私は小学校6年生と高校1年の時に知能指数の検査を受けたことを覚えていますが、小学校の時には担任教師が、高校の時にはクラスメイトが驚く数字をたたき出しました。ただ、神童や天才でさえ「二十歳過ぎたらただの人」になるわけですが、私はそれ未満だったらしく、大学受験時にはめでたくただの人(あるいはそれ以下)になっていました。(ちなみに頭が現在どんな状況かについては、証言を控えさせていただきます)
S・J・グールドはこの知能指数検査(の誤用)が大嫌いのようで、そのエッセイの中で繰り返しそのことを表明しています。私が読み取った、グールドが知能指数検査を嫌う理由は以下のようなものです。
・一見科学的だが、実は特定の文化の基盤の上に作られている(白人社会の中流階級以上が有利になる)。
・ある特定の(間違った)仮説(人種によって最初から知能の優劣がある)を証明するために活用された。
・人のある特定の部分を評価するに過ぎないのに、その人のすべてがわかるかのように過大評価されている。
実際に(昔は)知能指数が高かった私が断言します。あんなもの、人間のごくせまい何かはわかった気にさせられますが、トータルとしての人間の何かを証明するものでもありません。
ただし、とりあえずこの検査ではっきりわかることはあります。「人類の半分は残りの半分より頭がよいこと」です。もっともそれはどんな問題を作ってテストしたとしても分別可能なのですが。問題の種類によって境界線はがらがら動くでしょうけれど。(たとえば、芸能関係とか花の名前や育て方とかで問題を作られたら、私は最低ランクに分類されるはずです。ほかにも苦手な分野はたくさんありますが、それが何かについての証言も控えさせていただきます)
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他人に無理難題を押しつける人間は、その無理難題が達成されてもちっとも嬉しそうにしません。すぐ次の無理難題を探そうとします。
逆に言うなら、そのタスクが達成されたときにその人(言い出しっぺ)が嬉しそうにするかどうかで、“それ”がみなのためになる解決可能な「難題」だったのか、個人の欲望を実現するためだけの「無理」の押しつけだったのかが判定できます。
もしかしたらその人にとっては「他人に無理難題を押しつけること」が人生の喜びなのかもしれませんが、もしそうならその無理難題が達成されることは「自分が言ったことが“無理”ではなかったこと」が証明された瞬間なので、あんなに苦虫を噛み潰したような顔になってしまうのかもしれませんね。
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