ときどき病棟に「○○さんの病状について詳しく知りたい」という電話がかかってくることがあります。私は基本的に答えません。そもそも「○○さんが入院しているかどうか」についても答えませんが、「そちらに入院していることは家族に聞いた」と言われたら、たとえばこんな会話になります。
「失礼ですが、どちら様ですか?」
「……知り合いの××だ」
「患者さんの病状については、ご本人とご家族に説明してありますので、詳しく聞きたければそちらにお問い合わせ下さい。あるいは、ご本人や家族の承諾書があれば、説明しても良いです」
「なに、面倒くさいことを言っているんだ。せっかく電話したんだから、さっさと説明すれば良いんだ」
「個人の病状はプライバシー情報ですから、軽々しくお答えできません」
「俺が信用できないというのか。馬鹿にするな!」
「信用できるかできないかを言っているのではなくて、個人情報は軽々しくしゃべれない、と言っています。どうしてもお知りになりたかったら、次回のご家族の面談の時に、同意を得て同席してください」
こういった主張をする人は、もしも自分が入院して、病院外からどこの誰か本人確認ができない電話がかかってきた時主治医がぺらぺらぺらぺら病状やら見込みやらをしゃべっていたら、それを喜ぶんですよね?
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今の医療に足りないものはたくさん数えられます。
人が足りない。時間が足りない。金が足りない。知識が足りない。知識を普及する手段が足りない。
「足らぬ足らぬは、工夫が足らぬ」と簡単に片付けられてしまいそうですが、工夫とは無関係に足りないものが別にあるように、私は最近感じています。
「祈り」です。
「人が人を治す」ことがあまりに当たり前になってしまっていますが、医者も患者も家族も周りの人も、「やることはやりました。どうか上手くいきますように」とともに祈る時間が、もうちょっとあってもいいんじゃないです?
……世間一般の人は、医者が「自分は全力を尽くしました。どうか直りますように」と祈っている姿はあまり見たくはないでしょうけれど。
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ある救急病院勤務の医師から聞いた話(を“脚色”したもの)です。
そこの外来も“コンビニ受診”で時間外は目が回るほど忙しいのですが、いつものように夜中過ぎてもくるくる働いていると、病棟から電話が。「入院患者の家族が『主治医から説明を聞きたい』と大声で怒鳴っているので、何とかして欲しい」。
なにごとかとその医師が駆け上がると、数日前に入院した患者さんの家族が「入院した時に説明を聞いたが、心配だから確認のためにもう一回聞きたい」と。忘れている人のために繰り返しますが、真夜中過ぎです。
不思議に思って「そういう用件なら昼に来てくれませんか」と言うと「昼は仕事してるに決まっているだろう!」「いや、それなら仕事が済んでからでも。私は今日は当直だからこの時間でもいますが、普段でも夕方遅くまでどうせいますから」「皆と一杯飲むに決まっているだろう! それがやっとすんだから見舞いに来てやったんだ!!」
昔々、殿様が調子が悪くなると「くすし、くすしはおらぬか」と夜中でも平気で呼びつけることができました。もちろん医者はそのために「侍って」いるから「侍医」なのです。
で、上記のようなお行儀の悪い人にとって「主治医」とは「いつでも呼びつけることができる、主に自分のためだけに侍っているべき医者 = 主侍医」なんでしょうね。で、そんな無茶な要求をする人に限って自分の要求が叶えられないと、暴れます(たとえ身体的暴力はふるわなくても、言葉で)。きっと“気分は殿様”なのでしょう。でもねえ、殿様には、暴君もいますが明君や名君もいるんですけどねえ。
べつの「しゅじい」もあります。他の患者は後回しにして、自分を優先的に診ろ(あるいは、重症の人の処置よりも、自分との雑談を先にしろ)などと要求する人も時にいるのですが、こういった人にとって「しゅじい」は「主に自分だけを診る医者 = 主自医」なのでしょう。
「主侍医」にしても「主自医」にしても、ベースは「自分は殿様である」でしょう。しかし、なぜそんなに自分が世界の中心にいると思えるのかは不思議です。たしかに昔の王侯貴族なら侍医をそのように扱うこともできたでしょうが、皆が平等の健康保険制度を使っておいて自分だけ特別扱いしろ(他人には損をさせろ)とぬけぬけ要求できると考えるとは、ちょっと(いや、相当)図々しくはありません?(というか、真面目な人がお行儀の悪い人のために不利益をこうむることに私は我慢なりません)
もちろん「侍医」はOK。ちゃんと契約を結べば、ですが。ただし、制度としてはコストがかかりますよ。払います? そのコストを“節約”するために「聖職」だの「医の倫理」だのを持ち出して人を都合良く安くこき使おうと画策するのは、ただのおケチだ、とクレヨンしんちゃんに言われちゃいますよ、きっと。
