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2009.03.31 18:37 |  医療事故  |  その他(一般)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 3

 小人閑居せず不善を為す

 横浜裁判がまた「免訴」になったそうです。
 この裁判結果を素直に取ると「裁判官が仲間(というか、司法関係の先輩たち)をかばっている」態度に私は見ます。
 たとえば「裁判記録を裁判所が焼却したこと」がスルーされていますが……もし医療事故裁判で「病院が診療記録を焼いた(あるいは紛失した)」と聞いたら、それに対して司法関係者はどんな判断をします?  口を極めてののしりませんか?  証拠隠滅で「罰」が上乗せになりません?  それとも「しかたない」「許してやれ」でスルーしてくれます?
 で、今回「裁判所が裁判記録を焼いた」ことに対してと、露骨に顕著な態度の差があるのなら「司法関係者は、仲間(先輩)をかばうためには、どんな屁理屈でもこねる」と結論することができます(私はします)。
 「免訴」などと逃げずにきちんと判断をしてその反省の上にこれからどうするのかの指針を示すのだったらまだわかりますが、判断をしない・反省もしない・これからのことも示さない(言うにしても司法システムの改善はスルーして精神論だけ)、では、結局同じことがまた繰り返されるだけでしょう。(重大な医療事故の後「これからは皆が気をつけます」としか言わないつまらない病院と似たようなものです)

 「裁判官がするべきことを為さない」点から、私は英語のことわざ“Doing nothing is doing ill”を連想しました。ただ、この裁判官は「何もしない」をしたわけではなくて明らかに「不善」を働いています。するとむしろ「小人閑居して不善を為す」を思い出すべきでしょうか。でも「閑居」しているわけではなくて頭も口も忙しく働いています。
 どうやら裁判官とはことわざを越えた存在のようです。


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2009.03.31 07:00 |  生活 / くらし  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 大学からの電話

 先日忙しく仕事をしている最中に受付から電話がかかってきました。「○○大学の事務のモリタさん、と言われる方からお電話です」
 「○○大学」は私の出身校。さて、なにごと、と聞いてみたら、なんだか変です。いろいろ口実を使って私の自宅の住所と電話番号を聞き出そうとするのです。(文書を送ったけれど返送されたからもう一回住所と電話番号を教えてくれ、とか)
 もしも〜し、卒業生名簿作成のためにそういった個人情報は先日葉書で大学に送ったばかりでっせ。で、大学や同窓会からの連絡は、ネットや病院宛の郵便でちゃんと届いていますよ。
 ということで、個人情報の部分が穴だらけの卒業生名簿を手に入れた人がすべての項目を完成させようと努力している、ということでした。マンションとか相場の業者か、あるいは名簿屋か、ってところでしょうね。
 あっさり電話を切ってしまいましたが、どなたか地獄への直通電話の番号をご存知ありません?  こんどそんな電話がかかってきたら、その番号を教えてあげたいものですから。


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2009.03.30 18:35 |  診療  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 胃透視中止

 二十世紀の思い出です。その日は朝から胃透視検査の当番でした。あの頃は「撮影と読影と所見のレポート記載が3時間で12人」が“ノルマ”でして、ずっとレントゲン装置を操って「ちょっと予定より遅れてるなあ、あと何人?」となったときのことです。若い女性が透視台に乗りました。いつもの習慣でカルテを見ます。名前を呼ぶためとざっと情報を得るためです。時間を節約するために目で文字を追いながら口は自動的に動いています。「○○さんですね、これくらいの声で聞こえますか?」ちらっと目を上げて肯くのを確認してまたカルテを見ます。主訴(何を問題として病院に来たか、の本人の訴え)は……胃部不快感。相変わらず私の口は自動的に動きます。「それでは今からバリウムを飲んでもらいます。最初は口に一口分含んでくだ……ちょっと待って!」
 なにごとか、と患者さんもレントゲン技師もこちらを見ました。いつもの検査の流れをなぜ私が止めたのか、と不審そうです。
 「まだ口の中に入れてませんね?」そこで私は操作室から透視室に乱入。「つかぬ事を伺いますが、一番最近の生理はいつです?」
 そう、若い女性、というか、妊娠可能な女性では必ず聞くべき質問「最終の生理はいつ?」がカルテに書いてなかったのです。聞き忘れたのか、書き忘れたのかはわかりませんが、ともかくそれは本人に確認するのが確実です。

