もうすぐ、ほんの数時間で、初詣のシーズン(?)ですね。
最近の神社はずいぶん親切で、「参るときには二礼二拍手一礼」とか「手と口の清め方(柄杓の使い方)の図」とかの表示が出ているところが増えました。昔はそんなのは常識でわざわざ書く必要もなかったのでしょうが、時代は変わったということなのでしょう。中には「お祈りの言葉は、祓いたまえ清めたまえ守りたまえ幸(さきわ)えたまえ、です」なんてことまで表示してある神社もあります(神社によって微妙に違う言葉だったこともありますが、忘れました)。これは「親切」というよりも、ちゃんと表示しておかないと(表示していても)でたらめなやり方をする人があまりに多いからでしょう。初詣の時に目の前で繰り広げられる奇妙きてれつな個人的パフォーマンスの数々を行列に並んだまま見ていると、初笑いをするべきか「これは宗教的行事だぞ」と怒るべきか、私は迷ってしまいます。(たぶん、きちんと教わったことがなくて、見よう見まねでやっているうちにだんだん面白いことになっていくのでしょうね。だけど、忍び手や他の宗教の合掌は持ち込んで欲しくないなあ)
※「忍び手」は、神道では音をさせないように打つ柏手(かしわで)のことで神式のお葬式の時のやり方です。
私は神社へのお参りは、学校でいうなら“出席届”だと思っているので、いろいろお願いはしません。基本的に「人事を尽くして天命を待つ」主義なので、お願いするにしても「全力は尽くしますので見守っていてください」くらいかな。(あまりに具体的なお願いは、神様を困らせるだけ、とも思うのです。ちょっと前にmixiに書きましたが、かわいい子どもが「世界が平和になりますように」と拝むのと同時に武器商人が「商売繁盛」と拝んだら、どちらをかなえて良いか神様も困るでしょ?)
ところで、「手洗いとうがい」を、この神社の手水舎での手と口を清める手順とおなじものと考えている人がけっこういます。「手を洗う」のではなくて「濡らすだけ」。「うがいをする」のではなくて「口に水を含むだけ」。これは医学的には無意味です。手を洗うのだったら凹んだところ(爪の回り、しわ、指の股など)の汚れをきちんとこすり落とさなければいけません。私が院内感染の担当者だった頃には「手にウンコがついたら、さっとすすぐだけにする? セッケンを泡立てて数秒でやめる? 爪の隙間や指のしわにくっついたウンコを丁寧に丁寧に時間をかけてこすり落とすでしょ?」と言っていました。
神社でやるのは、結界内に「汚れ」ではなくて「穢れ」を持ち込まないための儀式ですからとりあえず型どおりでも良いのですが、細菌やウイルスは「祓う」や「清める」は無効で、物理的にこすり落とすか消毒するしか手がありません。だから、見よう見まねではなくてきちんと正しい方法を習って実践をしてくださいね>医療機関で働くみなさんへ。
……特に医者がやらないんですよねえ……
↑
ここ、笑うところです。
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「フキンは実は細菌が一杯!」とTVコマーシャルで言っていました。いくら洗ってもフキンには細菌がついていて、それを触った手でサンドイッチを作ったらばい菌だらけのサンドイッチを食べることに……と消費者を脅しておいてから、「フキンの消毒にはつけ置き洗いの○○を」と商品の宣伝です。
私は「たとえそれでフキンが殺菌されても、手はやっぱり不潔のままだぞ」と画面に向かって速効でつっこみました。だって消毒液に浸かっているのはフキンだけで手は浸かっていないのですから(たぶん手は浸けない方が良いとは思いますが)。「手の清潔を保つためには清潔なものだけ持つようにする」は手術室内の発想で、現実の家庭生活では非現実的な要求です。もっとシンプルに、何か不潔なものを触ったら食品を触る前に手をきちんと洗えばいいのですよ。もちろん、無菌のフキンがお好きでしたら、(実用レベルなら、普通の洗剤で洗濯して日光消毒(つまり普通に乾す)でもOKと思いますが、どうしても厳重にやりたいのなら)煮沸消毒でも薬物消毒でもお好きにどうぞ。お勧めの薬物は……あ、画面につっこんだ拍子に商品名を忘れちゃった。
