若い頃に小児科外来の奥でうだうだしていたら、大塚製薬のプロパーさん(当時の呼び名)がやってきました。「薬ではないのですが、こんど新製品を出したので、感想を聞かせてください」と言って取り出したのが「ポカリスエット(粉末タイプ)」。
まだ日本にはスポーツ飲料というジャンルの市場が成立しておらず、メーカーも作ったのは良いけれどどうやって売るか迷いがあったのでしょう。そこで、小児の下痢に対してソリタ顆粒というミネラル補給の「薬」を使っていた小児科に目をつけた、という事情だったのでしょう。私はたまたまそこにいた、というだけのことでお相伴することになりました。何かアヤシイものを見るような目つきで粉を睨み、ちょいとなめてみたら……不味い。プロパーさんがあわてて「お湯に溶いたらいけるそうです」。で、ほかほか湯気の立つホットポカリスエットをぐびり……不味い。
そのときの評判は散々だったのですが、しばらく経ったら日本中どこでも売られるようになり、私も平気で飲むようになっていました。慣れというのはオソロシイ、というべきか、それとも大塚の営業能力を褒めるべきなんでしょうか。
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これまでも「風が吹いた」とか「山が動いた」という表現が使われましたが、今回はどう言えばいいのでしょう。
「天地がひっくり返った」?
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「目が語るもの」で網膜の血管について述べましたが、実はこの“設計”は造化の神様のミスでしょう。ヒトの視神経や動脈は目の後ろからやって来て、まず一点から目の中に入ります。そこで枝分かれして眼球の“内側”で網膜の各部位に配線されています。これで困ることは二つあります。一つは「盲点」。視神経や動脈が眼球内に出入りする「一点」は網膜がありません。したがってそこではものを見ることができません。もう一つ困るのは、網膜の前に血管や神経があるから影になって見づらい……ではなくて、血管が痛んで出血した場合にその血が視野を奪うことが困るのです。これがイカやタコの眼球のように網膜の後ろ(眼球の外側)から配線してあったら、眼底出血で失明、なんてことは無かったはずなのですが(出血しても目の外側ですから、網膜は出血そのものでは痛みません。血液不足(酸素不足)で痛むことはあるでしょうが)。ただ、そのかわりに眼底の血管を観察して病気を発見したり程度を評価する、ということができていますから、これは一長一短といったところでしょうか。(もっともその場合でも人類は別のやり方での医療技術を発展させたとは思いますが)
もう一つ、神様は配管ミスをしています。気管と食道の配置です。
人間の首は細いくせに重要な管がたくさん走っています。頸動脈・頚静脈・脊髄・気管・食道(脊髄は管じゃない? ふふふ、中心管をお忘れ無く)。さて、首の断面を描いた時、気管と食道のどちらが前にあるか、正確に描けるでしょうか? 正解は、気管。たとえ解剖を知らなくても、もしも気管切開の人を見たことがあればわかるでしょう。首の前から気管にチューブが入っていますが、もし気管の前に食道があったらそんなに簡単に気管切開ができるわけがありません。
ところがこれを私は「配管ミス」と呼びます。
人間の頭を横から見た、と想像してください。鼻から吸った空気は(首で前にある)気管を通って肺に行きます。口から食べたものは(首で気管の後ろにある)食道を通って胃に行きます。つまりのどで空気と食べ物は流れがクロスしているのです(「俺は口で息をするから、クロスしていない」と主張する自由はあります)。
食べ物を飲み込む時には流れが混乱しないように絶妙の反射運動が行われます。食べ物が喉の奥に送り込まれると同時に、軟口蓋(のどちんこがぶら下がっているところ)がひょいと持ち上がって鼻への上の通路をふさぎ、同時に下の気管の入り口もふさがれて食べ物は食道以外には行き場を失います。ごっくん、めでたしめでたし。ところがこの反射運動が乱れたりこのあたりの筋肉の力がおちたりすると、生じるのが「誤嚥(飲食物が気管に流れ込む)」です。誤嚥は、窒息や肺炎のもとなので、起きたら嬉しくありません。
つまり、人類は(自分の唾を含む)何かを飲み込むたびに自分の命をかけているのです。
解決は簡単で、気管を後ろ/食道を前、に配置すればよい。なんなら完全分離にしてしまいましょう。口のものは垂れ流しでもそのまま胃に流れます。気管も誤嚥の恐怖から解放されます。
ただ、これはこれで問題があります。たとえば鼻づまりで窒息死となってしまいます。会話も鼻声だけで行わなければなりません。これは嬉しくありませんねえ。造化の神様は、なんでもっとエレガントな解決法を思いつかなかったのでしょうねえ。
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かつて日本の医学部には「教授・助教授・講師・助手」というヒエラルヒー(ヒエラルキー)がありました。これは要するに「エライ順」ではありますが、もう一つ大きな意味があります。これらは「有給のポスト」の名称で、このポストに就けたらとりあえず固定給が保証されるのです。そのポストに就けない人としてそれ以外に無給医局員がわんさといたのですが、それはまた別のお話。
