おかだ
More プロフィール

Search

Calendar

<< 2009/02 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

トップページ

Doctors Blog

ブログの購読

新着コメント

新生児集中治療室「1年以上入院」が全体の3.8%」朝日新聞の記事から一部引用します。

 NICU、GCUのうち、人工呼吸器がつけられる「呼吸管理可能病床」に1年以上入院している新生児は108人で全体の6.6%。日本産婦人科医会が03年に363病院を対象に実施した調査では、長期入院児は全病床の2.8%、呼吸管理可能病床の4.2%だった。単純比較はできないが、いずれも3年間で約1.5倍に増えている。
 増加原因としては、先天異常などで重い障害を負った子どもが医療の進歩で助かるようになったほか、不妊治療が進み、多胎児や体重千グラム以下の極小児が増えたことが影響しているとみられる。NICUの入院期間は通常、長くても3カ月とされ、1年の長期入院が1人いると、少なくともほかに3人の受け入れができない計算になる。
 退院できない理由では、在宅療養の担い手がいないなど「家族の都合」が24%、「療育施設の不足」が22%で、いわゆる「社会的入院」が半数近くを占めた。「症状が重い」などの医学的原因は34%にとどまった。
 今後の措置に関する主治医の判断を分析すると、「入院継続」はわずか2%。「地域療育センター」(58%)と「在宅療養」(28%)を合わせると、8割超が「退院が望ましい」との意見だった。


 「わずか2%」とありますが、それらがすべて「ひとりひとりの事実の集積」であることを思うと十分重い数字だと思いますが……それ(「わずか」か「わずかではないか」)はともかくとして……
 この数字だけ見たらせっかちな人は「じゃあ、出せる人はともかくさっさとNICUから出せよ」と言いそうですが、それに対しては「どこへ?」が返ってくるわけです。小泉改革の「老人は家庭へ」「障害者も家庭へ」の文脈に従うと、「療養児も家庭へ」になりそうですが、たとえばあなたの家庭に人工呼吸器を一台おいてそこに人を一人つなぎっぱなしにしてその呼吸管理が簡単にできます?(物理的・金銭的・人力的・精神的に) できる家庭とできない家庭があるでしょう(「できない」が多いだろうし、「できる」家庭もそのためには非常に多くのものを犠牲にする必要があるだろう、と私は予想します)。
 で、もう一回聞きます。「どこへ?」 あなたのお宅へ?

 「退院後の受け皿不足、家族への支援……NICU重い課題
 こちらも朝日新聞のニュースです。(余談ですが、朝日の大阪本社、昨年くらいからちょっと医療に関して記事の雰囲気が変わってきていますね。現場をちゃんと取材しようとか、良い方向への変化なので、これからを温かく見守ってあげようとは思っています(これまでひどかったことを、忘れることもしませんが))
 ここでわかる問題は、NICUで「救命ができた“後”」がきちんと整備されていないことです。救命されてそのままストレートに“社会復帰(赤ちゃんの場合には復帰じゃなくてデビューかな)”できれば話は簡単ですが、人生はそんなに簡単な場合だけではありません。そういった複雑にこんぐらがってしまった人生の物語を、今まで社会は医療の世界(と患者家族)に押しつけていました(社会的入院、とはつまり「社会による入院の押しつけ(他に行き場所がないから病院にとどまらざるを得ない)」でもあります。それは、小児科だけではなくて、老人(老人の療養病棟)や障害者(精神障害者の精神病院への社会的入院)などにみごとに表れています。(話はずれますが、都合が悪くなったら政治家が入院するのも、別の意味での社会的入院?) ともかくそうやって「自分たちが責任持って面倒見たくない」人たちを医療に押しつけておいて、それで医療が満杯になったら「どうして新規入院ができないんだ。なんで救急車を受け入れないんだ。患者の回転が悪いのは医療が悪い。自分たちでナントカしろ」と責め立てる、が今までのお上や社会の木鐸のやり口でした。

 もうちょっと医療と福祉とに(個人的にはさらに教育にも)社会としてお金をかけても良いんじゃないです?  もちろん単に金をかければよい、というものではありません。貧乏でも人情豊かな社会、という“回答”もあります。でも「人情を豊かにしろ」という“処方箋”を出して「あとは知らん」とやるよりも、今の日本では継続的に金をかけ続けることの方がはるかに社会の将来は“豊か”になるんじゃないか(福祉を公共事業として捉えたら経済的にも、その結果として社会の活力も上昇し、「衣食足りて礼節を知る」効果で結果として「人情」もアップする)、と私は予想します。