ところで、その商品が本当に殺菌力が強力で各家庭がどんどん使ったら、下水処理場で活性汚泥に悪影響は出ないんですかね。
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「医者の不養生(1)」にいただいたPaul Carpenterさんのコメント「地域の各病院の休みを一日ずつずらしたらどうですかね。」に触発されて、一定の地域の医療を「年中無休」にできる手がないかと考えてみました。私は抽象は苦手なので、具体的に、小さな市で似たような規模の病院が4つある場合を想定してみました。考えついたのはこんなシンプルな休日ローテーションです。各病院が今行っている「土日は休日」を少しずつずらしてカレンダーでは休日でもどこかの病院が「平日体制」で営業していることを目指してみました。(カレンダーは日曜から始まるとします)
週休のスケジュール
第一週 第二週 第三週 第四週
甲病院 日月 月火 日月 火水
乙病院 日火 水木 火水 日月
丙病院 水木 日土 木金 水土
丁病院 火土 日金 木土 木金
とりあえず適当に並べただけ実際の運用に耐えるかどうかは不安ですが、ともかく理論上はなんとか動かすことはできそうです。
(なお、スタッフをもう少し(5〜10%)増やすことができれば、「従業員は週休二日だけれど病院の休みは週に一日」も可能です。そちらの方が“現実的”かな)
【利点】
○このスケジュールだと土曜日や日曜日でも必ず最低二つの病院は平日体制で営業しています。したがって患者は、「日曜日だから今日はどこも病院が閉まっている」と不安になる必要がなくなりますし、自分の仕事の休みの都合などによって受診する日を選択しやすくなります。
○勤務する側は「休みは本当に休み」になります。(後述しますが、救急外来もお休みです)
【欠点】
×外来のスケジュールがめちゃくちゃになります。薬を出す場合も「えっと今日から2週間後は、あ、外来が休みです」なんて場合もあるでしょう。
×平日でも「今日はどこの病院が開いていてどこが閉まっているのか」を患者が把握する必要があります。でないとせっかく病院まで行ったのに閉まっていた、ということが頻発します。
×スタッフの数や専門科などによって「休日日数が同じ」だとスタッフの勤務のきつさに病院ごとの不平等が生じる可能性があります。
欠点があるから検討にはあたいしない? 欠点があるからといってすべてを最初から捨てるのは人生をショートカットしすぎです。もしも大きな利点があるのなら、欠点をなくす(減らす)ように工夫する、あるいはある程度の欠点なら受け入れる、という手もあるのですから。このアイデアの利点は残して欠点を減らすためになにか良い手があるでしょうか。私が考えたのは「病院での外来中廃止」です。完全予約の専門外来や紹介外来・検査外来あるいは外来手術と救急外来のみは残して、一般外来は一切やめとするのです。なお、残された上記の外来もすべて「休日」にはお休みです。
ちょっと過激な案ですが、たとえば救急外来スタッフは「病院」ではなくて「市」に所属として外来をやっている日に“派遣”されてそこで仕事をする(入院させるまでは面倒見て、あとは病院のスタッフにまかせる)という手もあります。これだといくつの病院で救急外来を開けるかは、病棟の空きと救急スタッフの人数次第となります。
では、病院の数が少なくて(あるいは地域に一つしかなくて)こういった病院間のローテーションが最初からできない場合は、どんな手で「年中無休」を実現できるでしょう。政府が言いそうなのは「労働時間の延長」ですが、私は当然それは容れません。私は「人員の増強」を提案します。「年中無休病院は職員の定数を現在の1.4倍にする」と定めたら、それで余裕を持って「年中無休病院」が可能となります。ただしその場合でもやはり一般外来は中止した方が診療はスムーズに行くと思います。外来は開業医のクリニックでやってもらう、でなにか致命的に大きな問題があります?