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いろいろな病気や事故などを見てきていると、「自分だったらこのように死にたいか?」と思うことがあります。もちろん死にたいわけではありませんが、いつかは死ななくちゃいけないわけで、だったら(もし選べるのだったら)少しでも好ましい死に方をしたいものだ、と。
個人的にはぽっくり即死が良いです。だらだら痛かったり苦しかったりするのは、やっぱりいや。だけど、自分には良いとしても、残された家族にはどうでしょう。突然家族が死んでしまったら“心の準備”が全然できません。いろいろなケースを見てきましたが、これはこれでずいぶん辛いものです。
だとすると、老衰はどうかな。自分が自分であることさえ認識できなくなって、家族もあきらめがついた頃にすっと命の火が消える。ただ、これも良いところで死ねればいいのですが、あまりに長期間の看病が必要だと(自分ではもうわからなくなっているにしても)家族の負担が大変です。
なかなか都合良くはいかないものです。だから日本各地に、ぽっくり寺・ぽっくり地蔵・ぽっくり不動・嫁いらず観音・ころり観音・ころり三観音・ぽっくり弁天、などがあるのでしょうね。
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かつて日本では「思いやり」から本人への癌告知は行われませんでした。不治の病であることを知らせても本人にとって良いことは何一つない、と考えられていたからです。
ただ、「思いやり」と表面は綺麗な言葉ですが、この考えの裏側には「知らせる勇気がない」「上手な知らせ方がわからない」「嫌なことにはかかわりたくない」「縁起でもないことは言いたくない」「知らせた後のことに責任を取れない(取りたくない)」なども隠れていたのではないか、と私は感じています。
ところが、やっと告知をしても「否認」をされることがあります。これは一般日本語では「事実を認めない」という中立的な意味ですが、心理学的には「それを認めたら自分が傷つくのがわかっているから、自己防衛のために現実を否定する」というちょっと重い意味を持った言葉です(専門家は「防衛機制」なんて言葉を使ってくれます)。
たとえば「自分は病気で死ななければならない」ことを認めるのは辛いことです。だったら「そんなの誤診に違いない」と頭から思いこむ方が、自分を守るためには楽です。楽なはずなのですが、でも現実は容赦なくそこに存在しています。結局否認は、自分を一時的には守りますが心の深いところでは傷を残し、さらに毎日傷は増えていきます。否認を優先させることは、現実を否定しながら生きていかなければならないのですから、毎日毎日何かにぶつかって傷を負うことになるのです。
今の日本は「医療崩壊」という「病」にとりつかれています。ではそのことを「告知」するべきでしょうか。これは死病ではありません。手を打つのが早ければ早いほど「損害」は軽くすみます。ただし、まったく「無傷」でやり過ごすことができるほど簡単な「病」でもありません。
そこで、「告知」しようと声を上げる人があちこちに出現しました。
ところがそういった人が出くわしたのが「否認」です。日本には「そんなことを言っても、聞いてやらない」という人があふれていたのです。(それどころか、医療崩壊を警告する医師を誹謗中傷する輩もいました……訂正、今でもいます)
これは「自分が病気であることを認めたくない」という心理メカニズムが働いているのかもしれませんが、マスコミや官僚や政治家が否認に忙しいのは、自分たち(先輩を含む)が犯した過去の過ち(自分が医療崩壊の原因を作った/それを容認した/推進した)に直面する勇気がないからかもしれません。どちらにしても、一般国民には迷惑な話ですけれどね。
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なんだか衆議院がもうすぐ解散になりそうで、「A案が衆院を通過したこと」さえもがそわそわした国会ではうやむやになってしまうのではないか、といった雰囲気を私は感じています。
現在私が勤務する環境は、脳死判定とは無関係です。脳死と無関係、とは言えませんが、少なくともその「判定」が必要になることはありません。おそらく日本のほとんどの病院はそうでしょう。だから法律が通過したとしてもそれで日本で「脳死」の発生が突然どかどか増えることは無いだろうと思っています。
ただ、過去に「これは脳死ではないか」と思ったことはあります。重症で人工呼吸器につながれている状態の方が、たとえば痰の吸引のときなどに管を外されているときに一切自発呼吸を見せないような状態です。そういったとき私はできるだけご家族にもその姿を見てもらうようにしていました。別に説明を押し付けはしません。ただ「自力ではすでに呼吸ができなくなっている状態である」ことは自らの目で認識して欲しかったものですから。