 聞いて良かった。妊娠初期だったのです(あとで産科に回って確認されました)。
 もちろん主訴の「胃部不快感」は、つわりではなくて本当に胃腸の病気による症状だったかもしれません。でも、たとえそうでも妊娠初期にお腹にレントゲンをがんがんかけてはいけません。私は冷や汗をかきながら、彼女を外来に送り返しました。もしどうしても胃の検査をするのなら、カメラにしてください、と言って。
 でもまあ、良いこともありました。一人“キャンセル”になったおかげで検査の遅れがいくらか取り戻せて、私はその日はちゃんとお昼ご飯が食べられたのです。


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2009.03.30 07:04 |  診療  |  スポーツ  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 東京マラソン

 一週間前の東京マラソンで、あるタレントが走っている最中に急性心筋梗塞で倒れたことを私はこの前知りました。幸い命は助かったそうですし、持病があるのを押して出場したのか、それとも前兆無しの純然たる偶発的な出来事なのかは知らないので、そのことには触れません。
 私が気になったのは、これで「東京マラソンでは何があっても命は助けてもらえる」という勘違いが広がることです。今回命が助かったのは「そうなって当然」のできごとではありません。たまたまAEDでなんとかなる病態でしかも心マッサージやAEDが間に合ったから命が助かったのではないか、と私は想像しています(これがたとえば急性心筋梗塞による心破裂だったらどうだったでしょう?)。
 正しい情報はなかなか広がらないのに、勘違い情報はすぐに蔓延します。それも変質しながら。

「東京マラソンでは何があっても命は助かる」→「東京マラソンでは何があっても命を助けるべきだ」→「東京マラソンで誰か死んだら関係者を罰してやる」
「東京マラソンでは何があっても命は助かる」→「日本中どこのマラソンでは何があっても命が助かる」→「日本中どこのマラソンでも何があっても命を助けるべきだ」→「どのマラソン大会でも誰か死んだら関係者を罰してやる」

 ……なんて“拡大解釈勘違い”をしないように「関係者」のみなさんにお願いします。


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 今朝の食事の席で急に一家で「おくりびと」を観に行くことに決まりました。息子の同級生の一家が行って皆がぽろぽろ泣きながら帰ってきた、という話を聞いていたのが伏線です。ネットで調べたら45分後に始まる映画館があることがわかったので、即出発。3人ですが、夫婦50割引と子ども料金で合計3000円。安くついて嬉しいものです。

 開演すぐ、山崎さんや本木さんが演じる納棺師の所作の美しさに私は心が奪われました。遺体と遺族双方に礼を尽くし情が込められ、しかし合理的で一切無駄のないプロの動きです。死後硬直が変に生じた場合とか持病による関節拘縮などがあった場合にはどうなるのか、ちらりと“専門家の心”が動きますが、それは脇線なのでちょっと自制。
 「どのように死ぬか」は「どのように生きるか」によって多くが決められます。しかし「死」で人生の幕が引かれて「はいおしまい」となるわけではありません。その後にまだ「死者と生者の関係」が残されます。この映画でも様々な家庭の様々な姿が描写されます。私は自分がこれまで病院で見てきた臨終の席などでの様々な家族のありようも思い出しながら画面を見ていました。特に「家族が亡くなったこと」自体を受け入れられない遺族がまわりの人に怒りをぶつけるシーンは現実感があります。かつては「喪に服する」ことによって一時現実社会から遮断されて少しずつ自分で自分を癒す(家族の死を受け入れる)ことができたのでしょうが、今はスピード時代、あっという間に心を切り替えることが求められます(ところで、それは誰が求めているのでしょう?)。せめて「喪の儀式」を形式的なものではなくて、心のこもったものにすることで何とかするしかないのでしょうか。
 私の家内は小学生の時に祖母を亡くし、そのときには親戚が集まって納棺をしたそうです。ただ、親戚が行うがゆえのストレスも家族にはあったそうです。そういえばどこの地方だったか、喪主が遺体を背中に縛りつけて入浴することで湯灌をする風習の所がある、と聞いたこともあります。これも人によってはトラウマになりそうです。プロがいるのなら(そしてその人の腕がよいのなら)プロに任せた方が良い場合も多いのではないかと私は思います。