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むかしむかしあるところで医療訴訟専門の弁護士と裁判官が集まって年忘れゴルフコンペが大々的に開催されました。世間とは無関係にその方面は景気がよいのか和気藹々とコンペは進みましたが、競技終了後の優勝発表のところでトラブルが。「現実のスコアはともかく、本当は自分が優勝だった」と主張する人が殺到したのです。発表者の所に押しかけた人たちの主張は以下のようなものでした。
「もし13番の池に入れなかったら、スコアが逆転して私が優勝だ」
「いえいえ、もし14番でOBが出なかったら、私が優勝です。あんなところにOB杭があるのがおかしいのです」
「何をおっしゃる、おれのハンディが45なら、おれが優勝だったのだ」
「5番ホールが長すぎて、自分の腕では絶対2オンは不可能だ。そこで無理をしたからあとががたがたになってしまったのだから、今日の自分の成績が悪いのは5番がロングでなかったせいだ。だから今日のスコアで優勝判定をするのはおかしい」
「もしパットがトータル15だったら、明らかに自分が優勝だ」
「わしより上手い連中が皆怪我や病気になっていれば、わしが優勝じゃった」
……どうも皆さん、こんなときまで普段の職業上の主張のくせが忘れられないようです。
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昨日横目で見たTVの討論番組で部落差別が取り上げられてました。ときどき「ふーん」と思うこともありましたが、「正論」ばかりで全体的に掘り下げが浅い印象でした(TVの討論番組はしょせん「討論のふりをしたバラエティ番組」で掘り下げは「浅い」がデフォルトなのかもしれませんが)。その原因の一つが人選でしょう。きちんと“討論”できるスキルを持った人が少ない(あるいはスキルを持たない人間が邪魔をする)ということもありますが、そもそもこのテーマに関しては討論している人の中に差別賛成論者がいないのです。一方向からだけの参加者だったら、それは議論が深まるわけがありません。
日本に部落差別賛成論者が存在しないのだったらそもそも「部落差別」は存在しないはず。ところが現実には差別が存在します。ですからそういった差別を推進する人がこの世に存在していることは確かです。だったらなぜ「部落差別」に関しての討論番組に賛成論者が登場しないのでしょう?
登場したら袋だたきにあうから……でしょうね。でも、そんなに部落差別に人気がないのなら、21世紀にもなってまだ部落差別が実際に行われているのはどうしてでしょう?
どうしても賛成論者が参加しにくいのなら、アメリカのディベートで行われているそうですが、直前に論じる立場を抽選で選んだらどうでしょう。選択肢は、部落差別に「賛成(または容認)」「条件付き賛成」「反対」の3つです。論者は持論がなんであれそれとは無関係に番組の中では抽選で選択された立場からだけ意見を述べ相手を論破(あるいは全員の間での合意形成を)しなければならない、を絶対ルールとします(「本当はこれは私の真意じゃないんだけど」を言う
人は最初から参加お断り)。
ちなみに私は「賛成」で論じるためには下調べを相当しないといけないので今すぐは何も言えませんが、「条件つき賛成」だったらとりあえずその討論に参加できそうです。まずは賛成と反対の両者の意見(差別制度のメリットとデメリット)を聞いた上でですが、身分間の流動性を確保する、という条件を持ち出すのです。身分の固定は行わず、社会的に上昇することもあるし被差別階層に落ちることもあるが、そこから頑張れば復帰も可能。復帰した人は過去は問われずもちろん(復帰後は)差別されることもナシ。
もしも人を差別することに大きな利点があるのだったら、こうやって差別を“回り持ち(明日は我が身)”とすることでその利点を社会の中で広く生かすことができるでしょう。(極論をやるなら、裁判員を選ぶように抽選で「今年差別される人」を選ぶ、なんて手もありますね。もし可能なら日本国民全員が一生に一度は“差別される体験”を味わってみたら興味深い結果が生じるかもしれません)
……ところで、制度として人を差別することで得られる社会的利点って、なんです?
