かつて日本では「思いやり」から本人への癌告知は行われませんでした。不治の病であることを知らせても本人にとって良いことは何一つない、と考えられていたからです。
ただ、「思いやり」と表面は綺麗な言葉ですが、この考えの裏側には「知らせる勇気がない」「上手な知らせ方がわからない」「嫌なことにはかかわりたくない」「縁起でもないことは言いたくない」「知らせた後のことに責任を取れない(取りたくない)」なども隠れていたのではないか、と私は感じています。
ところが、やっと告知をしても「否認」をされることがあります。これは一般日本語では「事実を認めない」という中立的な意味ですが、心理学的には「それを認めたら自分が傷つくのがわかっているから、自己防衛のために現実を否定する」というちょっと重い意味を持った言葉です(専門家は「防衛機制」なんて言葉を使ってくれます)。
たとえば「自分は病気で死ななければならない」ことを認めるのは辛いことです。だったら「そんなの誤診に違いない」と頭から思いこむ方が、自分を守るためには楽です。楽なはずなのですが、でも現実は容赦なくそこに存在しています。結局否認は、自分を一時的には守りますが心の深いところでは傷を残し、さらに毎日傷は増えていきます。否認を優先させることは、現実を否定しながら生きていかなければならないのですから、毎日毎日何かにぶつかって傷を負うことになるのです。
今の日本は「医療崩壊」という「病」にとりつかれています。ではそのことを「告知」するべきでしょうか。これは死病ではありません。手を打つのが早ければ早いほど「損害」は軽くすみます。ただし、まったく「無傷」でやり過ごすことができるほど簡単な「病」でもありません。
そこで、「告知」しようと声を上げる人があちこちに出現しました。
ところがそういった人が出くわしたのが「否認」です。日本には「そんなことを言っても、聞いてやらない」という人があふれていたのです。(それどころか、医療崩壊を警告する医師を誹謗中傷する輩もいました……訂正、今でもいます)
これは「自分が病気であることを認めたくない」という心理メカニズムが働いているのかもしれませんが、マスコミや官僚や政治家が否認に忙しいのは、自分たち(先輩を含む)が犯した過去の過ち(自分が医療崩壊の原因を作った/それを容認した/推進した)に直面する勇気がないからかもしれません。どちらにしても、一般国民には迷惑な話ですけれどね。
固定リンク
|
コメント (0)
|
トラックバック (0)
なんだか衆議院がもうすぐ解散になりそうで、「A案が衆院を通過したこと」さえもがそわそわした国会ではうやむやになってしまうのではないか、といった雰囲気を私は感じています。
現在私が勤務する環境は、脳死判定とは無関係です。脳死と無関係、とは言えませんが、少なくともその「判定」が必要になることはありません。おそらく日本のほとんどの病院はそうでしょう。だから法律が通過したとしてもそれで日本で「脳死」の発生が突然どかどか増えることは無いだろうと思っています。
ただ、過去に「これは脳死ではないか」と思ったことはあります。重症で人工呼吸器につながれている状態の方が、たとえば痰の吸引のときなどに管を外されているときに一切自発呼吸を見せないような状態です。そういったとき私はできるだけご家族にもその姿を見てもらうようにしていました。別に説明を押し付けはしません。ただ「自力ではすでに呼吸ができなくなっている状態である」ことは自らの目で認識して欲しかったものですから。
なお、日本政府の方針を支持する人で脳死を嫌う人は、自宅で死ぬ、という手があります。これだったら脳死判定ができない、以前に、脳死自体になれないでしょうから。病院を使わず医療費を安くするという点で日本政府の「医療費削減」方針にも合致します。
現在の日本での死亡は、ほとんどが病院です。そして、その病院のほとんどでは、脳死ではなくて心臓死で「死」が判定されています。脳死を判定する機器は最初から装備されていませんから、見るのは呼吸停止・心拍停止・瞳孔の散大、の三徴候です。
しかし、この三徴候、実はすべて「脳の死の結果」であることはみなさんご存じですよね。脳が死ぬから心臓や呼吸が停止し瞳孔が開くのです。厳密には「脳死」というより「脳幹死の結果」と言った方が正確でしょうけれど。つまりは、心臓や呼吸を管理している脳の部分が死んだことを、心拍や呼吸が停止したことで知っているわけです。
ですから「心臓死」と「脳死」は実は対立概念ではありません。「死」をどちらの方から見るかの視点の違いと生死の境をどこに引くかの線引きの位置の違いに過ぎません。脳死を否定したらその分人が健康で長生きできるわけではないのです。
私自身は、たとえ心臓が動いていても、脳が広範に損傷されて脳死判定の基準を満たしている状態だったらそれは「私(という存在)の死」だとしてもらって差し支えありません。ただ、いわゆる植物状態や、ちょっと特殊ですが「閉じ込め症候群」(locked-in syndrome)の場合には「たとえ全然動けなくても、私は生きているぞ」と主張したいな。逆に、機械式の人工心臓を埋め込んだ場合には「心臓死の三徴候」が最初から満足できません(心臓は止まりませんから)。この場合には、呼吸停止や瞳孔散大がきたら「心臓が動いているからまだ死んでいない」と主張するのではなくて、脳死しているかどうかの判定に持っていってもらった方が良さそうに思います。
固定リンク
|
コメント (0)
|
トラックバック (0)