タンパク毒のアミグダリンなどを含んでいる刀豆(ナタマメ)が、健康食品として流通していることを心配する記事「刀豆注意」(ブログ『臨床医学に、環境・労働の観点を』)を読んで、つらつらとこんなことを思いました。
昨秋、親が柿を送ってくれました。渋柿をわざわざ渋抜きをしてくれたのですが、その電話を受けた私は一言。「渋を抜いていないのも一つ一緒に送ってくれない?」
渋柿を子どもに経験させたかったのです。思い返してみれば、私の子は生まれてこのかた、腐ったものとかアブナイものは一切食べたことがないわけで、それはそれでめでたいことですが、「渋い」という味覚さえ未経験なのはちょっとまずいのではないかこれはちょうど良い機会だ、と思ったものですから。
首尾良く子どもは味覚のレパートリーを一つ増やすことができたのですが(詳細は省略)、そのとき思ったのは、子どもが渋やアクを一切知らずに成長できる社会に日本がなったんだなあ、ということでした。
たとえば私が子どもの頃には、ホウレンソウはアク抜きをしてから食べるものでした。少なくとも小学校の家庭科ではそう習いました。ところが今では、アク抜きどころか生食用のホウレンソウを売っています。葉っぱのぎざぎざが違うような気がするので「新種のホウレンソウ」あるいは「ホウレンソウに似た何か」なのかもしれませんが、私は植物にはうといので自信たっぷりに断言はしないことにします。
アクといえばすぐ脳裡に浮かぶのはドングリです。縄文時代にドングリは立派な食料でした。ところがそのまま食べられるものもありますが、種類によってはアクが強くて口がしびれるものもあります。当然縄文時代にはアク抜きの技術が発達していたはずです。そういえば『美味しんぼ』にはトチ餅の篇でトチの実のアク抜きについてつらつら蘊蓄が語られていましたが、それは縄文文化の残照だったのかもしれません。
私はドングリのアク抜きは、知識としては持っていますが実際に手でやったことはありません。私の子どもは、ホウレンソウのアク抜きさえ知りません。
そのままでは食べにくい/食べられないものを、なんとか処理して食べられるようにする、それは最初は生存のため(餓え死にしないため)の技術だったのでしょうが、生活にゆとりができると食文化となり、さらに豊かになると忘れ去られてしまうのでしょうか。だけど、技術や文化は、一度失うと復活させるのは大変なんですよね。細々とでも継承しておいたらまだ復活させやすいのですが。(明らかにアルカロイド毒を含む彼岸花の球根を食べる技術を継承するべきかどうか、までは私にはわかりませんが)
そういえば、大豆(イソフラボン)や銀杏(ギンコール酸、4-O-メチルピリドキシン)のことも思い出しました。普通にそれらを食品として食べる分には問題は生じないでしょうが、それをたとえば偏食とかあるいは「健康食品」として常用量以上に摂った場合には、健康への影響がちょっと心配になります。
ということで私の連想はやっと刀豆にたどり着くことができました。自分のことながら、私の思考回路はどんな配線になっているのか可笑しく思えます。
何が危険かを瞬時に判断できる本能や経験を持たず、過去の文化も忘れつつある現代人は、せめて知識に頼らないと、アブナイ食品に対してあまりに無防備です。これが文明の進歩と喜ぶべきなのでしょうが、私はちょっと首をかしげて一歩退くことにします。私自身、本能も経験も知識も不足しているので、偉そうなことが言えませんから。ただ、「商売人の言い分」を一方的に信じる前に、ちょっと調べてみる、くらいはしても損ではないよ、と提言しておきましょう。
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確かに現代の子供達は、食べやすくされてモノを供給されていますね。(それが、安全かどうか分かりませんが。)どうやって、過去の知恵、経験、技術を伝承すればよいのでしょう?(と、言っている私も、昔の知恵を知りませんが)
「「商売人の言い分」を一方的に信じる前に、ちょっと調べてみる、くらいはしても損ではない」というのは、全く同感です。
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