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年末だからさっぱりしようと出かけた床屋のテレビで今年のニュースの特集をやってました。「今年は本当に暗いニュースが多かったけれど、これは数少ない明るいニュース。ゴルフの石川遼選手が獲得賞金一億円突破です」
一億円といえば20年くらい前には、競馬の武豊さんがやはりすごく若いのに年収が一億円突破とか報じられて話題の人となっていましたっけ。これも明るいニュース扱いでした。
若いアスリートが一億円稼ぐと国民の希望の星です。ではもし医者(たとえば私)の年収が一億だったら、どんな扱いでしょう。たぶん非国民扱いじゃないかな。つまり医者は経済的にはゴルフや競馬より下に位置しなければならない、というのが日本国民の合意、医者はその程度にしか国民の役に立っていないからそれに見合った収入でよいという共通認識なのでしょう。そういや日本の国民医療費はパチンコ代(の表面にでている分)とほぼ同額でした。http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5670.html これも面白い暗合です。
そうそう、こんなリストがありました。
「テレビ局が上位独占!上場企業「年収」最新ランキング」
元の表は「転職のモノサシ」で全企業が見られます。
ニュースの見出し通り、上位にずらりとテレビ局が並んでいます。しかもこれ、あくまで「平均」ですからね。つうことは、20代でも1000万円突破がアリなのかな。さらに退職金や交際費や福利厚生やその他(家賃や住宅ローンの優遇とか利子補給など)は別勘定です。
私は社会常識はありませんが、自分より収入が多い人を見ても、ねたんだり悪口を言ったり足を引っ張ったり不幸を願ったりしてもそれは絶対に自分の幸福度を増さない、ということくらいは自分自身と人生について知っていますから、そんなことはいたしません。ただ単純にうらやましがるだけにします。ああ、うらやましいうらやましい。それだけ。
一つ不思議なのは「転職のモノサシ」に新聞社が見あたらないことです。上場していないということなのかな。ならば検索。
「平均年収高い会社100社」というページが見つかりました。おや、朝日新聞は堂々のトップ10入りですね。平均年齢42歳で平均年収1358万円で「医者の収入は多すぎる」って……どの口が言ってるのやら? 実は「ほんとは内緒だけど、自分の生涯賃金はお前ら医者の多くよりはるかに多いぞ、うらやましいだろ、えへへ」の間違いじゃないかな。はいはい、素直にうらやましいと申し上げますだ。言うだけならタダですし。
それとも「高給取りが自慢の自分よりも稼いでいる医者がこの世にいる。許せない!」だったりして。その場合には「社会の木鐸が私怨(しかもほとんど八つ当たり)だなんて、許せない!」とお返しできるのですが。
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世間では帰省ラッシュが始まったそうですね。移動中のみなさん、お疲れ様です(読めていないでしょうけれど)。
残念ながらこちらはまだ年末モードに入れません。明日も仕事です。さらに、今日の日曜もゆっくり朝寝ができませんでした。子どもの塾が冬期講習で、8時前には出かけていく関係でこちらも起こされてしまうのです。
まったく、冬休みに入ったら日曜がなくなるなんて、なんて生活だ、と思います。
私が子どもの頃には塾に行く子は例外的でした。それを言うと「お父さんのときとは時代が違う」と言われてしまうのですが、今のように多くの学生や生徒が、ときには幼児までが「お受験」とやらで塾に通っている時代がそんなに素敵なものとは私には見えません。「子どもは風の子」が基本じゃない?(やっぱり古いのかなあ)
ただ、我が家の子どもたちはみな突然「受験する」「塾に行く」と決めて、ついでにどの塾に行くかも自分で決めてから私に宣言してくれるので私としてはとりあえず「あ、そう」と言うしかないのです。あとは本人が「疲れた」と言ったら内心しめしめと「じゃあ、塾をやめたら?」「受験をやめたら?」と猫なで声で言うのですが、誰に似たのか頑固で「うん」と言ってくれません。やめてくれたらお金が節約できるんですけどねえ。しかも日曜は寝坊ができるのに……という内心が見透かされているのかな。
