病院にはいろいろな人権制限がありますが、その一つが「食べるものの制限」です。好きなものを食べることができるのは人の生得の権利のはずですが、病院では、やれ「糖尿病があるから」やれ「嚥下困難があるから」などと“難癖”をつけて「勝手に食べないでくれ」と患者さんの人権侵害をします。そこで“レジスタンス”が起きます。すごいのは、病棟を脱出して近くで食べてくる。私はこれまで病院近辺の飲食店などでパジャマ姿でうろうろしている人を何回も目撃しました。病院内の売店へ、はもうちょっと穏やかな手段です。ただしこれらは“通報”や“目撃”があるため、つねに成功するとは限りません。“次善の策”は、持ち込みです。見舞客に、病院の食事がいかに不味いか・自分がいかに不当な制限をされているか、を訴えて持ち込んでもらう、あるいは、金を払って買ってきてもらう、という手です。で、無事ブツが入手できたら(制限されているのですから)陰でこっそり大急ぎで詰め込みます。
おかげで私はこれまでに何回も、窒息しかけた(あるいは窒息して死にかけている)人ののどから、餅やパンや饅頭を掻き出すことになりました。
「病院の患者管理が悪いからそんな事故が起きるんだ」というご意見もあるでしょう。本人が納得するようにきちんと話をするべきだ、と。だけどねえ、いくら頭でわかっても食欲には勝てないことって、ありません?(だから隠れ食いをしてよい、とも言えませんが)
どうしても「管理」をするのなら、病院入り口での身体検査と持ち物検査ですかねえ。できたら「食品探知機」の開発を望みます。それと、死角がないように病院中に監視カメラ。「患者管理(監視)」が好きな人はそんな病院へどうぞ。
そういえば最近ノロウイルスの話題がよくニュースになっています。これも、院内にどこから持ち込まれるのでしょう? 病院給食だったらわかりやすいのですが、病棟内での弧発例はなにが原因でしょう。病棟への出入りは、患者本人が動かない限り主に職員と出入り業者ですが、見舞客もいますね。もしかしたら上記のような食品持ち込みがその原因の一つになっているのではないか、と私は横目で睨んでいます。
そういえば、のどから饅頭を掻きだす大騒ぎをしている最中に連絡した家族が来院されて「病院はどうなっているんだ」と強硬に抗議されたことがあります。気持ちはわかりますが「こんな饅頭が出てきました」とけっこう原形を保っているものをお見せしたら突然顔が青ざめて「さっきこっそり差し入れた奴だ」。それからなぜか静かになられましたっけ。
こんな“正直”な人ばかりだと良い(いや、やっぱり悪い?)のですが、もしもノロウイルスに汚染されている食品を自分で差し入れてそれで入院患者さんがノロウイルス感染症を発症してたとえば亡くなったとしたら、やっぱり「病院の管理責任」を問うて裁判を起こす人は……こんなご時世だからいるのでしょうねえ。
……やっぱり食品探知機かな。
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私の定義では、超一流の医者とは、医療や医学研究で世界的にリーダーの位置にある(本人の実績は世界的であり、さらに有力な仕事をしている弟子が多い、世界的に広く使われている教科書や多く参照される論文を執筆している)人のことです。で、一流の医者とはその超一流の医者の予備軍(あるいは、普通の医者にはとてもできないことを自ら実行することで世界を良い方向に変えていく人たち)。(スポーツだったら、オリンピッククラスが一流、メダリストが超一流、かな)
私は超一流どころか一流の医者でもありません。したがって二流(普通の医療が普通にできる医者)か三流(普通の医療もできない医者)という位置づけになります。三流はさすがにイヤなので、二流でありたい、二流なら二流なりに、その中では上に(一流の医者ほどではないが医療現場で役に立つ得意技をいろいろ持っている“超二流”で)いたいと願っています。
ただ、一流の医者の数は少ないから彼らがカバーできる範囲は世界中を覆ってはいません。隙間だらけです。ですから二流の医者と言っても捨てたものではありません。私がばりばり仕事できる領域はいくらでもこの世にあると思っています。さらに、あまり大きな声では言えませんが、二流だと仕事に人生すべてを献げる一流よりも自由に使えるプライベートタイムが増えます。たとえば本を読んだりブログを書くのに使える時間が。
私も私の家内も、父親(どちらもモーレツサラリーマン)は家には深夜に帰ってくるものと思って育ちましたが、私の子どもたちは「父親と食事をする」が普通のことと思って育ちました。これは私が「二流が良い」と決心したからできたことですが、さて、子育ての結果としてはどうなったか……それは私の子どもがどんな子育てをするか、を見るまでは正しい評価ができないことでしょうね。
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今日は時間があったので新聞を念入りにめくっていると、広告に病気や健康関係のものがずいぶん多いことに気づきました。風邪薬・傷薬・頭痛薬・睡眠改善剤・蓄膿・皮膚のかゆみ・健康食品……などなど、ざっと数えて1ダース以上。
その中で特に気になったのは風邪薬の広告にあった「早く治したいですね」の文言です。「そりゃ、風邪は早く治したいですよ」と紙面に向かって言ってみましたが、広告は「ならば、私が早く治してあげましょう」とは言ってくれません。紙には耳も口も付いていませんから返事をくれないのは当然と言えば当然ですが、そんな冷たいあしらいにめげずにあらためてこの文言をよくよく見れば、あくまで「早く治したいですね」という“願望”または“確認”です。
これって、一体何を主張している広告なんでしょう?