固定リンク | コメント (1) | トラックバック (0)

2009.02.01 07:26 |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 帝王切開

 「シーザーは帝王切開で生まれた」は伝説ですが、「帝王・切開」と読んで「帝王を切開したら怒られるよ」は戯れ言です。
 英語で帝王切開は a Caesarean section でたしかにシーザーの切開とも読めますが、これに関する言語学的な考察は専門家に任せて、ここでは医学的な考察というか思いつきを。

 もし私が古代ローマの産科医で「帝王切開」を実行しようとしたら、その障害となるのは、痛み・出血(止血)・解剖学的知識・感染です。どれもきちんと把握・管理できなければ患者は死ぬあるいはひどい苦しみを味わうことになります。

 まず痛みですが、私が習った麻酔では、帝王切開はまずは(私が目撃あるいは研修で体験した例ではほとんどが)硬膜外麻酔で始めます。全身麻酔をかけちゃうとその麻酔薬が胎児も眠らせてしまって出産直後におぎゃーと息をしてくれないから、切開をするお腹の部分にだけ麻酔をかけるわけです。無事胎児が取り出されたら全身麻酔に移行して母親には寝てもらってました。お腹がこっぽり開いた状態ではやはり気管内挿管がしてある方が全身管理が安全で楽ですから。しかしそんな器用な手技と薬品が古代ローマ時代にあったとは思えません。やるとしたら生身(無麻酔)ですが……

 次は出血。「血が出たら止めればよい」は、現代の止血用の知識を頭の中に持ち止血用の道具がいろいろそろっている人の発想です。火縄銃の時代に西洋では熱した油を傷に注いでいたことを知っている人もおられるでしょうが、その手技を劇的に改良した“近代外科学の父”パレがもう一つ有名だったのが四肢切断です。彼は四肢切断の成功率(生存率)を劇的に改善しました。成功の秘密は解剖学の知識を生かして「血管を結紮して止血をすること」。「なにを当たり前のことを」と思ってしまいますが、パレの時代にはまだ“それ”は当たり前ではなかったのです。血液が血管の中を流れていること(生理学の知識)、そしてその血管がどこにあるか(解剖学の知識)、その両者がそろった上に優れた外科医の技術がふるわれた時、初めて近代外科が成立したのです。
 帝王切開でも事情は同じです。カエサルの時代の医学では、ヒポクラテス派だと「動脈にも静脈にも血液が存在するが循環はしていない」ですがエラシストラトス派だと「静脈には血液が存在するが、動脈は空洞でプネウマ(精気)が流れている」となります。どちらの主張を採るにしても(あるいはそれ以外の派の主張を採っても)、出血量を抑えるためあるいは止血をするためにどの血管を制御するべきか、そもそも血管がどこを走っているかわからない状態では手術の成功は望めません。(古代ローマでは人体解剖は禁止されており、医者は(エジプト由来のものを除いて)人体解剖学の知識を持っていませんでした)
 さらに子宮の解剖(特に筋肉繊維の走向)を知らなければ、どう切ったら一番望ましいかもわかりません。しかも切ったら縫わなければなりませんが、その糸をどうするか、の問題が生じます。
 シルクロードは古代中国と古代ローマをつないではいましたが、シーザー(ユリウス・カエサル)の時代には中国から絹はまだローマにはもたらされていなかったはずです。もしあったとしても貴重な絹織物をほぐして糸にしてそれを傷の縫合に用いることを古代ローマ人が思いついていたかどうか……

 そして最後に感染。これについては多くを語る必要はないでしょう。感染予防の知識と技術がない状況で帝王切開をしたら、術後に母親は腹膜炎を起こして死亡することがほぼ確実です。


 実は、古代ローマでも「帝王切開」は行われていましたが、それは「死んだ母体から胎児を取り出す」ことを意味していました。カエサルの母親がカエサルの生誕後も生きていたことから、「シーザーが帝王切開で生まれた」はガセ、が今回の私の結論です。


固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)