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世間では帰省ラッシュが始まったそうですね。移動中のみなさん、お疲れ様です(読めていないでしょうけれど)。
残念ながらこちらはまだ年末モードに入れません。明日も仕事です。さらに、今日の日曜もゆっくり朝寝ができませんでした。子どもの塾が冬期講習で、8時前には出かけていく関係でこちらも起こされてしまうのです。
まったく、冬休みに入ったら日曜がなくなるなんて、なんて生活だ、と思います。
私が子どもの頃には塾に行く子は例外的でした。それを言うと「お父さんのときとは時代が違う」と言われてしまうのですが、今のように多くの学生や生徒が、ときには幼児までが「お受験」とやらで塾に通っている時代がそんなに素敵なものとは私には見えません。「子どもは風の子」が基本じゃない?(やっぱり古いのかなあ)
ただ、我が家の子どもたちはみな突然「受験する」「塾に行く」と決めて、ついでにどの塾に行くかも自分で決めてから私に宣言してくれるので私としてはとりあえず「あ、そう」と言うしかないのです。あとは本人が「疲れた」と言ったら内心しめしめと「じゃあ、塾をやめたら?」「受験をやめたら?」と猫なで声で言うのですが、誰に似たのか頑固で「うん」と言ってくれません。やめてくれたらお金が節約できるんですけどねえ。しかも日曜は寝坊ができるのに……という内心が見透かされているのかな。
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書誌情報:『脳と心』ジャン=ピエール・シャンジュー/ポール・リクール 著(対談)、合田正人・ 三浦直希 訳、 みすず書房、2008年、4800円(税別)
神経生物学者シャンジューと哲学者リクールによる「脳と心」に関する対談です。(原題を直訳すると「自然・本性と規則 ──われわれをして思考させるもの」となるそうです)
シャンジューはニューロンを研究しそこから人の心に迫ろうとしています。つまり「分子 → 心」です。ところが彼には悩みがあります。研究対象が小さく精緻になればなるほど「心」が見えなくなってしまうのです。(だから彼は還元主義ではありません)
リクールは哲学的に人の心に迫ろうとしています。いわば「世界 → 心」です。ところが彼にも悩みがあります。哲学はこの世界では孤立してしまっており、「心の座」としての「脳」研究の最前線で得られた成果をそのまま哲学で生かすことができないのです。
心を真ん中に置くと、この両者は大きさ(およびその性質)を基準にほぼ“反対”に位置する、とも見えます。「分子 → 心 ← 世界」と。したがって両者の対談は、すれ違い・衝突し・交差し・すり寄り・ねじれ、まるで氷上での決闘かダンスであるかのようにことば同士が単独であるいはペアとなってスピンをしながらスリリングに紡がれていきます。
感心するのは、二人とも自分の立場に固執しないことです。守るべきものは守ろうとしますが、必ず相手のことばにも耳を傾けることを忘れません。それは彼らにとって「言語はわれわれを私的主観性から脱出させます。言語とはいくつもの前提に立脚した交換です」だからでしょう。その前提とは一つは「他者は私が思考するのと同様に思考し、私と同様に見たり聞いたりし、私と同様に行動し苦しんでいるという確信」、もう一つは「これらの主観的経験は代替不能であると同時に伝達可能であるという確信(「あなたは私に成り代わることはできない」と「お願いですから私のことを理解するように試みてください」)」です。だからこそ「合意を得るのが会話の機能」(リクール)と断言できるのでしょう。さらに、二人は自分が使うことばについて、常に明快に定義をしています。その手続きをすることで「同じことばを双方が違う意味で使う」場合にも無用な衝突が避けられています。時には双方が同じ単語を違う意味で使い、それをお互いが理解しているという場面さえあります。
このへんは日本人が下手くそなところでしょう。日本人が「議論」したら、容易に全否定か全肯定に走りがちです。そして発言内容の全否定はさらに相手の人格や存在の全否定に容易につながっていきます(掲示板のフレーミングやTVでの「討論」番組を見ていたら私はげんなりします)。
ともあれ、二人は豊穣な会話を続けます。あまりに豊穣かつ難解すぎて私はその多くを理解できませんがそれでもその豊かさを味わうことはできます。
そうそう、二人は多くの点で対立をしますが、合意を容易に形成する場合もあります。たとえばル・ナン兄弟の絵の美しさやフォーレのレクイエムを聴いての感動(私はル・ナンは知りませんが、フォーレは好きなので「うんうん」と深く肯きました)。また、ルネ・デカルトが中世のくびきから逃れて見事に問題提起を行ったが解決はしなかったことでも二人は即座に合意に達しています。私はここでは中途半端に肯きます。写真や造形美術はシニフィアンとシニフィエの区別を必要としない、ここではまた大きく肯きます。
ただ、リクールがグールド(進化論)の主張に同意を示したところで、私は驚きました(シャンジューも驚きを隠しません)。たとえ本人が「文学的に」と主張していても、よく聖書を参照する人が、それと同時に進化論にも理解を示せるのは、やはりこちらにはオドロキです。リクールは頑固だけど懐が深い人のようです。
私は自分が受けた教育のせいか、ついついシャンジューの立場の方に寄ってしまいます。「心」を「(器官としての)脳の機能(の表現形)」として見たくなるのです。しかしそれを受け入れようとはしないリクールの指摘は重大なものを多く含んでいます。シャンジューは還元主義や唯物論とは一定の距離を置いていますが、リクールはそこが徹底しています。
たとえばリクールは「脳が表象を世界に投影することで、世界は完成する」と述べます。では、その「完成した世界」を認識するのは誰なのでしょう?