そそっかしい人は「そうか、この風邪薬を飲んだら早く治るんだ」と勘違いするかもしれません。でも、風邪薬は基本的に対症療法薬。それは、市販のものであろうと医者が処方するものであろうと同じです。対症療法には「治す」ではなくて「症状を軽くする」だけの効果しかありません。昔「風邪は薬を飲んだら3日で直る。薬を飲まなくても3日で直る」という言い回しがありました。
だから、「この風邪薬を飲んだら、風邪が早く治ります」と書いてしまうとそれは誇大広告(あるいは大げさ、ウソの広告、ジャロに言っちゃろ)になってしまいます。だから「早く治したいですね」にするしかなかったんですね。これなら隅から隅まで“真実”ですから。いやあ、コピーライターというのは、大変な職業です。
ここまで“読む”消費者も変ですが……あ、私のことか。
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学生はいろいろやんちゃなことをするものです。医学生もその例外ではなくて、まあいろいろ記憶から出てきますが、その一つに「検尿コップでビールを飲む」があります。尿検査のための紙コップがありますね、コンパの時にそれにビールをついで「かんぱーい」。盛大に泡立ったおしっこのようで、一般の人に見られたら趣味が悪くて眉をひそめられる行為でしょうが、まあやんちゃな医学生は一度はやってみたい行為じゃないかな(それとも今の若い人はもっと“スマート”になってます?) 検尿コップといっても、使用済みではなくて新品ですからそのへんの普通の紙コップと同じで“清潔”です(もしいろいろ汚れていたら、検尿の結果が信用できなくなります)。だから医学的な問題はありません。心理的な抵抗感はあるかもしれませんが、医学の思想に“汚染”された人間はその辺のハードルが下がっているだけでしょう。
ちなみに私は医学生時代は酒・たばこ・麻雀が好きという健全な学生をやってました。卒業してから全部やめたという一見真面目な医者をやってますが、芯の部分は実はまったく変わっていないのです、はい。
お話変わって、褥瘡の治療です。
昔は褥瘡は「消毒してガーゼを当てて治療する」ものでした。ところが水で洗ってラップを張りつけたらみるみる直るという「ラップ療法(閉鎖療法)」が大ブームとなりました。そのために数年前からいろいろな被覆材が発売されていますが(一般薬局の傷テープのコーナーにも、いろいろ新製品が並んでいるのに皆さん気がつかれていますか?)、これがけっこう高価なのが「医療費削減」政策の下では病棟にダメージとなっていました。
ただし、膿が出る褥瘡を単純に閉鎖すると、化膿が進行してしまいます。単になんでも閉鎖すればいい、というものではありません。
そういった、膿や滲出液が多く出る褥瘡のラップ治療に、台所用の穴あきゴミ袋に入れた紙オムツを当てる、という療法が登場しています。たとえば静岡赤十字の病院ニュース。
実に合理的、と私は感じます。傷を閉鎖してかつ排液もしたいという目的に最適の材料の組み合わせで、しかも安価でどこでも入手可能。医療の世界の住人としては「褥瘡を手っ取り早く治すためにはどんどんやればいい」と言いたくなります。ただ、ここで気になるのが(検尿コップのビールと同様)「一般人の心理的な抵抗感」です。
ちょっと想像してみてください。見舞いに行った人が家庭で「病院に行ってみたら、お母さんがゴミ袋に入れた紙オムツを床ずれに直接当てられていた。出てくる液をよく吸うから便利だ、と説明されたけど、どう思う?」と表現されたら、家族全体の感情はどうでしょう。「おむつを傷に!?」「ゴミ袋!?」とならないかな。
私が勤務する病院では、そのへんに社会的な合意が形成されてからこの療法を導入しようと思っています。ヘタレかもしれませんが、感情は医療では大きなファクターですから無視できません。学生が陰でヤンチャするのは他人に迷惑をかけない限り勝手にどうぞ、ですが。
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今回は気楽なタワゴトです。
明治政府も国有財産の民間への払い下げをやってましたし、きっと「かんぽの宿」の払い下げも“先例”にならってのことかな。なにやらストップがかかりましたが、これも次の選挙で大臣が替わるまでのパフォーマンスとどなたかは高を括っていることでしょう。で、かんぽの宿がオリックス不動産にめでたく売却できたなら、つぎは国民年金(ついでに国民健康保険)事業をオリックス生命に払い下げしたいのではないでしょうか。それが難航するようなら、オリックスが出資したゾロ品メーカーに日本の後発品市場を提供してツナギとするのかな。