 差別の問題も見逃されていません。誰もが死ぬのに、なぜか日本社会では「死に関係する人」は差別の対象となります。人の死だけではなくて動物の死の関係者(屠畜場で働く人)も。これは、死をタブーとした日本の伝統によるものでしょう。で、軽蔑し差別しながら、そういった人のお世話にならなければ我々は安心して生きていくことも死ぬこともできません。なんとも皮肉な話だ、と簡単に私が言えるのは、私自身がそういった「差別される側」に身を置いているからでしょう(私は「医者は被差別階層」論者です)。
 そして「生と死」。食物連鎖、そして、親と子。この映画では常に「生と死」が登場し続けています。(山崎さんが美味しそうに食べているシーンで「タンポポ」を思い出した時には、連想が逸脱しすぎでちょっとマズイなとは思いましたが(笑))
 「死」に限らず、難病とか死病とか障害とか、生命や健康にかかわることに限定しても「自分では容易に受け入れられないもの」はこの世にたくさんあります。特に病院ではそういったものが日常的に。治療ができる場合はそちらが選択されるでしょうが、もし治療ができない場合、あるいは治療が選択されなかった場合、そこで必要なのは、納棺師が行っているようなプロによる「喪の儀式」なのかもしれない、と私は思いました。これからの医者は、そういったことも“基本技能”として持った方が良いかもしれません。
 映画の最後あたり、妻の美香が言う「夫は、納棺師なんです」には嬉しくなりました。「死」を受け入れられず「死に関係している夫」も受け入れられなかった美香が、自分なりの「喪失の時間」を過ごすことで、「家族を失い、チェロを失い、そして死者を受け入れることを選択した夫」を受け入れる覚悟を決めたことを明示していたからです。あれは本当に重い一言です。

 映画のタイトルは「おくりびと」。なぜかひらかなです。「安らかな旅立ち」を見送る人、とするのが普通でしょうが、もしかしたら「喪の儀式(時間)を贈る人」かもしれません。この映画に登場するような上質な納棺師だったら、遺族の心に大切なものを贈っているはずですから。


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2009.03.29 07:15 |  医療事故  |  生活 / くらし  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 誤用誤解愚行愚考

 「愚妻」「愚息」という言葉を忌み嫌う人がいます。「愚かな妻」「愚かな息子」とはなにごとだ!失礼だ!!と。
 ちょっと待って。「愚妻」「愚息」は「愚かな妻」「愚かな息子」ではありません。
 自称の謙譲語に「小生」がありますが、それと同様の意味で「愚生(ぐせい)」があります。で「愚妻」は「愚生の妻」つまり「愚かな妻」ではなくて「“愚かな自分”の妻」なのであります(まあ「愚かな自分と結婚するとは、あなたは男をみる目がない愚かな女だね」という意味に取ることも可能ですが、それはちょっとネガティブ方向に考えすぎでしょう)。
 ことばを文字通りに読んで誤解するのは、個人の基本的権利に属する行為です。やるのは自由ですし間違っていたらそれで勝手に恥を自己責任でかけばよろしい(権利と責任はセットものなのです)。誰でも最初はもの知らずなのですからそれ自体には問題はありません。だけど、そのことばの真の意味と歴史的な使われ方を無視して「(ことばの歴史を無視した)自分の読み」を他人に押しつけるのは、自由や権利の濫用です。

 ところが、そこで「誤解されやすい言葉の方が悪い」とか「世間では誤用の方が多いのだから、誤解を避けるためにはその言葉を使うべきではない」という意見が登場します。「誤用率に関するアンケートを採ったのか?」と聞きたくなりますが、それ以前に、そういった意見を言われると、「自分は誤解をするから、世界はその誤解に黙って従えばいいんだ」と言われたように気分に私はなります。「ことばの誤解や誤用をしないように自分が努力する」とか「誤解とわかればそれを修正するように自分が努力する」という「自分が努力する」発想はないようで。あるいは「自分がことばを誤用したことで恥をかくのがイヤだから、誤用の方をスタンダードにしましょう。そうしたら自分の恥はなかったことになるから、みんな、それに賛成ね」と言われたような気もします。