なお、日本政府の方針を支持する人で脳死を嫌う人は、自宅で死ぬ、という手があります。これだったら脳死判定ができない、以前に、脳死自体になれないでしょうから。病院を使わず医療費を安くするという点で日本政府の「医療費削減」方針にも合致します。
現在の日本での死亡は、ほとんどが病院です。そして、その病院のほとんどでは、脳死ではなくて心臓死で「死」が判定されています。脳死を判定する機器は最初から装備されていませんから、見るのは呼吸停止・心拍停止・瞳孔の散大、の三徴候です。
しかし、この三徴候、実はすべて「脳の死の結果」であることはみなさんご存じですよね。脳が死ぬから心臓や呼吸が停止し瞳孔が開くのです。厳密には「脳死」というより「脳幹死の結果」と言った方が正確でしょうけれど。つまりは、心臓や呼吸を管理している脳の部分が死んだことを、心拍や呼吸が停止したことで知っているわけです。
ですから「心臓死」と「脳死」は実は対立概念ではありません。「死」をどちらの方から見るかの視点の違いと生死の境をどこに引くかの線引きの位置の違いに過ぎません。脳死を否定したらその分人が健康で長生きできるわけではないのです。
私自身は、たとえ心臓が動いていても、脳が広範に損傷されて脳死判定の基準を満たしている状態だったらそれは「私(という存在)の死」だとしてもらって差し支えありません。ただ、いわゆる植物状態や、ちょっと特殊ですが「閉じ込め症候群」(locked-in syndrome)の場合には「たとえ全然動けなくても、私は生きているぞ」と主張したいな。逆に、機械式の人工心臓を埋め込んだ場合には「心臓死の三徴候」が最初から満足できません(心臓は止まりませんから)。この場合には、呼吸停止や瞳孔散大がきたら「心臓が動いているからまだ死んでいない」と主張するのではなくて、脳死しているかどうかの判定に持っていってもらった方が良さそうに思います。
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NHKで大久野島の毒ガス製造後遺症患者のことをやっていたのを見て、昔読んだ本のことを思い出しました。
『地図から消された島 ──大久野島 毒ガス工場』武田英子 著、ドメス出版、1987年、1500円
番組では、患者認定を受けた人の患者票が画面に大きく写されていましたが、その左上に「毒ガス」ではなくて「ガス」と書いてあったのに気がついた人がどのくらいおられたでしょうか。
1952年ころ現地の検診を行った医師たちによって毒ガスによる後遺症患者(たとえば若年肺ガン)が多く存在するという「現実」が暴かれ、「そんなものはない」と言っていた国はしぶしぶ重い腰を上げましたが、結局救護法は立法されず、1954年に「ガス障害者救済のための特別措置要綱」が通達されました。ただし、「現実」が存在することを認めはしたものの、国は「毒ガス」という言葉を使うことを強硬に拒否しました。その言葉を使ったら「我が国が国際法違反の毒ガス製造に関わったと認めることになる」からです。さらに認定要件のハードルを無茶苦茶高く設定しました。
だから通達の表現は「毒ガス」ではなくて「ガス」です。しかし、「ガス障害」って? ガス自殺の後遺症みたいですが。
『星の王子様』(だったかな?)に出てきた、ライオンに追われたら頭を砂に突っこんで「ぼくにライオンは見えない。だからライオンからもぼくは見えない」とつぶやいているダチョウを思い出します。自分に都合よく言葉を操れば「現実」も自分に都合良く変わってくれる、と思いこんでいる姿を。そんなダチョウは(たぶん)ライオンに食べられてしまいますが、困ったことに、それが権力者の場合は権力者は安全で弱者が泣くことになるのです。
さらに元所長が国を守るためか自分を守るためか「毒ガスという危険物を取り扱うのには防毒面や換気など細心の注意を払っていたのだから、障害など生じるはずがない。生じるはずがないのだから生じていない」と主張します。……おやぁ、毒ガスを製造していたことは認めるんですね。
しかし、タテマエさえ言い立てれば現実なんか無視して良い、言葉を都合良くねじ曲げれば自分の汚点は認めずに済む、という幸福な人たちが多いことにはため息が出ます。(ついでですが、当時の防毒面や防毒服は密閉が不十分でその隙間から毒ガスは容易に侵入しましたし、そもそもゴム自体がガスを浸透させました。さらに、いくら工場から離れていても(工場を換気するということは、そのへんに排気する、ということですから)島全体が微量の毒ガスに覆われた環境だったので結局人体傷害は起きていました)
なお、(「毒ガス後遺障害者」ではなくて)「ガス障害者」であることを認定してもらうためには認定委員会の厳しいハードルを越えなければなりません。さらにはじめのうちは、認定は軍人と軍属に限定され、勤労動員された一般国民は放置されました。このへんは大量に病気や傷害が生じた場合に日本政府が必ず行う「日本の伝統」に則った手法ですね。最初は否定/次はしぶしぶ認めるが限定した救済/やがて(多数が死んだ後で)救済範囲の拡大、です。(さらに、正社員は「社員」だが派遣社員は取り替えのきく「部品扱い」、も連想します)