読んで感心しているだけでは芸がないので、私なりに一部だけでも少しは深く読解してみようと思いましたが、あまり大きなテーマは手に余るので、ちっちゃくちっちゃく、「遮断」という「補助線」をこの本の隅っこに引いてみることにしました。
『ドウエル教授の首』という昔の小説には「首だけにされた人間」が(複数)登場します。しかし首だけで脳はちゃんと機能するでしょうか。首だけだと、それ以下の全身の表在知覚情報(痛覚・触覚など)や深部知覚(自分の体が存在していることに関する知覚)を失っていますが、そうすると人は容易に自分を見失ってしまいます。
深部知覚を欠いた状態に関してはオリヴァー・サックスのエッセー集が有名です。深部知覚を欠くと人は自分だけではなくて世界の認識が変わってしまいます。
表在知覚に関しては心理学の世界に「感覚遮断実験」というヘンテコな実験があります。人の五感をすべて低下させた環境においておくと注意力や論理的思考力が低下し、最後には幻聴や幻覚が生じるようになりました。この実験を扱った映画に「アルタード・ステーツ」がありますが、この映画のとんでもない結末はともかく、人は感覚を遮断されてしまうと容易に「自分」でなくなってしまうのです。
つまり、「世界」は感覚を通して「私」に影響(あるいは補正)を常に与え続けているのです。言い方を変えれば、世界との感覚による接触を失うと私は「私」でいられなくなるのです。
もう一つ。「社会からの遮断」はどうでしょう。小児期に社会から遮断されて育った人(たとえば「狼少女カマラとアマラ」。これには真実性に留保がついているようですが、それならアメリカでの乳児期から部屋に閉じこめられて親に全く世話をされず触れあいも会話もなく放置された状態で育った人の例(読んだ本のタイトルは忘れました))は、ある時期をすぎているとどのように教育をしても社会的な人間としては振る舞えなくなります。つまり、社会との遮断は「社会的な存在としてのヒト」ではなくて「動物としてのヒト」を生むのです。となると「心」は「脳」にだけ閉じこめておいてはいけないようにも思えます。
以上より、脳が心の主座であるとしても、脳と脳(あるいは脳と世界)との「関係」の上(中?)にも「心」が存在する、と言えそうです。私は、科学寄りの立場からはそこまでは“妥協”できます。というか、本書でも重要なテーマである「道徳」はこんなやり方で見るのが一番早道でしょう。
ただの思いつきですが、「文化」や「道徳」はすなわち「社会の心」なのかもしれません。ちょうど「人(脳)」に「心」があることに対応するように。だとすると、「脳」を細かく分析的に研究することは「心」を研究する手法としては限界が最初から設定されているのかもしれません。だって社会を分析して個人に行き着いても、その「関係」をきちんと表現できない限りその「心」(道徳や文化)は見えないでしょう?
このへんが私の限界なので、もう一度リクールに戻ります。「自分の脳が表象を投影することで完成した世界」を認識するのは誰なのでしょう? 私はついつい「唯識」(初期大乗仏教で唱えられた、極端に単純化したら「この世は縁起で成り立ち、人はそれを五感と無意識で認識している」という思想体系)を持ち出したくなるのですが、話が脱線しそうなので自重します。
しかし疲れました。この本を読書中に私は普段使わない脳の部分を活動させていたようです。ま、たまにはそんなところも使ってやりませんとね。……ただ、心は変な使い方をすると疲労するのかな? それともこれは脳の疲労?
そうそう、これだけの本ですから、参考文献のリストだけではなくて、詳細な索引が欲しかったと思います。作る人にはきっと地獄の苦しみでしょうけれど。
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