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 昔(特に戦前)の「学生さん」は「学」がありました。日本の古典はもちろん、西洋の哲学書なども原書を読みムズカシイ議論を平気でやっていたそうです。だからこそさんづけで呼ばれたのでしょう。
 北杜夫の「どくとるマンボウ」シリーズを読んでいても、戦後ではありますが、そういった「学」を感じます。彼は旧制松本高校から東北大学医学部に進学しましたが(だからペンネームが「北杜夫」になったのでしょう)、マン・ハイネ・リルケあたりは普通に読んでいますし、父親だからという特殊事情はあるでしょうが斎藤茂吉もよく読んでいます。

※彼のおそらく人生最後の「どくとるマンボウ」になるであろう『マンボウ最後の大バクチ』を読んでいて、あらためて昔の人間の「学」とか「教養」とかの「最低水準の高さ」を感じました。北杜夫自身は韜晦なのか自虐なのか謙遜なのかただのギャグなのか、やたらと「自分は大したことがない」を連発しますが、それでも私よりははるかに「教養」を持っています。(私なんかと比較するのが間違い?(苦笑))

 対して今の時代、こんなに情報が満ちあふれている時代に「高等教育を受けている人」の教養はどうでしょうか。「その程度の教養は持っているぞ」と高らかに言える人はもちろん存在しているでしょうが、それが「高等教育を受けている人全体」に言えることかな。
 『分数ができない大学生』なんて本までありますが、日本の大学生(高等教育を受けている人)の「教養」の実態はきわめてお寒いものになっているようです。

 では、今の大学生に「教養」をつけさせるためにはどうしたらいいでしょう。そういった制度を設計するために、少なくとも私は軽々しく口を挟めないと思っています。なにしろ私は自分の「無教養」になら自信がある口ですから。無教養な人間が「お前たちに教養をつけさせてやる」なんて図は、それは悪い冗談でしかありません。せいぜい、マスコミで報道されたことをすぐ鵜呑みにして「大学では分数の計算を教えろ」とか「アルファベットを教えろ」と言い出したり、あるいは戦前の「教養」に対するイメージから「実存哲学をもっと教えろ」などと強く主張するのが関の山です。
 もちろん「主張すること」自体は「言論の自由」で保証されています。ただ、「この現実」を変えるためには、一番簡単な「○○を教えろ」という主張をするだけではなくて、その主張を実現するために必要な教員の手配・空き教室の有無の確認・カリキュラムで他の単位との関係なども具体的に見る必要がありますし、学生のレベル(「それ」を教え込む余裕と素養と必要があるのか)もチェックする必要があります。
 さらに、そもそも「教え込む」ことが「豊かな教養」につながるのか、も原則論で検討しておく必要があります。不必要なものなら最初からする必要はありませんから。

  ===  ===  =======

 以上から医療崩壊について話が滑ります(話を滑らせます)。
 日本の医療崩壊について、様々な意見が出されています。しかしその多くは「自分の思い」「自分の利益」のための主張であるように私には見えます。
 すごいのは、医学や医療について無知なのに具体的に医療政策について「提言」する人がいること。これは結局「無教養な人間(たとえば私)が日本中の大学の教養課程をどうするかにいろいろ口を出している」「経済学に無知で市場での経験も持たない人間(たとえば私)が、景気浮揚の提言を政府にする」「自動車生産(原材料の手当とか人員配置とかラインの変換とか設備投資計画とか製品の配送とか)に無知な人間(たとえば私)が、トヨタに『プリウスをもっと増産しろ』と気楽に要求する」のと同様の現象に、私には見えます。

 もちろん「医療について詳しくない人間は黙ってろ」と言うわけではありません。ただ「自分は医療に詳しくない」「日本の医療を全体として良くしたい」「自分とは違う意見もこの世には存在する」「自分だけ幸せになる、という主張は全体にはよろしくない」「他人の意見は尊重する」「謙虚に学ぶ意欲を持っている」ということくらいはせめてきちんと確認した上で参加して欲しいだけです。自分の意見を通すことにだけ夢中になっている人は、結局「部分最適」(=自分の満足と社会の不幸の両立)しか得られないのですから。
 悪い例として、たとえばテレビの「討論番組」なんかを見ていたら、私は吐き気を催してしまいます。わーわーと討論どころか「いかに他人の意見に耳を貸さないか」を競い合っているだけだもの。あのような態度では、他人の足を引っ張ったり何かを破壊することはできますが、何か新しいものを協調して作り上げることは不可能です(ああいった番組からなにか素晴らしい政策や企画が生まれたことがどのくらいあります?)。そもそも「討論」のためには各自が独自の「論」を持ち寄ることが必要ですが、ユニークで面白い「自分の頭で考え、現実化も可能な論」がそれほどたくさん揃ってます?

