スーパーの連休中のチラシを見ていたら、その中に「エコナクッキングオイル + 炒め油専用 セットで498円」を見つけました。「おや?」と思います。たしか「発がん性指摘、花王「エコナ」油の販売自粛」(讀賣) という記事があったはずなので。チラシ印刷の差し替えが間に合わなかっただけで、実際に店頭にはおわびのビラが貼ってあるのだろうと思いますが。
「油と言えば……」でふと思い立って「米ぬか油」でグーグル検索をしてみました。おや、予想と違って商品がぞろぞろ登場します。おやおや、米ぬか油配合の石鹸や乳液やインキもあるんですね。
私にとって「米ぬか油」は、カネミ油症事件です(昭和43年(1968))。製造工程で油を200度以上の高温にして脱臭をするのに、その熱媒体として使っていたPCBが食用油に混入し、そのことによって「奇病」が発生しました。患者数は、昭和51年の段階で1540人(内、昭和47年までに18人が死亡)。油は飼料にも使われ、鶏が40万羽死んだそうです。
事件の経緯は「カネミ油症事件」にきれいにまとめられています。ちなみに「カネミ倉庫」のサイトでは事件のことは「なかったこと」になっているようです(別の会社でしたっけ?)。
当時わが家でも米ぬか油を使っていましたが、それを食べるたびに私が下痢をするので「米ぬか油は身体に合わない」と使うのをやめた、と母親に聞いた覚えがあります。油が合わないのではなくて、PCBが合わなかったのか、それともまさか本当に当時は虚弱だった私の体質に米ぬか油自体が合わなくて、結果として命拾いをしたのか、それはわかりません。今になってわざわざライスオイルを買ってきて食べたいとも思いませんし、子どもの時とは体質も変わっているから、きちんとしたチャレンジテストにはなりませんし。
グーグルでは、「米ぬか油」だけでは約566,000件のヒットでしたが、「カネミ 米ぬか油」では約3,260件となりました。「米ぬか」を「米糠」としていたり「米油」「ライスオイル」としているサイトもあるだろうと「カネミ PCB」で検索したら約69,300件。ついでのおまけに「米糠油」で検索してみたら約1,150,000件です。
カネミ油症事件はすっかり過去のものになっているらしいことはわかりました。それと、グーグルにもし要望できるのなら「ふりがな検索機能」(たとえば「米ぬか油」で検索するときに「米糠油」も含めるかどうか選択可能にできる)が欲しい、と言いたくなりました。
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書誌情報:『病が語る日本史』酒井シヅ 著、 講談社学術文庫、2008年、1050円(税別)
発掘された骨からは、その人の健康状態がある程度わかります。たとえば縄文時代の人骨からは、骨折が多かったことやそれが治った跡があることから重傷を負ってもその人が生きられるなんらかの社会システムがあったらしいことが想像できます。弥生時代以降の骨からは、骨結核が見つかるようになります。おそらくその頃大陸から渡ってきたのでしょう。人体が丸ごと見つかった例ではお腹のところの棒状の土(腸のあと)の分析や、トイレ跡の調査から、食べていたものの内容や寄生虫の有無もわかります。
大陸との交流が盛んになると、病気も盛んに持ち込まれるようになります。たとえば新羅に天然痘が流行している時期(天平八年(736))に派遣された遣新羅使は100名の内病気に倒れずに帰国できたのは40名、その直後日本で天然痘が流行を始めました。まずは太宰府管内で。使が帰朝してからは畿内で。当時は発疹が豌豆(えんどう)に似ていることから豌豆瘡(わんずがさ)と呼ばれました。結局この病気で当時隆盛を誇った藤原家の四兄弟が亡くなり、結果として道長が天下を握ることになります。