 人には知性がありそれに対応して社会には文化があります。あるのだったらそれを使わない手はありません。それを使わず、言葉に関する個人の誤解や誤用を無理矢理押し通すのは、文字通りの愚行(*1)でしかないと愚考(*2)したします。

*1)愚かな行い
*2)「愚かな考え」ではなくて「愚生の考え」

 そうそう、恥をかくってそんな重大事です?  いや、もちろん私も恥をかくのは好きではありませんし、できることなら恥をかかない人生を送りたいとは思っています。でも、どうせかくのだったら、それを糧として成長をしたいと思っています。なんだか優等生みたいな発言で背中がこそばゆいけれど、それを“なかったこと”にするために「恥をかいた自分自身」を否認したり「恥をかいたこと」を否定するために複雑な知恵を絞るよりは、恥の存在を認めた上で“(自分にプラスになる)対策”を考える方が健康的な人生に近いと思うものですから(医療事故に対する考え方と根本は同じです)。それに(医療事故とは違って)、私が他人の恥に注目していないように、私の恥もそんなに世間から注目されていないでしょうから、あまり気に病む必要はないとも思うのです。


※ソシュールが言うところの「パロールがラングに影響を与えてラングが長期的に変化する」とはまた別の次元の話と私は思っています。念のため、蛇足。

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2009.03.28 17:15 |  医療制度 / 行政  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 5

 同じだけれど違う薬

 「成分が同じなのだから、後発品は先発品と同等である」という理屈を駆使している人たちがいます。科学的に分析したら成分が同じ=同じ薬、というわけです。(私はそうは思ってません。理由は簡単。たとえば「私が作ったにぎり鮨」と「プロが自分の経験と技術の粋を尽くして握った鮨」とが「科学的分析でアミノ酸や糖の比率が同じだから『同じにぎり鮨』としてよい」とは言えないと考えるからです。「私が握った鮨」と「同じ材料でロボットが握った鮨」の比較でも同じことですし、「にぎり鮨」の例に拘泥して反論できるとする人がもし登場したらいくらでも別の例を出すことができます)

 ところで、成分名ゾニサミドという薬があります。商品名はエクセグラン。てんかんの薬です。ところがもう一つ、中身がゾニサミドで商品名がトレリーフという薬もあります(今年の1月に発売されました)。こちらはパーキンソン病の薬です。で、厚生労働省のお定めが正しいとしたら、エクセグランをパーキンソン病に/トレリーフをてんかんに、は「適応外」ということで健康保険が使えません。(もし使ったら、レセプト審査で不適切な請求として査定(支払い拒否)されます)
 実は「同じ成分の薬なのに、製品によって適応病名(保険で使って良いと許可されている病名)の範囲が微妙に異なる」ことはこれまでもけっこうあったのです(たとえば以前には、同じアロチノロール塩酸塩で、他の薬は高血圧・狭心症が適応症なのに商品名「アルマール」だけそれにプラスして振戦に使える、なんてのが一例です)が、ここまでみごとに違っているのはここに紹介する価値があると思って書いてみました。

 つまり、厚生労働省は、右の口では「成分が同じなら同じ薬、だから同じように使って良い」と言い、左の口では「成分が同じでも製品名が違ったら別の薬、だから使い分けなければならない」と言っているのです。一体いくつ口があるのでしょう?  ……で、将来ゾニサミドの後発品が出たら、その適応病名は何になるんでしょうねえ??