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書誌情報:『脳と心』ジャン=ピエール・シャンジュー/ポール・リクール 著(対談)、合田正人・ 三浦直希 訳、 みすず書房、2008年、4800円(税別)
神経生物学者シャンジューと哲学者リクールによる「脳と心」に関する対談です。(原題を直訳すると「自然・本性と規則 ──われわれをして思考させるもの」となるそうです)
シャンジューはニューロンを研究しそこから人の心に迫ろうとしています。つまり「分子 → 心」です。ところが彼には悩みがあります。研究対象が小さく精緻になればなるほど「心」が見えなくなってしまうのです。(だから彼は還元主義ではありません)
リクールは哲学的に人の心に迫ろうとしています。いわば「世界 → 心」です。ところが彼にも悩みがあります。哲学はこの世界では孤立してしまっており、「心の座」としての「脳」研究の最前線で得られた成果をそのまま哲学で生かすことができないのです。
心を真ん中に置くと、この両者は大きさ(およびその性質)を基準にほぼ“反対”に位置する、とも見えます。「分子 → 心 ← 世界」と。したがって両者の対談は、すれ違い・衝突し・交差し・すり寄り・ねじれ、まるで氷上での決闘かダンスであるかのようにことば同士が単独であるいはペアとなってスピンをしながらスリリングに紡がれていきます。
感心するのは、二人とも自分の立場に固執しないことです。守るべきものは守ろうとしますが、必ず相手のことばにも耳を傾けることを忘れません。それは彼らにとって「言語はわれわれを私的主観性から脱出させます。言語とはいくつもの前提に立脚した交換です」だからでしょう。その前提とは一つは「他者は私が思考するのと同様に思考し、私と同様に見たり聞いたりし、私と同様に行動し苦しんでいるという確信」、もう一つは「これらの主観的経験は代替不能であると同時に伝達可能であるという確信(「あなたは私に成り代わることはできない」と「お願いですから私のことを理解するように試みてください」)」です。だからこそ「合意を得るのが会話の機能」(リクール)と断言できるのでしょう。さらに、二人は自分が使うことばについて、常に明快に定義をしています。その手続きをすることで「同じことばを双方が違う意味で使う」場合にも無用な衝突が避けられています。時には双方が同じ単語を違う意味で使い、それをお互いが理解しているという場面さえあります。
このへんは日本人が下手くそなところでしょう。日本人が「議論」したら、容易に全否定か全肯定に走りがちです。そして発言内容の全否定はさらに相手の人格や存在の全否定に容易につながっていきます(掲示板のフレーミングやTVでの「討論」番組を見ていたら私はげんなりします)。
ともあれ、二人は豊穣な会話を続けます。あまりに豊穣かつ難解すぎて私はその多くを理解できませんがそれでもその豊かさを味わうことはできます。
そうそう、二人は多くの点で対立をしますが、合意を容易に形成する場合もあります。たとえばル・ナン兄弟の絵の美しさやフォーレのレクイエムを聴いての感動(私はル・ナンは知りませんが、フォーレは好きなので「うんうん」と深く肯きました)。また、ルネ・デカルトが中世のくびきから逃れて見事に問題提起を行ったが解決はしなかったことでも二人は即座に合意に達しています。私はここでは中途半端に肯きます。写真や造形美術はシニフィアンとシニフィエの区別を必要としない、ここではまた大きく肯きます。
ただ、リクールがグールド(進化論)の主張に同意を示したところで、私は驚きました(シャンジューも驚きを隠しません)。たとえ本人が「文学的に」と主張していても、よく聖書を参照する人が、それと同時に進化論にも理解を示せるのは、やはりこちらにはオドロキです。リクールは頑固だけど懐が深い人のようです。
私は自分が受けた教育のせいか、ついついシャンジューの立場の方に寄ってしまいます。「心」を「(器官としての)脳の機能(の表現形)」として見たくなるのです。しかしそれを受け入れようとはしないリクールの指摘は重大なものを多く含んでいます。シャンジューは還元主義や唯物論とは一定の距離を置いていますが、リクールはそこが徹底しています。
たとえばリクールは「脳が表象を世界に投影することで、世界は完成する」と述べます。では、その「完成した世界」を認識するのは誰なのでしょう?
