内科学会が東京国際フォーラムで4月10日から3日間開催されますので、その隅っこに混ざろうと上京しました。昨年も東京だったなあと見ると今年の担当は東北大学。ここまで大きくなった学会だともう仙台などの地方で開催するのは困難、ということなのでしょうか。個人的にはもっとあちこちに行きたいと思いますが、しかたありません。学会認定医の資格維持のための手続きを忘れずにやって、さて、あとはどこを覗こうかしら。面白いネタがいろいろ転がっていればいいのですが。ミニオフを二つ企画していますので、そちらも楽しみです。
今ホテルに入ったので、ネット接続がきちんとできるかのテストでした。体感で3〜4Mbpsくらいの速度かな、まあなんとか我慢できるスピードです。
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私はmixiで、ある大きな(参加メンバー数が五桁の)コミュニティの管理人もやっています。ちんぷんかんぷんの人のために解説しますと……やたらと人が集まっているネット上のmixiというサイトには、個人メンバーの日記とそれにコメントをつける人たちの個人的なつながりとは別に、ある特定のテーマごとにそれに興味を持つ人が集まる場が設けられており、そこをコミュニティと呼びます。コミュニティの中にはさらに細かいサブテーマごとにそれぞれ別の掲示板を設けることができ、それをトピックと呼びます(たとえば特定のアニメなら「○○ダム」のコミュニティの中に「音楽について」「サブキャラの××が好き」といったトピックが並ぶ/憲法なら「日本国憲法に賛成(反対)」というコミュニティに「○条について」「改正案」といったトピックの群れ、といった感じです。例示したのはあくまで架空のもので実在のコミュニティと似ていてもそれは偶然です)。コミュニティの管理人は、トピックを誰が作るか(管理人だけに限定/メンバーなら誰でも自由に)の決定とか有害な行動をとるメンバーを排除する(発言を禁止する)管理権限を持ちます。管理権限というとなんだか大げさですね。昔のパソコン通信NiftyServeのフォーラムの管理者(SysOpとかSubSysOp)は会社の管理職に似た権限を持っていましたが、mixiの方は基本的に大した権限はありません。どちらかというとマンションの管理人に近いように私は感じています。
で、多くの人間が集まればそれは様々な意見が出てきます。で、定期的に必ず出てくるのが「今のコミュニティの(あるトピックの)雰囲気はよろしくない。管理人がナントカしろ」というご意見。
面白いのは、それらの人の発言が必ず、「自分の個人的な意見ではない。客観的な正しさを持っている」という主張と「管理人がナントカするべきだ」という指示・命令がセットになっていることです。さらに、他人に対する攻撃・非難(こんなつまらないトピックを立てやがって/こんなつまらないトピックで喜んで発言しやがって)が付着しており、でも自分が理想とする発言を繰り返して“お手本”を示すとか理想とするトピックを立ててみせるという行動を欠いているのも共通の特徴です。
さらに面白いのは、管理人に対する態度です。「管理人がナントカしろ」というのはつまりは管理人の権限で他者(その人が気に入らない行動をする人びと)を思うように動かせ、という要求ですが、そこで管理人が「じゃああんたも○○をしろ」と言ったら、絶対それには素直に従いません。「他者は管理人の“権威”に従うべきである」と「自分はその例外」とが見事に両立しています。「自分>管理人>その他のメンバー」の“ヒエラルキー”がご自分の中では確立している様子ですが、そんなものを露骨に見せられて、誰がその人に素直に従います?(反語)
もし私があるコミュニティの雰囲気が自分の気に入らなかったら、そしてそれを変えたいと本気で思ったら、「自分は今とは違うこういった雰囲気が好みである」と宣言をして(あるいはそういった宣言抜きで)、自分好みの発言をする・自分好みのトピックを立てる、といったことで“同志”を募り、それによって雰囲気が少しでも変わることを願います。管理人をこづきまわすことに熱心になるよりもね。(「悪意の人間が集中している」状況ではまた別の手を考えますが、今は“非常時”ではなくて“平時”でのお話) それで“同志”が集まらなかったら、それは自分の考えていることかやっていることがそこでは不適切だった、ということでしょう。
もちろん彼らの「動機」は善意です。「このコミュニティがもっと良くなって欲しい」というのは善意以外の何ものでもありません。しかし、その善意が独善かどうかの自省とその善意を現実化するための手法が妥当かどうかの検討を欠いている場合、それは相手には届きません。(ちなみに、そこで激高して「自分の善意が実現しないとは、あんたがおかしい。反省しろ」と暴力的に執拗に迫り続けるのがきっと最近流行の「モンスター○○」なのでしょう。自己が確立できず他人に依存(*)して生きている人の悲鳴かもしれませんが)
*)私はここでは、薬物依存やアルコール依存と同じ意味で「依存」を使っています
突然話が大きくなります。多くの人が集まれば、そこには多くの思いが集まります。ただしそれらの思いを単純に「正しい」「間違っている」で断じることはできません。それぞれの人のそれなりの思いなのですから。
私はそこに多神教の世界を重ねています。様々な神々が存在する世界に「唯一絶対の真理」は存在しません。もしあるとしたら、そこは一神教の世界です。「その神の教義(ドグマ)」は唯一絶対ですから、それに反した存在は「異教」「異端」となって攻撃されます。なるほど、「自分は正しい」の人が他者に対してとげとげしく攻撃的であるわけです。だけど多神教の信者である私にとっては、コミュニティに集まったさまざま人の思いを尊重することが重要なのです。自分の「正義」を押しつけることではなくて。
ところで、そこで「様々な人の思いを尊重する」と言うと必ず「ならば自分の思いも尊重しろ」と反射的に要求する人がいますが、それらの人のホンネは「自分の思い“だけ”尊重しろ」です。「も」と「だけ」の違いが一番明確になるのは、私があっさり「それはダメ」と言った瞬間です。「も」の人はしばらく考え込んだり「なぜ?」と聞き返したりしますが、「だけ」の人は頭を瞬間沸騰させます。「“正しい”自分の思いを拒否するとは許せない」(異教だ異端だ宗敵だ)と。ということで、きわめてわかりやすい“リトマス試験紙”として、私はその手法を愛用しています。私は、その人が述べる意見や思いの内容の妥当性だけではなくて、それを実現するための手法も非常に重要だと考えていますから。あ、ここで公表してしまったから、また別の手を考えなければならないかな。
医療でも事情は同じです。(長い前振りでしたが、やっと(短い)本題です) 「患者」という単一の存在はありません。“それ”は様々な思いを持った人々の集合体です。そこで医者が「自分のドグマ」を押しつけたらどうなるでしょう?(あるいはある患者が医者と他の患者すべてに「自分のドグマ」を押しつけることも同様です) いろいろな人がいろいろな人生といろいろな病気を背負って集まった状況で医師がすることは「自分が信じる正しさ」を他人に押しつけることではなく、他人を操作することでもなく、それぞれの人がどこを拝んだら一番“御利益”があるかを神々の中から選択する手伝いをすることでしょう。多神教的に私はそう考えています。
※ふつう「多神教」と「一神教」が戦ったら、多神教の方が分が悪くなります。多神教は一神教の存在を(多くの神々の一人として)認めますが、一神教は多神教の存在を認めませんから。だけど、多神教の側も少しは歴史から学んで、「ドグマを信じるのはあんたの勝手だが、それをこちらに押しつけることは認めない」の線で頑張るしかないでしょうね。
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