その道長は糖尿病だったという説が有力ですが、その根拠はいくつかあります。藤原家には「飲水病」が多く発生している/『小右記』によると晩年の道長は盛んに口渇と視力低下を訴えている/『御堂関白記』でも視力低下を訴えている(そういえば『御堂関白記』ではたしかに口渇や飲水の訴えはありませんでしたが、最後のあたりで突然「目が見えない」と出てきて唐突な感じがしましたっけ。口渇のことは、わざわざ日記に書くことではないと道長が判断していたのか、それとも一族の命を次々奪った病気に自分もなっていることを書きたくなかったのかな)。さらに肖像でのでっぷり具合とか貴族だから良い物を食べていただろう、ということも傍証として使えます。
日本で最初の脚気患者は、日本武尊だそうです。なんでもその最期が脚気衝心の症状そのものだそうで。確かに記録に表れるのは奈良時代から。平安時代の貴族には結構あるそうです(食事の問題と、記録(日記)が残せたから、でしょう)。鎌倉武士にはあまり見られず(粗食だったのかな)、江戸時代にまた増加します。日露戦争で、陸軍では大量の脚気患者が発生したが海軍ではほとんどなかった、それは食事の差、は有名な話ですが、本書では陸軍軍医監だった森林太郎(森鴎外)の悪口が書いてありません。森の「陸軍は大きなパン焼き釜を持って移動できない(だから海軍のように洋食にはできない)」という主張は、たしかにそうだ、とは思いますが、ならばそこで、脚気がほとんど発生しない外国の軍隊(特に陸軍)がどんなものを食っているのかどうして調査しないのか、とも思います。結局「病気」よりも「米を食う」を優先した、ということでしょうか。
職業病は聖武天皇の時代まで遡れます。天然痘の流行、飢饉、藤原広嗣の乱などで悩んだ天皇が、大仏造影の詔を発します。本体の鋳造には4年かかりましたが、鍍金には5年かかっています。要するに金メッキですが、水銀と金のアマルガムを塗ってから表面を焼いて水銀を飛ばす方法が採られました。大仏殿の中での作業です。当然水銀中毒が多発したはず、と著者は想像しています。聖武天皇は盛んに写経もさせました。朝廷や寺社に写経堂が設けられ、天平年間には専任の写経生の制度が置かれました。一日座ったままひたすら写経の毎日です。写経生の病休願い(正倉院文書)の分析があるそうですが、一番古いのは天平三年、24歳の写経生で「眼精溟濛(がんせいめいもう=眼精疲労?)」の訴えだそうです。数が多いのは足の病、ついで腹の病(赤痢、下痢など)が目立つそうです。足は、座りっぱなしのせいと脚気もあったのではないか、が著者の推測です。
赤痢が日本の史書に登場するのは貞観三年(861)、『三代実録』に京で赤痢が流行って多数死亡、とあります。その後も、赤痢だけの大流行の記録はあまりありませんが、疱瘡などが流行したときに同時に赤痢が流行することが多かったようです。
英国では、都市化・産業化・結核流行がセットとなって18世紀に起きましたが、日本では100年遅れて同じことが起きました。興味深いのは、少し前までの「癌の告知」と同じことが結核で起きていることです。原因も感染経路も知られてはいませんでしたが「肺病」が死病であることは日本人は広く知っていました。そのため「結核であることの告知」には慎重であるべき、というのが明治の日本での主な論調だったのです。『不如帰』(徳富蘆花)によって結核には「ロマンチック」のレッテルが貼られました。しかし実情は『女工哀史』(細井和喜蔵)の方でした。
19世紀末に、インド(カルカッタやボンベイ)と中国広東省でペストが流行しました。明治29年(1896)ペストが日本に上陸します。ネズミと関係していることは知られていたため、東京市は裸足での歩行を禁止しています。ネズミの糞からうつると信じられていたからですが、逆に日本では当時は裸足で歩く人が多かったこともわかります。東京市はネズミ1匹を5銭で買い上げ、1年半後には300万匹を捕獲しています。もしかして当時の東京は、人よりネズミの方が多かったのかな? さらにインドや香港から、ボロ・古着・古紙などの輸入禁制処置を執りました。それでもペストの進行は止まりません。ちなみに、ノミが病気を媒介することがわかったのは1910年ボンベイのペスト研究所です。