ただ、明治政府の場合はまだ「日本のため」というタテマエが言えました(ホンネは、自分と仲良くしている財閥のため、であったかもしれませんが)。では外資に支配されている私企業への大サービス価格での国有財産払い下げにはどんなタテマエを言い立てましょうか。そうそう「わたり」禁止で人の流れが停滞しそうです。そういった人を救うためとオリックスへの奉仕を兼ねて新機構を官民共同で立ち上げ、だったら“すべて”が丸く収まりそうですね。となると、「民活」「第3セクター」に次ぐ新しい名称を募集して、名目は「官僚の専門知識と、小泉政権での規制緩和委員会で大活躍した民間人の知恵を活用」とすればよさそうです。ただし、規制緩和(たとえば人材派遣)や「改革」で日本がどうなったか(本当に改革するべき政治と行政にきちんと手がつけられたか、日本の経済情勢の実体がどうなったか)には、触れてはいけません。
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ヒポクラテスの4体液説は(一部で)有名ですが、日本の漢方医学で体内を流れているのは「気血水」の3種です(現代日本ではなぜかヒポクラテスの方が有名ですが)。で、「気」に関しては「元気」「病気」「気分」などのことばがありますが、どうも「気」の“実態”がつかみにくいせいか、体に関しては「血」の方が生き生きとした日本語としての言い回しがはるかに多いように思います。
たとえば「血眼で探す」という表現があります。これを“真面目”に医学的に考えると、刮目(目をこすること)をしていて充血したとか、あるいはずっと目を瞠(みは)っていて砂埃が入って結膜炎にでもなったかな、と言えます。
「目が血走る」。血が走るとは穏やかではありませんが、これまた派手に赤くなった「血眼」のようなものかもしれません。そういえば「結膜下出血」という病気があります。白目の部分がべったりと赤くなって、見つけたら一瞬ぎょっとします。皮膚の下の出血だと青あざに見えますが、白目の部分だと血液の色がもろに見えるのです。大体の場合はしばらく経ったら吸収されるのですが。
「頭に血が上る」という表現もありますが、「頭に血が上らなければ、脳貧血だよ」とツッコミを入れたくなります。解体新書で紹介されるまでは血液循環説は日本では知られていなかったはずですが、それでも頭に怪我をしたら出血することから「ふだんでも頭に血が存在する」ことは知られていたはずです。ということは「普通以上に血液が上がってくる」とこのことばは解釈するべきでしょうね。
「血に飢える」はきっとドラキュラの親戚なのでしょうが、「血も涙もない」はミイラ男の親戚かな。
「血が沸く」というのも凄いですね。血管の中で血液がぐつぐつと沸騰するのでしょうが、タンパク質が熱変性しないのかな、と心配になります。
その結果が「血祭り」とか「血道」でしょうか。両者の共通点は「上げる」ことですが、具体的に想像したらちょっと近寄りたくありません。(だって、血まみれの祭りとか血だらけの道ですよ〜。足が滑ってあぶない)
そういえば「血気盛ん」ということばもありました。「気」と「血」とがそろって盛んなのはめでたいことです。
……しかし、結局体内の「水」はどこに行ってしまったのでしょうか。あまり血が騒ぐもの(体のあちこちの微小循環で「血が沸」いて、体内は大騒ぎ?)だから、あきれて鳩尾(=水落ち)から全部流れ出てしまったのかな。
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院内に電子式の握力計が転がっていたので遊びでやってみました。
な、なんと、右も左も高校時代(おそらく私の体力の全盛期)から20%も落ちているではありませんか。
ショックですが、考えてみたら当たり前です。大学を卒業してからまったく運動というものをしていません。鍛えなければ筋肉は落ちます。さらに加齢で体力は落ちます。相乗効果でどんどん落ちます落ちます……うわぁ。
現状把握ができたら対策です。毎日なにか運動をするか、それともこれは運命だと受け入れるか。さて、どちらが幸せになれるでしょうか?
