今朝の食事の席で急に一家で「おくりびと」を観に行くことに決まりました。息子の同級生の一家が行って皆がぽろぽろ泣きながら帰ってきた、という話を聞いていたのが伏線です。ネットで調べたら45分後に始まる映画館があることがわかったので、即出発。3人ですが、夫婦50割引と子ども料金で合計3000円。安くついて嬉しいものです。
開演すぐ、山崎さんや本木さんが演じる納棺師の所作の美しさに私は心が奪われました。遺体と遺族双方に礼を尽くし情が込められ、しかし合理的で一切無駄のないプロの動きです。死後硬直が変に生じた場合とか持病による関節拘縮などがあった場合にはどうなるのか、ちらりと“専門家の心”が動きますが、それは脇線なのでちょっと自制。
「どのように死ぬか」は「どのように生きるか」によって多くが決められます。しかし「死」で人生の幕が引かれて「はいおしまい」となるわけではありません。その後にまだ「死者と生者の関係」が残されます。この映画でも様々な家庭の様々な姿が描写されます。私は自分がこれまで病院で見てきた臨終の席などでの様々な家族のありようも思い出しながら画面を見ていました。特に「家族が亡くなったこと」自体を受け入れられない遺族がまわりの人に怒りをぶつけるシーンは現実感があります。かつては「喪に服する」ことによって一時現実社会から遮断されて少しずつ自分で自分を癒す(家族の死を受け入れる)ことができたのでしょうが、今はスピード時代、あっという間に心を切り替えることが求められます(ところで、それは誰が求めているのでしょう?)。せめて「喪の儀式」を形式的なものではなくて、心のこもったものにすることで何とかするしかないのでしょうか。
私の家内は小学生の時に祖母を亡くし、そのときには親戚が集まって納棺をしたそうです。ただ、親戚が行うがゆえのストレスも家族にはあったそうです。そういえばどこの地方だったか、喪主が遺体を背中に縛りつけて入浴することで湯灌をする風習の所がある、と聞いたこともあります。これも人によってはトラウマになりそうです。プロがいるのなら(そしてその人の腕がよいのなら)プロに任せた方が良い場合も多いのではないかと私は思います。
差別の問題も見逃されていません。誰もが死ぬのに、なぜか日本社会では「死に関係する人」は差別の対象となります。人の死だけではなくて動物の死の関係者(屠畜場で働く人)も。これは、死をタブーとした日本の伝統によるものでしょう。で、軽蔑し差別しながら、そういった人のお世話にならなければ我々は安心して生きていくことも死ぬこともできません。なんとも皮肉な話だ、と簡単に私が言えるのは、私自身がそういった「差別される側」に身を置いているからでしょう(私は「医者は被差別階層」論者です)。
そして「生と死」。食物連鎖、そして、親と子。この映画では常に「生と死」が登場し続けています。(山崎さんが美味しそうに食べているシーンで「タンポポ」を思い出した時には、連想が逸脱しすぎでちょっとマズイなとは思いましたが(笑))
「死」に限らず、難病とか死病とか障害とか、生命や健康にかかわることに限定しても「自分では容易に受け入れられないもの」はこの世にたくさんあります。特に病院ではそういったものが日常的に。治療ができる場合はそちらが選択されるでしょうが、もし治療ができない場合、あるいは治療が選択されなかった場合、そこで必要なのは、納棺師が行っているようなプロによる「喪の儀式」なのかもしれない、と私は思いました。これからの医者は、そういったことも“基本技能”として持った方が良いかもしれません。
映画の最後あたり、妻の美香が言う「夫は、納棺師なんです」には嬉しくなりました。「死」を受け入れられず「死に関係している夫」も受け入れられなかった美香が、自分なりの「喪失の時間」を過ごすことで、「家族を失い、チェロを失い、そして死者を受け入れることを選択した夫」を受け入れる覚悟を決めたことを明示していたからです。あれは本当に重い一言です。
映画のタイトルは「おくりびと」。なぜかひらかなです。「安らかな旅立ち」を見送る人、とするのが普通でしょうが、もしかしたら「喪の儀式(時間)を贈る人」かもしれません。この映画に登場するような上質な納棺師だったら、遺族の心に大切なものを贈っているはずですから。
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