「闇」という言葉から私が連想するのは、「闇鍋」と映画の「暗くなるまで待って」です。意味は違いますが、どちらでも「闇」が果たす役割が重要です。
光がない環境で飯を食ったらどうなるか、それを体験できる場所があります。「真っ暗闇 レストラン」でネット検索をかけると……パリ、チューリヒ、ハリウッド、上海、ロンドン、ベルリン、北京……おやおや、世界各地に「暗闇レストラン」ができているようです。都市名は特定できませんでしたが、カナダやオーストラリアやロシアにもあるそうです。
客はまず光があるところでメニューを見てオーダーをします。そしてそこから店内に案内、ですが、案内するのは完全に視力を失った(あるいはそれに近い視覚障害を持つ)ウエイター/ウエイトレス。客はテーブルごとにその人の後ろに一列に並び前の人の肩に手をかけます。さて、そこから電車ごっこ(あるいはフォークダンスの格好)のようにして暗闇に出発です。おっと、その前に、携帯電話や時計を含めて光が出るものは全部預けておかなくてはいけません。持ち物を落とした時のことを考えたら、おそらく完全な手ぶらがベストでしょう。
体験者の話では、室内は完全な暗闇だそうです。それこそ「鼻をつままれてもわからない」状態。その中を従業員は自由に動きます。出てくるのはきちんとしたコース料理なのですが、客の手がどこにあるか“見えて”いるかのようなサービスぶりだそうです。客の方は、視覚を封じられているため、不安のためかおしゃべりが盛んになったり、他の感覚が鋭敏になってにおいがよくわかったり味が変わって感じられたり、だそうです。
これは「イフの世界(もし自分の目が見えなかったら)」を体験できる新奇な機会でもあるでしょうし、視覚障害者が現実に生きている世界を自ら体験できる貴重な機会でもあるでしょう。ついでに、視覚障害者の雇用の確保の場でもありますね。
では日本では同様の体験ができないか、と考えたら、消防法施行規則のからみで難しそうです。消防法では人が集まるところでは「非常口」のサインは常に見えるように常時点灯しておかなければならないはず(短時間の特例はあったと思いますが)。つまり「レストランの室内を完全な暗闇にする(「非常口」のサインも消す)」はあっさり「ダメ」と言われそうです。許されるぎりぎりの暗さにして、その上でアイマスクでもつけますか。なんだかそれはレストランのコンセプトとは「違う」ような気もしますけれど。
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私の自宅からは、冬には日の出がきれいに見えます。余裕がある時には日の出を見ながら「やうやう白くなりゆく山ぎは少しあかりて」とうろ覚えの枕草子を呟いたりしますが、今日はちょっと寝坊して初日の出は見損ないました。残念。
でも昨日の大晦日に「2008年最後の日の出」を見たから、それでよしとしましょう。その年初めての日の出が特別に重要なら、その年最後の日の出もそれなりに重要でしょ?(雲のために太陽の直視はできませんでしたが、少なくとも、空の色の変化はきれいでした)。
医療は(というか、社会全体が)厳しい環境にありますが、なんとか本年が少しでも良い年でありますように。このブログから医療崩壊を憂えるネタが消える日が早く来ますように。この国に自然な笑顔が満ちますように。
新年のごあいさつの口上に引き続きましては、では早速、本年の最初のエントリーです。
夜の目
「夜は千の目を持つ」という素敵な言葉に私が初めて出会ったのは、中学の時に読んだ石森章太郎(当時は石ノ森ではありませんでした)の「夜は千の目をもっている」(『続・マンガ家入門』収載)でした。
そこで引用される詩の「夜は千の目を持つ、だけど昼には、ただ一つ」……もちろん、星と太陽のことですが、実に優れた感性だとしみじみ思います。読んで約40年経っても私の心に残っているくらい深い印象でした。(だから単に漫画といっても馬鹿にしたものではありません)
実は夜空にも大きな「一つの目」があります。月です。では「夜の目」の分類は「月と星」だけなのかと言えば、星がもう少し細かく分けられます。恒星と惑星に。私が古代人をすごいと思うのは、恒星と惑星をきちんと区別していたことです。水星・金星・火星・木星・土星は世界の東西ともに古代から他の星とは区別されていました。私が知っている鑑別法は二つあります。じっと見ていたら、恒星は瞬くけれど惑星は瞬かない、が一つ(実際には天頂近くの恒星は瞬きにくいし、大気の状態によっては惑星も瞬くように見えることもありますが)。もう一つは長期の継続的な観察です。地球から見た恒星同士の相対的な位置関係はなかなか変化しません(だから「星座」というものが成立します)が、惑星はその公転運動にしたがって地球から見る角度が変化し、地球で見る夜空での他の星との位置が少しずつ変化します(だから「惑う星」なのです)。
さきほどさらっと「公転」という言葉を使いましたが、コペルニクス以前の「天動説」の時代には、この「惑星」の存在が天文学者の悩みの種でした。「地球が宇宙の中心であって、太陽/月/星は地球の周りの「天球」にはめ込まれていてぐるりぐるりと地球を回っている」という天動説では、惑星を特別扱いするためにいろいろと苦労をしなければならなかったのです。そのへんの解説で私が一番わかりやすいと思ったのは『コペルニクス革命』(トーマス・クーン、講談社学術文庫)です。そこで示される星の位置の観察の精密さとそれを説明するために知恵を振り絞って仮説モデルを形成する努力を見ていると、天動説が決して「アヤシイ妄説」などではなくて、人間が自らの知性をフルに使ってまっとうに自然に相対して構築した結果の理論体系であることが私はこの本で理解できました(“間違っていた”のは観察や計算ではなくて、「地球は人類のために神によって選ばれた特別な星だから、宇宙の中心に位置するに違いない」という(宗教的)確信だったのです)。
今年2009年は「世界天文年」だそうです。
文明の進歩によって大気を汚染したり夜空をサーチライトで照射したり巨大な建造物をライトアップしたりして人はわざわざ星を見づらくしていますが、ときにはちょっと夜空を見上げてみませんか。さて、いくつの目があなたを静かに見つめているでしょう?
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