天然痘・脚気・マラリア・コレラ・ペスト・赤痢などが猖獗を極めるとは、どこの国ですか?と言いたくなります。だけど過去の日本のことなんですよね。べつに蘊蓄を極めろ、というわけではありませんが、「自分が知っている日本」が昔からそうであったわけではないこと、そしてこれからもずっと同じであるとは限らないことだけは知っておいた方が良いだろうと思います。何か新しい病気が出るたびに、あるいは過去の病気が復活するたびに、一々驚いて思考停止になるのは、それだけで時間の無駄ですから。
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人体には盲腸などいろいろ不要そうなものがありますが、男の乳首も「なんで必要なんだ?」と言われて当然のものです。
発生学では答えは簡単で「胎児の初期には男女の差が見えない」。「同じ」というか「全部女性」と言っても良いでしょう。ペニスとクリトリス、大陰唇と陰嚢も区別がつきません。そこに男性ホルモンのシャワーが降り注ぎ、ペニス(のもと)はペニスになります。シャワーがなければ遺伝子に関係なく肉体は表面的に女性型のまま出産の日を迎えます。つまり「人体の基本設計図」は一種類、したがって男にも乳首があるのが当たり前、となります。
ふと思ったのですが、人類(の祖先)が「性」を獲得したのはいつころなのでしょう。で、そのとき獲得したのは女性?男性? 「個体発生は系統発生を繰り返す」が真実だとしたら、もとは「女性」であとから「男性」が獲得されたのでしょう。それまで無性生殖を行っていた生物が「女性」「男性」を獲得して有性生殖を行うようになったのはとんでもない出来事のように思うのですが、ともかくそのときに「Y染色体」が人類(の祖先の動物)に導入されたはずです。それって一体どこからやってきたんでしょうねえ。
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学生の時に聞いた教師の声がなぜかよみがえってきました。「コレラで人が死ぬのは脱水。数日間水分さえきちんと補うことができれば、命は助かる。だからとにかくずっと点滴をし続けるが、そうするとトイレが大変になる。じゃあじゃあお尻から水が出続けるようなものだから。だから、お尻のところに穴が開いたベッドに寝てもらって、下にバケツを置いて下痢は垂れ流しにするんだ」
思わずその部屋の臭いや色を想像してしまいました。
現実はこんな感じです。
「ジンバブエ:コレラに苦しめられるベイトブリッジ」(国境なき医師団日本:活動ニュース)
ブログ「manta_in_the_forest」の「コレラ・アウトブレイク」にはコレラ・ベッドの画像があります。
今の日本では幸いコレラは流行していません。しかし幕末期に流行したときには、人が次々ころころ死ぬものだから「コロリ」と呼ばれて恐れられました。「外国から持ち込まれた」ということで、長崎では「外国人が井戸に毒を投げ込んだからコレラの流行が始まった」という流言があったり、攘夷運動を刺激したりしたそうです。(『病が語る日本史』酒井シヅ 著、 講談社学術文庫)
明治23年の流行では3200人が死亡しています。そのために「電話は非常に鋭敏でよく音声を伝えるものだが、電話加盟者にコレラ病の者がいた場合、病毒が他の加盟者に伝わることはないのですか」という質問が寄せられています(郵便報知、明治24年2月3日)(『浅草十二階 ──塔の眺めと〈近代〉のまなざし』細馬宏通 著、 靑土社
)。「昔の人は無知だなあ」と笑うなかれ。現代にだって「コンピュータウイルスは人に感染しないのですか」という質問をする人がいるのですから(その内、コンピューターの周辺機器やコンピューターそのものを人体に植え込むようになったら、「人」へのコンピューターウイルス感染が問題になる時代が来るかもしれませんが)。
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