で、いつのまにか助教授が消えて准教授(準教授にあらず)が登場しています。法律的には、単に言葉を言いかえただけではなくて、助教授=教授の助手、准教授=独立職、なのだそうですが、法律が何を言うかと現場での運用がどうかとは必ずしも一致しない……かもしれません。
で、かわりに「助手」が「助教」となりました。最初は「助教授」と間違えそうで困りましたが「教」がつく以上「教育スタッフ」という位置づけなのでしょうね。さらにややこしいのは、将来的に「講師」が廃止になるのだそうです。ということは「助教は教授・准教授の候補生」です。結局「万年助手」も死語になるんですね(あくまでタテマエでは、ですが)。
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第一党の後退/交代が強く予想されるとかで、マスコミはなにやら妙にはしゃいでいますが、一党独裁の国ならともかく民主主義の国で与党と野党が入れ替わるのは別に「非常事態」でも「異常事態」でもないはず。むしろこれは「日本の政治」が成熟する“過程”で当然起きるべき事でしょう。
で、明日もしも「自民党 → 民主党」が起きたら当然その逆の「民主党 → 自民党」あるいは他の党への「民主党 → ??党」も将来あり得るわけです。というか、民主党は政権運営は不慣れでしょうし、しかもそれで自民党にない「新味」を出さなきゃいけないから無理をするでしょう。無理をすればほころびが生じるわけで、早ければ4(あるいは3、または2?)年後には上の「→」が起きる可能性があります。でももちろんそれで「→」は「おしまい」のわけではありません。
これから繰り返されるかもしれない「交代」の数ターンでは、医学の世界で薬を評価するときの「比較対照試験」に相当するものが行なわれる、と私は捉えています。薬を評価するときに、被験者を二つのグループに分けて同時にAとBの薬を使ってその効果を比較するやり方と、同じ人にA薬をある期間使ってからこんどはB薬に変更してまた同じ期間使ってそれぞれの効果を比較するやり方があります。その後者のやり方のように、政権につく者をいろいろ交代させてみて、どれが一体一番日本国民と日本国とによろしいものかを評価するための「試験」です。そのためには私のような一般人も、「何が日本のために一番よいのか」の確たる政治的ビジョンを持っている必要があります。薬だったら「とにかく治療効果が大」がよいのか「効果はそこそこだが副作用が少ない」がよいのか、試験をデザインする時点で明確なビジョンがなければ結局何がよいか決められません。政治でも同様でしょう。これだけ複雑な世界の中で「すべてに満点」は最初から望めないのですから、何をよしとし何をあきらめるか、実は有権者も次の(あるいはさらにその次の)選挙をにらんで今から判断を始める必要があります。
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「目は口ほどにものを言う」「目は心の窓」などと言いますが、たしかに人間の顔で目は、ものをみる機能だけではなくて、他人にいろいろなものを伝える役割も果たしています。そういえば子供時代に読んだ小説で「○○は笑顔だった。ただし、それは見せかけだった。その証拠に、口は笑っていたが目は笑っていなかった」といった感じの表現に出くわして、どうやったらそれができるか鏡を見ながら試してみた事があります。けっこうあれは難しい作業ですね。
目は脳から直接前に突きだした臓器なので、いわば「脳の一部」と言えます。ですからたとえば目の血管をもし直接観察できれば脳の血管についても類推ができることになります。
それが、できるのです。人体で唯一の透明な臓器、目のレンズを通して体内(眼球の中)を覗き込んだら、そこに網膜と血管があなたを待っているのです。普通医者は眼底鏡を用いますが、昔の医者はでかいレンズ(と光源の工夫)で眼の中を覗き込んでいました。そこに見えるのは、網膜と網膜に栄養(と酸素)を供給している血管です。もし高血圧などで動脈硬化があったら、当然そこに見えるのは「硬化した動脈」です。
ただ、最初に目の中を覗こうとした人は、一体どうしてそんなことを思いついたのでしょう。
隣にいる人の目をまじまじと覗かせてもらったら、何か面白いものが肉眼でも見つかるかもしれません。面白くないものが見つかるかもしれませんが。
※「人の網膜には、死ぬ直前に見た最後の映像が焼き付けられている」と本気で言われていたことがあります。最初に言われたのはたしかヴィクトリア朝時代のヨーロッパ。だから殺人事件の時には被害者の網膜に犯人の顔面のアップがある、と言われたのですが、もしその現象が本当にあるとしても、ベッド上で家族に囲まれての大往生ではないのですから、最後の画像は床とかテーブルの脚とかまぶたの裏側でしょう。ビデオカメラを持ったまま転んでカメラを壊したら、そのへんは証明できそうです。(でもどうやってその「画像」を眼球から抽出するのでしょう?)