……あ、そうだ。握力計が壊れているんだ、と信じる手もありましたね。明らかに自己欺瞞ですが、「医者は不足していない。我が儘な医者が偏在しているだけだ」と信じる(*)よりも簡単かも。信じるものは救われる?
*)彼らの立場になって考えてみたら、「自分たちが責められる」と思ったらどうしても「自分たちは悪くない、医者が悪いから医療が崩壊した」と言い続けるしかないだろうとは思えます。医療事故でこうするべきだ、と私が主張しているのと同じで「君たちのミスを罰しないから、正直に言ってごらん」となれば「実は行政やマスコミが判断ミスをしました」と言えるようになるかなあ。……でも、彼らは今でも罰せられてはいないし将来も罰せられるおそれはないんですよねえ。何をそんなに恐れているんだろう?
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「74歳の車が居酒屋突入、慌ててバック…客と自転車女性死亡」(讀賣)
なんとも悲惨な事故です。自宅近くの居酒屋に車で突入して一人殺し「あ、こりゃいかん」とバックで引き返していて自宅前で自転車をはねてまた一人殺し、またまた「あ、こりゃいかん」と前進してさっきの居酒屋脇で車に衝突してそこでやっと停止。
この事故のことを家族で話していて、障害のこととそれに関連する車の改造とか高齢ドライバーであることとかも話題になりましたが、なにより「最初の事故のところで車から降りないか?」となりました。すぐ近所、車も本人も特定されているのは間違いないのですから逃げたって無駄。それに、普通だったらまず破壊状況と人に危害を加えていないかどうかを降りて確認をするでしょう。
「パニックになったから」と言うのは簡単ですが、いくらなんでもこの“事故”で加害者はいろいろやりすぎです。そこでわが家では、同様のことを防ぐためにはどんなことをしたらよいか、に話が移りました。
わが家の結論は、免許取得あるいは更新時に事故のシミュレーションを体験する、です。事故の状況を実車とマネキンで作っておいて、そこに受験者を連れてきて車に乗せてエンジンをかけ「はい、今あなたは人をはねました。そこに倒れています。何をどうしますか?」
さすがにそこで「バックして逃げます」と言う人はいないでしょう。で、“正しく”行動できるかどうかを採点。全然まともに行動できない人は免許の凍結(講習と実習)あるいはあっさり免許取り消し処分。
救急蘇生講習の時には「実際にできるかどうか」が重要です。「適切な処置をします」なんて口先だけ調子よい返事をするだけでは駄目。「人を集めます」はOKだけど、「集めた人に何の指示をするか」がわかっていないとやっぱり駄目です。
運転免許も同様で、自分がいつ加害者になるかもしれない、という自覚と(シミュレーションであっても)“経験”を持っているかいないかで適切な行動をする確率が高まり、助けられる命を助けられるか、事故の拡大が防げるか、が決まるでしょう。
もちろん「手間がかかる」などの反対意見は予想できますが、逆に、こういった地道な手間を惜しむことで得られるメリットって、なんです?