 もしも日本の医療を良くするために会議を開くとしたら、「医療に詳しい人間」「医療制度に詳しい人間」「医療には詳しくないが他の分野には詳しく、さらに医療について知ろうとしている人間」などが集まり、さらにそれらの人「全員」が「他人の意見に耳を傾ける覚悟を持っている」ことが必要です。「お前らは俺の言うことを聞けば良いんだ」ではなくて。もちろん「俺の言うこと」が「とても良いアイデア」だったら周囲は耳を傾けるでしょうが、そこで「良いアイデア」であることの条件として「そのアイデアで描かれる未来図に、自分“以外”の他人の居場所があり、その他人はそこでおおむね笑顔でいられること」が重要です。自分だけ笑顔で他人はみんな暗い顔、なんて論外。それと同時に「実現可能であること」も。

 今の日本でそういった(「教養」とコミュニケーション力と柔軟な心とオリジナルの視点を持つ)メンバーを集めることができるだろうか、と私はちょっと首を傾げます。


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2009.07.30 06:43 |  生活 / くらし  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 0

 行方不明

 大災害のニュースで、死者や負傷者とは別に「行方不明○人」と報じられることがあります。家族や親しい仲の方たちにはいてもたってもいられない思いのニュースでしょう。
 ただ、行方不明にも二種類あるように私には感じられます。「医学的に早く見つけるべき行方不明」と「社会的に早く見つけるべき行方不明」です。
 前者の代表は、冬山での遭難や船の沈没あるいは大地震などでの倒壊した家屋に閉じ込められた場合などでしょう。低体温もクラッシュ・シンドロームも、発見が早ければ早いほど救命率が上がることが期待できますから、救命のために早く捜索して発見することが望ましい。
 後者の代表は、たとえば津波とか大水害かな。この場合の行方不明とは、生死が不明、というか、非常に冷たい言い方ですが「死体がまだ見つかっていない」ということになる可能性が高いでしょう。もちろん生きたまま行方不明になっている、という場合もあり得ますが(津波で家の屋根にしがみついた人が沖合で発見された、という例もあります)、それは前者の行方不明に比較したらずいぶん確率が低くなっているはずです。

 そのどちらでも同じように「行方不明者の捜索が最優先」と自動的にしてよいのだろうか、というのが私が抱いている疑問です。

 もちろん家族だったら「生死にかかわらず、一刻でも早く見つけてくれ」と思うのが当然です。救助する現場の人間も「全力を尽くして捜索する」と言うでしょう。投入できる人員や資材に余裕があり現場が捜索する人の命に危険が少ない状況ならば「まず捜索に全力」で問題はあまりありません。
 でも、使える資源が非常に限られている場合などには「優先順位づけの作業」が必要となるでしょう。そして、「優先するべきことが別にある」と言うのは、現場よりももっと上にいる「責任者」の仕事になるのではないでしょうか。あるいは天候をにらみながら捜索中止の判断をするのも。そういった責任を取りたくないために「全力を尽くす」「全力を尽くせ」としか言わない人は、冷たい言い方で申し訳ないけれど、修羅場での責任者には適していません。


 私がこんなことを思うのは、以前火災訓練でトリアージ(急げば助かる可能性の高い人を、もう手遅れの人に優先して病院に運ぶように選別をすること)の担当をやった経験を持っているからかもしれません。あれは、知識を持っているだけと、まねごとの形だけでも実際にやってみるのとでは、全然インパクトが違います。普通の世界での「情」を一切働かせない行動原理で動かなければなりませんから。できることなら、そんな立場に身を置きたくはないものですが、でも、誰かがやらなければならないんですよねえ。


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