ちなみに上記の本のタイトルは、大久野島が1938年から1947年まで国土地理院の地図から姿を消していたことによります。誰かが「そんなものはない」と言えば、本当に歴史から姿を消すものが、この世にはあるようです。
※おまけ
日本軍によって毒ガスが実戦で初めて使用されたのは、1930年台湾でのことです。セーダッカ族の蜂起(「霧社事件」)に対して焼夷弾と毒ガス弾攻撃が行われました(国会では「催涙弾である」と答弁が行われたそうです)。もちろんこれは「実験」で、その結果1931年に陸軍はホスゲン・三塩化砒素・イペリット・ルイサイトなどを制式化しています。
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「オリンピックにとりつかれた人々の病気」ではありません。かつてはマイコプラズマ肺炎の発症はなぜか四年に一度のピークを持っていて、それがちょうどオリンピックの年だったのです。現在は「オリンピックの年」も夏期と冬期で違いますし、マイコプラズマのそのへんてこな周期も崩れてしまいましたので「オリンピック病」という言葉も言われなくなりました。
ところで、(夏期)オリンピックの年は、アメリカ大統領選挙の年でもあります。だから五輪は政治とも簡単にリンクします(たとえばモスクワ五輪ボイコットのように)。古代ギリシアではオリンピックが戦争を止めましたが、近代化した人類は政治や戦争でオリンピックを止めることができます。
おお、人類の進歩と叡智よ。
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入院患者の家族の人が「入院したからこれで安心」と言われることがあります。「すぐ治る疾病」だったらとりあえずそれでも良いのですが、前途多難だったり急変する可能性がある場合にはそう手放しで安心するわけにはいきません。ですから私は「今から心配するのは私の仕事になります。だけど、本当に心配なことは全部お知らせしますから手放しで安心はしないで下さいね」と言います。
もう一つ、「治せない(直らない)場合」も考えておかなければなりません。たとえば脳卒中の後遺症のような状態です。
こういった長く残る大きな後遺症の場合、私は二人三脚あるいは三人四脚のイメージを持っています。一人では十分走ったり歩いたりできない人の脇(片脇あるいは両脇)にサポートが入って、後遺症を持った人と一緒に進んでいく、と。
医療費を惜しむ人は「最初から家族が支えろ」と主張しそうですが、私はその意見には賛成しません。まずは両脇をプロが固め、それで前に進めるようだったらそこで片方をアマ(家族など)に交代。それで良ければプロがはずれることができるか(三人四脚を二人三脚にできるか)どうかを試してみる、というイメージを持っています。さらに、上手く“二人三脚”になれたとしても、「支える人」がずっと支えていたら疲弊しますから、支える人を支える人、あるいは交代要員が必要です。
つまり、この二人三脚あるいは三人四脚は、あなたや私にもつながってくるお話です。「誰かが面倒見れば良いんだ」と言って自分は“支える人を支える人”や“交代要員”になる気が全然ない人間を見ると、私は何かを投げてやりたくなります。
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「新型感染者、「水際」含め千人に」(CBnews)
世論調査でもそうですが、公表された数字だけにらんでいても「真実」はわかりません。世論調査だったら、誰が誰を対象にどのような方法で調査したか、がデータの背景として重要です。「感染者数」のデータでは、「何県が多いか」を見てもしかたありません。もちろんどの都道府県も同じ方法論によって動いていたのなら、その中で突出した数字には注目するべきですが、この場合にはそうではないことが明らかなのですから。
といって、「どのくらい見逃しているか」を言い立ててもしかたありません。証明のしようがないのですから。
ただ、それでも参考にできる数があります。ネガティブデータ、つまり、新型インフルエンザを疑ってPCRを行なったけれど、結果がネガティブだったものの数です。これを「発見者数」の隣に並べれば、どの県が熱心に発見努力を行ってその何パーセントが当たったか、どの県が最初からやる気がなかったか、などが一目瞭然となるはず。幸い(?)現在は新型インフルエンザのPCRをしているところは限定されていますから、電話取材でも50ヶ所くらいに電話すればデータはそろうでしょう。マスメディアには、そういった視点からの取材を期待……したい……のですが……(だんだん歯切れが悪くなる おかだ)……
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