と言えるのかもしれません。ただ、個無ニケーションや孤夢ニケーションで終わってしまっているところもけっこう多いようですが。
……私のこのブログは、どうなんだろう。またちょっと思考の深みに沈みたくなってきました。
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私がふだん使う通勤路は、学区の中学校の生徒たちの通学路でもあります。ですから狭い道に一杯に中学生がぞろぞろ歩いていて、こちらはその隙間を「ちょいとごめんなさいよ」とバイクで通る、といった状況なのですが……今日はずいぶん生徒の数が少なくて変な印象でした。正確に数えたわけではありませんが、感覚的に普段の半分くらいの感じです。彼らの年代だと「人数が2倍になったらうるささは4倍」ですから(今作った「おかだの法則」です)、人数的には2/3くらいだったのかもしれませんが。まさか今日に限って遅刻者が大量発生というわけでもあるまいに、とちょっと不思議に思いました。
職場には例によって市医師会からの「インフルエンザA型発生動向調査」が届いていたのですが、それに付属している「学級学年閉鎖などの報告」にその中学の名前が登場していました。なるほど、学級閉鎖の影響だったのかな。ただ、まだ学級閉鎖となっていますが、あの登校者数の少なさでは、明日には学年閉鎖以上になってしまうのではないかなあ。
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敏感な人は「あ、今、とんだ」とわかりますが、「脈がとぶ」のはわかってもわからなくても気持ち悪いものです。「あなたは不整脈です」と言われた患者さんの多くは「不整脈 → 心臓麻痺」を連想してか、とても不安そうな顔になります。
ただ、心臓の身にもなってください。毎秒1回打つとしても、1時間に3600回、1日に86400回、1年に3153万6000回も脈を打たなければならないのです(なお、閏年には3162万2400回になります)。「生身なんだぜ。1秒の休みさえなくずっと働いているんだ。1万回に1回くらいミスってもしかたないだろ」と心臓が主張しているのが聞こえそうな気がします。
実際に、(詳しい数字は忘れましたが)「心臓のミス」はけっこうあります。時々さぼったり、あるいは余計な拍動を入れたり。問題はそういった異常な拍動(不整脈)が、有害かどうか、有害な場合致命的なものかそうでないか、です。致命的なものはもちろん即座に治療開始ですが、有害だが致命的でないものは急がずに治療を開始かあるいは精密検査の上で、でしょうか。
このへんの「異常と病気は別、病気でも治療が必要なものと治療が必ずしも必要でないものとは分けて考える」のは医者の発想として当然です。ただ、世の中ではその辺の区別をきちんとしない場合も多いようです。というか「医者は病気と言ったらなんでも治したがる」ということばもあるので、医者も何種類かに区別した方が良いのかもしれません。
特にこわい不整脈は、たとえば心室頻拍や心室細動、そしてそれにつながりやすい心室性期外収縮の中の「RonT」や「連発」でしょう。医学生のときには習わなかった「torsade de pointes」(最初は「トルサード・ド・ポアン」と覚えましたが、正確には「トルサード・ド・ポアンツ」だと後日教わりました)とか、最近登場のブルガダ症候群とか(おっと、「最近」と書きましたが、1992年報告なんですね。私の人生、どこかに10年くらい失われているのかしら……)、心電図を読むのもロートル医者にはなかなか大変になってきています。
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