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「毒を薄めたものが薬」ということばがあります。逆に、どんな良薬でも限度量を超したらそれは毒になります(別に薬でなくても、塩を1トンなめたり水を一気に1トン飲んだら死にますけど)。
ところが、誰がどう見ても明らかに「毒」でも、堂々と薬として流通しているものがあります。たとえばツボクラレン(筋弛緩剤)。もともと運動神経を麻痺させる毒(現地ではクラーレと呼ぶんでしたっけ?)として狩りの時に矢などに塗って使われていたものが現在「薬」として使われています。神経を麻痺させるからその結果呼吸運動が止まるので、ある意味“正しい”使い方とは言えます。
それどころか「毒」と明示してある「薬」もあります。「ボツリヌス毒素」です。これ、強烈な毒です。計算上はボツリヌス毒素1gで約100万人殺せるそうで、地上最強の毒素、とも言われます(青酸カリは経口投与の場合1gで5人“しか”殺せません。もっともマイクログラムレベルで人を殺すためには相当厳密に秤量する必要があるので、ボツリヌス毒素1グラムで100万人ぴったりを殺すのは現実的には無理だとは思いますが)。
日本ではこれまで、痙性斜頚(首の筋肉の硬直で頭が傾いでしまう)や眼瞼痙攣・顔面痙攣に用いられてきました。筋肉を麻痺させることで痙攣や斜頚を改善させるわけです。
ところがハリウッドではけっこうな人気がある毒でした。スターの若返りに愛用されていたそうです。これを注射するとそこが麻痺してしわ取りになるのです。ただし効果は永続的ではなくて、数ヶ月ごとに注射が必要です。一度お客をつかんだら良い儲け口……げふんげふん、何でもありません。
で、日本でも最近“その用途”で使用許可が出ました。保険は効きませんが「眉間の縦皺」を消すために使用することが認められたのです。私の予想では、顔や首筋のあちこちにある「眉間の縦皺」を消すために、様々な人がその使用を求めることになるでしょう。そんなにあちこちに「眉間」があったかどうかは存じませんが、世の中、理屈通りには進みませんから。
そうそう、ドイツでは良性前立腺肥大に対してボツリヌス毒素が有効、という研究があるそうです。何を思って使ってみたのでしょうねえ。
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「映画「赤ひげ」は超人願望の映画だ」という記述を以前どこかで読んで、「なるほど、だから私はこれが好みではないのか」と自分の膝を打ちました。たしかに、スーパーマン医者がすべてを解決、がストーリーの根本にあります。お話としては良いものですし感動もします。でも「超人でなければ解決できない問題が豊富にある社会」では、超人の手が届く範囲だけが良くなりますが、その超人が退場したらすべては水の泡なのです。
凡人が普通に活動することで、超人ではなくてシステムとして対応できるようなもの、それが医療としては望ましい(効率が良く全体に広く行われ効果が長持ちする)ものだと私は強く思っています。私は凡人ですから、それが望ましいと強く強く思っています。
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ニュースでよく「健康保険の不正請求」と言われます。それを見ると「こんなに不正請求をするとは医者は何て悪人なんだ、そんなに金が欲しいのか」と思う人がほとんどでしょう。
私がこれまでに行なったとされた「不正請求」を思い出すままにいくつか書いてみましょう。
・CPR
患者さんが突然意識を失いました。不整脈発作(アダムス・ストークス発作)と判断して即座に心臓マッサージ、心電図で心室細動であることを確認して電気除細動(胸に電気ショックをかけて心臓の動きを戻します。当時はAEDがない時代でした)、それで心拍が回復したので不整脈の薬剤を投与しながら循環器専門の医者の所に救急車で搬送しました。幸い患者さんは助かりました。その治療内容と病名をそのまま書いてレセプトで請求したところ「不正請求」として、処置と薬物が健康保険では一切認められない、という査定でした。
・IVHのビタミン
口から食べられない人には、胃まで管を入れて流動食を流し込むか、太い静脈に点滴用の栄養剤を丸一日かけて点滴する手(IVH)があります。
ところが健康保険では「点滴にビタミンを入れるのは認められない」とされて、公式にはIVHにビタミン剤を入れられない時代がありました(健康保険を使わずに自費ならできますが、健康保険法では同じ疾病に健康保険と自費診療を同時に使う混合診療は禁止されています)。ビタミンを入れたらレセプトで不正請求として査定です。でも、ビタミンを入れなければまずいだろう、と私は査定覚悟で入れてました(で、実際に「不正請求」として査定を受けました)が、素直にお上の言うことに従う医者の下では、ビタミン不足で脳炎が発生して訴訟沙汰になってます。
