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2009.03.03 18:35 |  診療  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 癌を活かす

 我ながら、なんてタイトルだ、と思いますが……

 私は「人の性格」を「その人の心に刷り込まれた固有の状態」ではなくて「その人とその周囲での事物との間で反応が起きた時、その人が表現する行動の基本パターン(の集積)」と思っています。つまりコンピューターの性能表示のような「静的」なものではなくて、その人と流動的な環境との関係の上に発生する「動的」なもの。だから、制限はあるにしても状況によってアドリブや修正が効いたり「一皮むける」が可能になる、と。(もし「人の性格」がなにか固定的なものに思えるとしたら、そういった基本パターンで示される行動の記憶が経験的に集積されて本人にも他人にもそう思わせているだけでしょう。それに、人がただ黙って座っているだけではその人の性格はわからないでしょ?  動いた時に初めてその性格が判定できるのです)
 で、基本行動パターンで見ると、世の中には陽気な人と陰気な人(とその中間の人)がいます。で、「陽気」と「陰気」で、病気になった時その病気と仲良くなってしまうのは「陰気」の方です。希望を持っている人と絶望している人とでは、同じ病気でも治り具合が全然違います。
 だからといって、「じゃあ、治療のために陽気になりなさい」と言っても、人の性格がそんなに簡単に方針転換できるわけありません。(「性根を入れ替える」ということばがありますが、そんなに簡単に交換できるものではありませんよね。物理的に可能なはずの自動車のエンジン交換やパソコンのOS交換だっておおごとなのですから)
 ただ、「考え方を変える」ことはできます。あるいは「視点を移動する」ことも。

 たとえば「癌と闘う」ことができる人もいればできない人もいます。だったら、できない人に「だいじょぶだいじょぶ」と脳天気に励ましたり「なんでできないんだ」と詰問したり「性根を入れ替えろ」と命令するよりも、「癌と闘う」以外の選択肢を一緒に探る(つまり「行動する」)のはどうでしょう。ただ、単に癌を「否定」しようとすると、下手すると「癌が発生した母体である自分自身」まで否定することになりかねません。それはあまりよろしくありません。ならばたとえば、「癌とともに生きる」、とか(否定や排除ではなくて、共存です)。
 あるいはもう一歩別の方向に移動して、「その癌を、これからの自分の人生に活かすことはできないか」と考える、さらにあるいは「自分の癌を、他人の人生に活かすことはできないか」と考えることは不可能でしょうか。
 無理に陽気になる必要はありません。絶望しても良いです。でも、絶望の中ででもそうやって「何かを活かす」ことを考えることができたら、それは「自分を生かす」ことにとっても役立つだろうと私はポジティブに考えています。



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2009.03.03 07:08 |  診療  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 1

 MPQC

 「倫理学」が必要なのは大学にいる学者だけで、一般人が持っているのは「倫理観」、は以前どこかで書いた覚えがありますが(こちらではなくて、mixiの方だったかな)、医学の世界で「医学には倫理が必要だ」と強く主張する人に限って「その倫理の内容や基盤は?」などと問いただそうとすると、特定の宗教が登場するのはまだしも、古代ギリシアの哲学者が出てきたり、あるいは説明抜きでえらい剣幕で「倫理も知らないのか!」と怒られたりします。
 悪いんですが、「倫理」という単語だけでは私には何も伝わりません。それは“物語”についている短いタイトルだけですべてを判定しようとするようなものです。(「羅生門」は京都の観光ガイドや門の建設法を論じた本ではないし、「若草物語」は「若い牧草の物語」ではないでしょ?) そして「倫理観」は各個人の生い立ちや価値観が異なるのに合わせて微妙に食い違っているのが普通です。というか、すべての人間の判断が常に一致するのだったら、倫理なんてものに最初から出番はありません。「社会」が「それぞれ価値観の違う人の集合体」であるからこそ、その“潤滑油(人間関係を円滑にする“ツール”)”として「倫理」が必要になるのです。もしも「唯一絶対の真理」としての倫理が社会に存在するとしたら、その社会はがちがちの宗教国家のようなものでしょう。ドグマの下には一切の変更も異議申し立ても許されず、広く議論をする(考えの違う人間が、思想の自由と言論の自由を行使する)ことも認められない世界です。
 ……しかしそれは本当に「倫理的な社会」なのかな?


 私が使う医療倫理はMPQC(4分割)ですが、これも「タイトル」だけでは何も伝わらないでしょう。詳しくはこのサイトを読んでみてください、で終わったのでは不親切ですから、簡単に説明を試みます。
参考サイト「臨床倫理の4分割法

MPQCとは、MはMedical Indication「医学的適応」、PはPatient Preference「患者の意向」、QはQOL(Quality of Life)「生きることの質」、最後のCはContextual Features「患者の周りの状況」です。この4つの要素をカンファランスの場で各患者毎にすべて拾い出して記録・判断してその上でどのような治療と生活をするのかを決定しよう、というお話です。重要なのは、4つの要素をきちんと考えること、オープンに議論すること、です。
 Mだけで決定するのはパターナリズム(家父長主義)ですから、インフォームド・コンセントをベースとする医療にはなじみません。医者と患者は対等ですから、それぞれの主張や要望も対等に扱われます。
 さて、ここで問題になるとしたら、日本ではときに患者本人よりも重要視されることがある「家族の意向」です。いくら目をこすってもMPQCに「F」Familyは見えません。強いて言うなら「患者の環境因子の一つ」つまり「C」の一部でしょう。ただし、患者本人が自分の意見を表明できない状態の場合に、家族が法的な代理人として発言した場合、あるいは「普段からこの患者本人はこのように考え発言をしていた」と言った場合には「P」として扱うことが可能です。だけど、単に『自分としてはこうして欲しい』という「家族の要望」でしたらそれは「C」です。なかなかそういった区別がきちんとできる人は少ないでしょうが、発言するときには主語を明確にしてもらうしかないでしょう。その要望は本当は誰の要望なのか、を。
 それはMの方にも言えるでしょう。患者のため、と言って実は医者が楽をしたいだけ、ということもあるでしょうし、そもそも『患者のため』を錦の御旗にするのは、それこそパターナリズムです。

※人の為と書いて偽と読む、です。(そういえば、信者と書いて儲けと読む、というのもありましたっけ)

 MPQCで大切なのは、もちろん結論もですが、そこに至る過程が本当に倫理的なものかを自分たちで考え行動し確認し続けなければならないことでしょう。誰かエライ人に決めてもらうのではなくて。
 さらに、誰の意見が通ったかではなくて、結果として本人が幸せに一番近くなれたか(選択し得る中では一番患者本人の満足度を高くできたか)どうか、が大きな問題でしょうね。


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