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医療報道に関して多くのマスコミが明示している問題点は、医療に奉仕や貢献をしようという思いを持っていないことと医療人に対する軽蔑の念を隠せないこと、の二つの「ない」でしょう。私は、もちろん軽蔑する相手には容赦はありませんが、それでも最低限の「礼」は守ります。さらに自分が尊敬している人に対してはたとえ批判する場合でも一部のマスコミが使うような“あんな口”はたたけません。ただ、医療以外の分野でも、様々な記事の論調や記者会見での無礼で傲慢な態度などを見ていると、彼らは自分たちこそが世界で一番エラくて(スポンサーと反撃が怖い人を除いては)、いつでも自分の感情を発動して誰でも自由にこづき回せるとでも思っている(世の中のほとんどすべての人に対してそういった奉仕とか貢献とか尊敬とかを持ち合わせていない)のだろう、とも感じます。
結局「“世界”は自分たちの“飯の種”でしかない」なのかなあ。
医者の中にも「患者は自分の飯の種でしかない」の人間もいますから、私もあまり大きなことは言えませんが。
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30年くらい前の「暮らしの手帖」で、卵料理のエッセーを読んだことがあります。筆者の名前は忘れましたが、料理が得意な人で、でも終戦直後の苦しい時期で何も手に入らなくて代用料理ばかりで欲求不満が募っていたところに、家族の人数分の卵が。筆者は大喜びで台所に向かいました。料理名は忘れましたが、卵白を泡立てたり潰れないように気をつけながらオーブンで焼く、なんて記述があったのを覚えていますので、おそらくスフレでしょう。本当に久しぶりに腕をふるってご馳走をこさえたのですが、家族の評判は上々とは言えず、「せっかく珍しくて美味しい料理を作ったのに」と筆者はがっかり。ところがしばらく経って「何年ぶりかの卵だったのだから、皆が食べたかったのはスフレではなかった(私はオムレツ、ワシは卵焼き、ぼくはゆで卵、だった)のではないか」と気がついて愕然とします。「自分が作りたいもの(食べさせたいもの)」ではなくて「自分が食べたいもの」が本当のご馳走だった、という話でした。
お話は大きく変わって「ハムレット」。その中のセリフ「To be, or not to be, that is the question.」は、翻訳はいろいろあるそうですが、一番有名なのは「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」。
(各種の翻訳の例は、たとえば「ハムレットとマクベスのテーマ」に参考文献がいろいろ並んでいます)
私はハムレットの考え方に“異議”を唱えたいと思います。
もちろん、「生きるか死ぬか」は重大な問題ですが、しかしそれだけが重大な問題なのではありません。死ねば一応そこで話は終わります(死後の世界についてはいろいろあるのかもしれませんが、それはまた別の話)。だけど私が住む医療の世界では、生きたらそれですべて一件落着、ではありません。
たとえば脳卒中。生きる/死ぬ、の“次の段階”で後遺症の有無があります。命が助かって次の段階に行ったらたとえば片麻痺(右半身とか左半身が麻痺している状態)があった場合、では「生きるか死ぬか」と同様に「片麻痺が直るか直らないか」ですべてを判断して良いでしょうか。「直れば一件落着。直らなかったら人生はおしまい」と考えて良い?
私はそうは思いません。後遺症があって、それが消えればよし。でも、直らない/直りが悪い、場合にはまた“次の段階”に突入です。「直らない障害をかかえてどうやって生活に復帰するか」の段階に。動かない手足をいかに活かして生活をするかの工夫/不自由な体で生活できるように環境を改造/激変した自分自身を受け入れるための心理的なサポート……やるべきことはいくらでもあります。それでも上手くいかない場合でもそれで「もうおしまいだ」ではありません。私はさらに“次の段階”を想定します。
「生きるか死ぬか」はたしかに重大な問題です。でもそれ“だけ”が重大な問題ではありません。視野を広げて様々な状況を想定し対応できるようにしておかないと、いざ事態が思わぬ方向に進み出したときに“想定外の状況”となって、足は立ちすくみ思考は停止するはめに陥ることになります。そうなったら残る選択肢は絶望への道だけです。
卵はハムレット、もとい、オムレットとスフレのどちらかにしかできない、わけではありません。もっといろいろな料理にすることができます。さらに、その中のたとえば同じゆで卵でも、そのまま/ カレーやラーメンに添えて/煮卵/燻製卵/サラダ/サンドイッチ/グラタン/おでん/各種の肉との煮物/スコッチエッグなど、本当にいろいろな食べ方ができます。
そして人生も、生と死の二つにだけ分けられる単純なものではありません。
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