・経皮酸素飽和度
血液を採取しなくても指先の爪の「色」から動脈血の酸素の量が測定できる簡便で優れた検査です。
21世紀になってからのことですが、「酸素吸入一回につき、酸素飽和度の測定は一回だけ。それ以上は不正請求」として減算を食らいました。
私は「酸素吸入が必要」という患者さんの状態評価判定にまず一回測定します(見た目だけでは間違えることもありますから)。それで体内が酸素不足と確認できたら酸素吸入を始めます。全身状態で吸うべき酸素の量は大体見当がつきますがそれでも間違えることはありますから十五分くらい吸入した後どのくらい体内環境が改善したかの確認のために二回目の測定をします。それで十分改善していたらしばらくそのままで様子を見ますが、改善が不十分だったら酸素の量を増やします。もちろんまた確認のために測定します。
しかし、永遠に酸素吸入を続けて良いわけではありません。酸素をやめても大丈夫な状態になったらさっさとやめます。そのためには「酸素をやめる前」と「やめた後」で血液中の酸素を測定して「酸素吸入をやめても血液中の酸素がそれほど落ちない(酸素吸入をやめても安全である)」ことを確認する必要があります。
さて、どれかまったく不必要な検査がありましたか? どこが不正なのでしょうか? これらすべての検査を「一回だけ」で判定するべきなのなら、一体私はどこで測定をすればいいのでしょうか?
もちろん「医学的にはどうなのか」と健康保険の側に質問したら「必要なだけやるべきだ」と公式に返事をもらえました。そして次の月、レセプトではしっかり「不正請求である」としてまたほとんどすべての回数が削られました。
・血糖
血糖検査の回数が多すぎると査定されたこともありました。患者さんが高血糖発作を起こし、インスリンなどを点滴しながら血糖を測定してはそれに合わせて注入量を加減してちょうど良い範囲に血糖が収まるように調節を続けること三日間。やっと回復しましたが、レセプトでは「血糖測定が過剰である」と「血糖は数回の測定で十分」だと査定されました。
そうそう、動脈硬化の原因になる悪玉コレステロール(LDLコレステロール)を、高コレステロール血症の患者さんで測定したらびしばし査定されたこともありましたっけ。
まだまだあるけど書いていて飽きたのでもうやめます。
健康保険組合から見たら、私は不正ばかりするとんでもない医者のようです。
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老若男女障害の有無を問わずどんな人にも使いやすいデザイン、というコンセプトは優れたものだと思います。ただ、「誰にでも使いやすい」は下手をすると「誰にも使いにくい」になることがあるので注意が必要です。優れたデザイナーはそのことを忘れはしないでしょうが、「エコ」は「エコバッグを持って歩くこと」や「ゴミの分別をすること」、「バリアフリー」は「とにかく段差をなくすこと」といったように大きな概念を矮小化して即物的に捉える人が多い現状を見ると、ちょっと不安も感じます。
たとえばトイレを例にとってみましょう。「万人が使いやすい洋式トイレの便器」はあり得るでしょうか。たとえばジャイアント馬場さん(以下Gと略、敬称も略)に使いやすい便器はコニシキさん(同様に以下K)にも使いやすいでしょうか。たとえばG(20歳)に使いやすいものはK(90歳)に使いやすい? 同一人物でもG(2歳)とG(100歳)ではどうでしょう。このすべての人が等しく使いやすいトイレは成立するでしょうか。
「極端な例を出すな!」と叱られそうですが、これはあくまでノーマルバリエーションの範囲内のお話です。それでも「ユニヴァーサル」があり得るのか、と小さな疑問が生じます。私はここからさらに、たとえば脳卒中後遺症に話を進める気です。というか、進めちゃいました。
脳卒中後遺症で代表的なのは片麻痺ですが、右片麻痺を持つ人に使いやすいトイレは左片麻痺を持つ人にはとても使いにくいはずです(手すりの位置、ペーパーやスイッチやレバーの位置などを想像してみてください)。もちろんその逆も真。すると「右片麻痺の人には使いやすいトイレ」「左片麻痺の人には使いやすいトイレ」はあっても「両者に等しく使いやすいトイレ」はあり得ないことになります。王侯貴族と同じくらいの空間とコストが使えるのなら話は別ですけれどね。でも王侯貴族は「ユニヴァーサル」の基準なのかな?
ついでながら、脳卒中の後遺症は片麻痺だけではありません。街を歩く障害者は、脳卒中の後遺症の人だけでもありません。
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