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 書誌情報『病院の言葉を分かりやすく ──工夫の提案』国立国語研究所「病院の言葉」委員会 編著、勁草書房、2009年、2000円(税別)

 医療の素人にとってわかりにくい「病院の言葉」を分かりやすく使うための工夫の本です。本書では「病院の言葉」は「専門家が非専門家に使う医療用語」とされ、3つの類型に分類されています。類型Aは「認知率が低く一般に知られていないもの」、類型Bは「認知率は高く一般に知られているけれど、理解率が低かったり知識が不確かだったり他の意味と混同されている言葉」、類型Cは「新しく登場した重要な概念や事物」です。

 で、類型Aに挙げられている13のことばは……「イレウス」「エビデンス」「寛解」「誤嚥」「重篤」「浸潤」「生検」「せん妄」「耐性」「予後」「ADL」「COPD」「MRSA」……私は「ちょっと待ってくれ」と言いたくなりました。これらのことばをそのまま解説抜きで患者にぶつける医者が日本にはたくさんいるのですか?  もしそうだったらたしかに大問題です。だけど「あなたはいれうすです」なんて言ってから返事も待たずにすぐに「さあ、手術しましょう」と話を進める医者が本当に多いのかしら。もしそんな医者に当たったとしても私だったら「いれうすってなんです? 手術ってどこを、なんで?」と質問しますが、そういった質問をせずにあとになって「なんで自分は手術されたんだろう」と悩む患者も多いと言うことなのかしら。それはそれで別の大問題ですが。あるいは「あなたはしーおーぴーでぃーです。禁煙しなさい」……なんて……くどいので以下省略。
 私が類型Aの中で一番使うのは……「誤嚥」かな。私の場合「誤嚥」という言葉をそのまま使います。ただし、(喉を指さすジェスチャーをして)「食べたものは普通食道から胃へ行きますが」(指は喉から胸、上腹部へ、そしてまた喉へ戻る)「喉の動きが悪くて、間違えて息をする方、気管にはいることがあります。それをごえんと言います」(字を見せる)「誤嚥をすると、ふつうはむせてすごい咳になりますが、ときに肺炎になってしまうことがあります。それを誤嚥性肺炎と言います」……といった流れで説明しています。

 類型Bの「うつ病」のところに「本人が精神的に弱いためにかかる病気だという誤解が多い(25.2%)」とあるのを読んで私は不謹慎にも笑ってしまいました。「教師は気が弱いからうつ病になるんだ」と無神経な広言をした政治家のことを思いだしたものですから。
http://www.ntv.co.jp/news/131049.html
 「糖尿病」のところでは「糖を砂糖のことと考える誤解(47.9%)」「字面から、尿に糖が出るだけの病気と誤解している人もいる」とあります。こういった基本的な病気のことについては、医者が世間を一人一人教育して回るよりは、学校で教えた方が効果的なんじゃないかと思いますが、義務教育の保健体育や家庭科でこういったことを教えてはいけない理由って、なにかあります?
 「メタボリック・シンドローム」でも認知率と理解率の差が問題とされていますが、これについてはマスコミももうちょっとまともに動いてもらいたいと私は思います。「メタボ!」「メタボ!」とおもしろおかしくバラエティ番組で連呼するのなら、そこにちゃんと「メタボとは……」の「解説」もおもしろく付けてもらいたいものです。


 人は専門家になる前は皆素人だったはず。ところが専門家になり専門用語の中で生きるようになると、かつて自分がその専門用語をどう思っていたかを簡単に忘れます(それはどの分野でも同じことでしょう)。ですから私はこの本を「説明の工夫」の本と言うよりは「非専門家がどんな言葉をどう誤解しているか」が解説された貴重な本として読みました。

 ただ、「言葉を共有すること」の重要性を強調しすぎると、その反作用で、「言葉にだけ執着する」「言葉の説明行為さえあればそれですべてがわかった気になる」人が登場するんじゃないか、なんて思いました(日本では極端に走る人がすぐに登場しがちですから)。人の記憶容量には限界があります。あまり「ことば」「概念」の言いかえにばかり夢中になると、聞いた人は何が大切かの順位付けができないまま短期記憶からアトランダムに長期記憶にデータが送り込まれてしまうのではないか、なんて思うのですが。


 ところで……本書の主旨とはちょっと話が変わりますが、「専門語の意味や概念は、絶対にとことん理解していなければならない」ものなのでしょうか?  たとえば「CT」の原理(コンピューターがどのように画像処理を行っているか、そもそもコンピューターがどのように作動しているか、など)、あなたは例えば小学生相手に分かりやすく説明できますか?  それとも、そういった原理よりも、その写真で見えるものの意味を伝えることの方が、重要ですか?


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2009.03.27 07:03 |  その他(一般)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 親の顔、子の顔

 「親の目を盗む」ことに熱中して育った人は、長じて「世間の目を欺く」ことに熱中するのではないでしょうか。

 よく「叱って育てるのが良い」とか「いやいや、褒めて育てる方がよい」とか言います。私はその両方が必要だろうと思っています。「信賞必罰」です。
 しかし、「信賞必罰」で育てるのは、「言うは易く」ですが実は「行うは難し」です。褒めるべきはきちんと褒める/叱るべきはきちんと叱る、そのすべてに渡って見逃しをせず判断をすべて的確に(しかもスピーディーに)行うことが必要ですが、親の注意力や判断力が足りなくて「見逃し」や「ミスジャッジ」が多かった場合、「信賞必罰」が真っ当に機能しない可能性が強くなります。まるで気まぐれのように、同じことをしても褒める場合もあれば無視する場合もある、同じことをしても叱る場合もあれば叱らない場合もある、だと、子どもが混乱します。
 それでも子どもは(最初は)親に気に入られようと行動する傾向があります。そこで子どもが「信賞」に強く志向すると親の前で褒めてもらおうと異常にアピールする人間になりそうですし、「必罰」に偏って「叱られないこと」を人生の目標として育つと「親の目を盗む」ことに熱中する(悪いことをしても見つからなければよい/見つかっても怒られなければよい → 悪いことをしない、ではなくて、見つからないように悪いことをすることに熱中する)ことになりそうです。どちらも人格としてバランスを失しているように私には思えます。前者は結局「褒められないのだったら良いことはしない」「親(あるいは親に告げそうな人)の前でだけ良いことをする」ですし、後者は「親にばれさえしなければ何を(どんな悪いことを)しても良い」なのですから。

 組織で不祥事があってそれが外に漏れて騒ぎになった時「誰が漏らした(内部告発をした)んだ!」と「情報を外に漏らした犯人捜し」に熱中する人たちがいます。つまり「不祥事を自分たちがやっていた」ことよりも「それが世間に知られた」ことの方が問題である、という態度ですが、これって子どもが親の前では良い子でかげでこそこそ悪いことをして「ばれなきゃいいんだ」と嘯いているのと、同じじゃないです?  「親の顔が見たい」と言うべきでしょうが、そういった人たち自身の多くがその「親」をやっているんですよねえ。で、その親子、お互いの顔をちゃんと見ているのかな?(言いながら、思わず自省をしてしまいますが)


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