老若男女障害の有無を問わずどんな人にも使いやすいデザイン、というコンセプトは優れたものだと思います。ただ、「誰にでも使いやすい」は下手をすると「誰にも使いにくい」になることがあるので注意が必要です。優れたデザイナーはそのことを忘れはしないでしょうが、「エコ」は「エコバッグを持って歩くこと」や「ゴミの分別をすること」、「バリアフリー」は「とにかく段差をなくすこと」といったように大きな概念を矮小化して即物的に捉える人が多い現状を見ると、ちょっと不安も感じます。
たとえばトイレを例にとってみましょう。「万人が使いやすい洋式トイレの便器」はあり得るでしょうか。たとえばジャイアント馬場さん(以下Gと略、敬称も略)に使いやすい便器はコニシキさん(同様に以下K)にも使いやすいでしょうか。たとえばG(20歳)に使いやすいものはK(90歳)に使いやすい? 同一人物でもG(2歳)とG(100歳)ではどうでしょう。このすべての人が等しく使いやすいトイレは成立するでしょうか。
「極端な例を出すな!」と叱られそうですが、これはあくまでノーマルバリエーションの範囲内のお話です。それでも「ユニヴァーサル」があり得るのか、と小さな疑問が生じます。私はここからさらに、たとえば脳卒中後遺症に話を進める気です。というか、進めちゃいました。
脳卒中後遺症で代表的なのは片麻痺ですが、右片麻痺を持つ人に使いやすいトイレは左片麻痺を持つ人にはとても使いにくいはずです(手すりの位置、ペーパーやスイッチやレバーの位置などを想像してみてください)。もちろんその逆も真。すると「右片麻痺の人には使いやすいトイレ」「左片麻痺の人には使いやすいトイレ」はあっても「両者に等しく使いやすいトイレ」はあり得ないことになります。王侯貴族と同じくらいの空間とコストが使えるのなら話は別ですけれどね。でも王侯貴族は「ユニヴァーサル」の基準なのかな?
ついでながら、脳卒中の後遺症は片麻痺だけではありません。街を歩く障害者は、脳卒中の後遺症の人だけでもありません。
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かつて日本の医者の人事は大学の医局が支配していました。よく「教授が支配していた」と勘違いしている人がいますが、日本の封建制度では一番上に位置する人間が一番エライとは限らないことを思い出してください(天皇制度とか、秀吉亡き後の秀頼と五大老五奉行との関係とか)。たしかに教授が支配している医局もありましたが、そうではない人が医局の実権を握っている場合も結構ありました。だけどとにかく「医局」が医者の人事を動かしていたことは確かです。
で、医局制度をぶっ壊して、「こんどは俺たちが医局に成り代わって医者の人事を支配してやる」と嬉しそうに声を高らかに上げている人があちこちにいます。「医者の強制配置」を声高に言う人々は「俺にやらせろ俺が俺が」と言いたそうで、つまりは医者を動かすことで(あるいは「医者を強制的に動かす人」を支配することで)自分の権力欲(人を支配する欲望)を満足させようとしているかのように目をきらきらさせています。
医局制度が良かった、とは言いませんが、それでも「良い面」は持っていました。各個人のキャリアの段階や能力や専門分野を把握していたことと他の医者との専門分野のマッチングも考慮していたことと配置する各病院の実情や地域の事情もある程度把握していたことです。
で、今「医者は強制配置じゃあ」と叫んでいる人たちは、何を把握しています? 医者個人のことと病院と地域、それぞれの「事情」をちゃんとわかってます? もしかして「数字」しか見てないなんてことはないでしょうね。
以前ある医者(自治医科大学出身)が、県の官僚によって内科医なのに「県立病院の外科」に配置されたのを私は知っています。官僚から見たら「あそこに医者が1人足りない。ここに医者が1人いる。解決!」なのでしょうが、そんな「強制配置」で、(その官僚以外)誰が喜ぶんでしょうねえ。なんだかそういった種類のとんでもない「員数合わせ」が何らかの美名(素晴らしいスローガン)のもとに行なわれるのではないか、と私はいやな予感を持っています。さらにそれが上手く機能しなかった(強制配置で悪いことが起きた)とき、「責任」は現場の医者が取らされるだろう、という予感(いや、確信)も。
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