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2009.03.28 06:59 |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 1

 妄想:人権心外

 人権擁護の観点からは、身体拘束は言語道断ですしプライバシー保護も重要です。ただ、そのへんは病院も少しずつ意識や環境が整備されてきました。だとすると、次は「恥」の問題でしょう。たとえば、自由意思で服を脱ぐのならともかく、脱衣を強制されたりあるいは意識を失った状態で裸を他人にいろいろいじられるのは人権侵害である、ということで、医療の世界に次に導入されるのは「着衣で手術」強制運動、と私は妄想しました。

 礼儀の点からはやはり正装してもらいましょう。男性ならタキシード姿で麻酔をかけて、そこで脱……がしてはいけません。「人前で裸にするなんて言語道断」ですから、タキシードごとメスを入れます。着衣の上から皮膚を消毒するためには技術の粋を尽くしましょう。患者さんが正装ですから、医者の方も正装でないと失礼です。これは人権というより礼儀の問題です。ですから男の医者はタキシード姿でメスを持ちます。いやあ、なんて礼儀正しい手術室。
 女性の正装はまだ手術がやりやすいですね。イブニングドレスだとあちこち開いていますからメスが入れやすそうです。

 あ、まてよ、あちこち開いている、と言うのだったら、水着になってもらったら良いんだ。これだったら人権上も礼儀上も問題はないですね。

 あ、ヌーディストから「意識がない状態で強制的に服を着せるのは、人権侵害だ」と言われてしまいました。
 心外だなあ。


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 書誌情報『病院の言葉を分かりやすく ──工夫の提案』国立国語研究所「病院の言葉」委員会 編著、勁草書房、2009年、2000円(税別)

 医療の素人にとってわかりにくい「病院の言葉」を分かりやすく使うための工夫の本です。本書では「病院の言葉」は「専門家が非専門家に使う医療用語」とされ、3つの類型に分類されています。類型Aは「認知率が低く一般に知られていないもの」、類型Bは「認知率は高く一般に知られているけれど、理解率が低かったり知識が不確かだったり他の意味と混同されている言葉」、類型Cは「新しく登場した重要な概念や事物」です。

 で、類型Aに挙げられている13のことばは……「イレウス」「エビデンス」「寛解」「誤嚥」「重篤」「浸潤」「生検」「せん妄」「耐性」「予後」「ADL」「COPD」「MRSA」……私は「ちょっと待ってくれ」と言いたくなりました。これらのことばをそのまま解説抜きで患者にぶつける医者が日本にはたくさんいるのですか?  もしそうだったらたしかに大問題です。だけど「あなたはいれうすです」なんて言ってから返事も待たずにすぐに「さあ、手術しましょう」と話を進める医者が本当に多いのかしら。もしそんな医者に当たったとしても私だったら「いれうすってなんです? 手術ってどこを、なんで?」と質問しますが、そういった質問をせずにあとになって「なんで自分は手術されたんだろう」と悩む患者も多いと言うことなのかしら。それはそれで別の大問題ですが。あるいは「あなたはしーおーぴーでぃーです。禁煙しなさい」……なんて……くどいので以下省略。
 私が類型Aの中で一番使うのは……「誤嚥」かな。私の場合「誤嚥」という言葉をそのまま使います。ただし、(喉を指さすジェスチャーをして)「食べたものは普通食道から胃へ行きますが」(指は喉から胸、上腹部へ、そしてまた喉へ戻る)「喉の動きが悪くて、間違えて息をする方、気管にはいることがあります。それをごえんと言います」(字を見せる)「誤嚥をすると、ふつうはむせてすごい咳になりますが、ときに肺炎になってしまうことがあります。それを誤嚥性肺炎と言います」……といった流れで説明しています。

 類型Bの「うつ病」のところに「本人が精神的に弱いためにかかる病気だという誤解が多い(25.2%)」とあるのを読んで私は不謹慎にも笑ってしまいました。「教師は気が弱いからうつ病になるんだ」と無神経な広言をした政治家のことを思いだしたものですから。
http://www.ntv.co.jp/news/131049.html
 「糖尿病」のところでは「糖を砂糖のことと考える誤解(47.9%)」「字面から、尿に糖が出るだけの病気と誤解している人もいる」とあります。こういった基本的な病気のことについては、医者が世間を一人一人教育して回るよりは、学校で教えた方が効果的なんじゃないかと思いますが、義務教育の保健体育や家庭科でこういったことを教えてはいけない理由って、なにかあります?
 「メタボリック・シンドローム」でも認知率と理解率の差が問題とされていますが、これについてはマスコミももうちょっとまともに動いてもらいたいと私は思います。「メタボ!」「メタボ!」とおもしろおかしくバラエティ番組で連呼するのなら、そこにちゃんと「メタボとは……」の「解説」もおもしろく付けてもらいたいものです。


 人は専門家になる前は皆素人だったはず。ところが専門家になり専門用語の中で生きるようになると、かつて自分がその専門用語をどう思っていたかを簡単に忘れます(それはどの分野でも同じことでしょう)。ですから私はこの本を「説明の工夫」の本と言うよりは「非専門家がどんな言葉をどう誤解しているか」が解説された貴重な本として読みました。

 ただ、「言葉を共有すること」の重要性を強調しすぎると、その反作用で、「言葉にだけ執着する」「言葉の説明行為さえあればそれですべてがわかった気になる」人が登場するんじゃないか、なんて思いました(日本では極端に走る人がすぐに登場しがちですから)。人の記憶容量には限界があります。あまり「ことば」「概念」の言いかえにばかり夢中になると、聞いた人は何が大切かの順位付けができないまま短期記憶からアトランダムに長期記憶にデータが送り込まれてしまうのではないか、なんて思うのですが。


 ところで……本書の主旨とはちょっと話が変わりますが、「専門語の意味や概念は、絶対にとことん理解していなければならない」ものなのでしょうか?  たとえば「CT」の原理(コンピューターがどのように画像処理を行っているか、そもそもコンピューターがどのように作動しているか、など)、あなたは例えば小学生相手に分かりやすく説明できますか?  それとも、そういった原理よりも、その写真で見えるものの意味を伝えることの方が、重要ですか?


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2009.03.27 07:03 |  その他(一般)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 親の顔、子の顔

 「親の目を盗む」ことに熱中して育った人は、長じて「世間の目を欺く」ことに熱中するのではないでしょうか。

 よく「叱って育てるのが良い」とか「いやいや、褒めて育てる方がよい」とか言います。私はその両方が必要だろうと思っています。「信賞必罰」です。
 しかし、「信賞必罰」で育てるのは、「言うは易く」ですが実は「行うは難し」です。褒めるべきはきちんと褒める/叱るべきはきちんと叱る、そのすべてに渡って見逃しをせず判断をすべて的確に(しかもスピーディーに)行うことが必要ですが、親の注意力や判断力が足りなくて「見逃し」や「ミスジャッジ」が多かった場合、「信賞必罰」が真っ当に機能しない可能性が強くなります。まるで気まぐれのように、同じことをしても褒める場合もあれば無視する場合もある、同じことをしても叱る場合もあれば叱らない場合もある、だと、子どもが混乱します。
 それでも子どもは(最初は)親に気に入られようと行動する傾向があります。そこで子どもが「信賞」に強く志向すると親の前で褒めてもらおうと異常にアピールする人間になりそうですし、「必罰」に偏って「叱られないこと」を人生の目標として育つと「親の目を盗む」ことに熱中する(悪いことをしても見つからなければよい/見つかっても怒られなければよい → 悪いことをしない、ではなくて、見つからないように悪いことをすることに熱中する)ことになりそうです。どちらも人格としてバランスを失しているように私には思えます。前者は結局「褒められないのだったら良いことはしない」「親(あるいは親に告げそうな人)の前でだけ良いことをする」ですし、後者は「親にばれさえしなければ何を(どんな悪いことを)しても良い」なのですから。

 組織で不祥事があってそれが外に漏れて騒ぎになった時「誰が漏らした(内部告発をした)んだ!」と「情報を外に漏らした犯人捜し」に熱中する人たちがいます。つまり「不祥事を自分たちがやっていた」ことよりも「それが世間に知られた」ことの方が問題である、という態度ですが、これって子どもが親の前では良い子でかげでこそこそ悪いことをして「ばれなきゃいいんだ」と嘯いているのと、同じじゃないです?  「親の顔が見たい」と言うべきでしょうが、そういった人たち自身の多くがその「親」をやっているんですよねえ。で、その親子、お互いの顔をちゃんと見ているのかな?(言いながら、思わず自省をしてしまいますが)


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