読んで感心しているだけでは芸がないので、私なりに一部だけでも少しは深く読解してみようと思いましたが、あまり大きなテーマは手に余るので、ちっちゃくちっちゃく、「遮断」という「補助線」をこの本の隅っこに引いてみることにしました。
『ドウエル教授の首』という昔の小説には「首だけにされた人間」が(複数)登場します。しかし首だけで脳はちゃんと機能するでしょうか。首だけだと、それ以下の全身の表在知覚情報(痛覚・触覚など)や深部知覚(自分の体が存在していることに関する知覚)を失っていますが、そうすると人は容易に自分を見失ってしまいます。
深部知覚を欠いた状態に関してはオリヴァー・サックスのエッセー集が有名です。深部知覚を欠くと人は自分だけではなくて世界の認識が変わってしまいます。
表在知覚に関しては心理学の世界に「感覚遮断実験」というヘンテコな実験があります。人の五感をすべて低下させた環境においておくと注意力や論理的思考力が低下し、最後には幻聴や幻覚が生じるようになりました。この実験を扱った映画に「アルタード・ステーツ」がありますが、この映画のとんでもない結末はともかく、人は感覚を遮断されてしまうと容易に「自分」でなくなってしまうのです。
つまり、「世界」は感覚を通して「私」に影響(あるいは補正)を常に与え続けているのです。言い方を変えれば、世界との感覚による接触を失うと私は「私」でいられなくなるのです。
もう一つ。「社会からの遮断」はどうでしょう。小児期に社会から遮断されて育った人(たとえば「狼少女カマラとアマラ」。これには真実性に留保がついているようですが、それならアメリカでの乳児期から部屋に閉じこめられて親に全く世話をされず触れあいも会話もなく放置された状態で育った人の例(読んだ本のタイトルは忘れました))は、ある時期をすぎているとどのように教育をしても社会的な人間としては振る舞えなくなります。つまり、社会との遮断は「社会的な存在としてのヒト」ではなくて「動物としてのヒト」を生むのです。となると「心」は「脳」にだけ閉じこめておいてはいけないようにも思えます。
以上より、脳が心の主座であるとしても、脳と脳(あるいは脳と世界)との「関係」の上(中?)にも「心」が存在する、と言えそうです。私は、科学寄りの立場からはそこまでは“妥協”できます。というか、本書でも重要なテーマである「道徳」はこんなやり方で見るのが一番早道でしょう。
ただの思いつきですが、「文化」や「道徳」はすなわち「社会の心」なのかもしれません。ちょうど「人(脳)」に「心」があることに対応するように。だとすると、「脳」を細かく分析的に研究することは「心」を研究する手法としては限界が最初から設定されているのかもしれません。だって社会を分析して個人に行き着いても、その「関係」をきちんと表現できない限りその「心」(道徳や文化)は見えないでしょう?
このへんが私の限界なので、もう一度リクールに戻ります。「自分の脳が表象を投影することで完成した世界」を認識するのは誰なのでしょう? 私はついつい「唯識」(初期大乗仏教で唱えられた、極端に単純化したら「この世は縁起で成り立ち、人はそれを五感と無意識で認識している」という思想体系)を持ち出したくなるのですが、話が脱線しそうなので自重します。
しかし疲れました。この本を読書中に私は普段使わない脳の部分を活動させていたようです。ま、たまにはそんなところも使ってやりませんとね。……ただ、心は変な使い方をすると疲労するのかな? それともこれは脳の疲労?
そうそう、これだけの本ですから、参考文献のリストだけではなくて、詳細な索引が欲しかったと思います。作る人にはきっと地獄の苦しみでしょうけれど。
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アメリカで男性医師を集めて研究している「Physicians' Health Study」(つまりは「人の健康を守る人」の健康はどんなものかの研究)ではいろいろ面白い(少量のアスピリンは脳梗塞の予防に役立つとかビタミンサプリが心血管障害を予防するのには役に立っていない、とかの)結果が公表されています。で、「アメリカの医師は他の職業に比べて心血管病のリスクが高い、とそこに書いてある」という文章をあるパンフレットで見つけて、本当かいな、と見に行ってみました(私は好奇心の塊です)。ただ、好奇心も英語力のなさには勝てず、とうとう当該の記載を見つけることはできませんでした。アメリカの男性医師にはずいぶん高率に心血管障害があるんだな、という感想は得ましたけれど。
他のサイトもいろいろ検索して遊んでいたら、アメリカでの医師の平均余命は他の職種に比較してずいぶん短い、という記述がいくつか見つかりました。日本ではどうなんでしょう。私が自分の周辺をきょろきょろ見る限りでは、それほど短くも長くもない印象ですが……「健康の専門家」が集団として目立つほど長生きできない、ということは、やはり一種の「早死に」と言って良いのかもしれません。
で、こんなことを言うと必ず愉快そうに「医者の不養生」と言う人が現れるのですが、医者が早死にするのがそんなに愉快ですか?
ずっと昔、私がまだ研修医のころですが、胸部外科のベテランドクターが「夜中に電話がかかってくると、この年になっても心臓がびくんと飛び上がってしばらく不整脈が出たみたいになるんだ」と言っていたのを私は今でも覚えています。その人が不整脈発作を起したら、それも「医者の不養生」なんですかねえ。
医者の生活にはストレスがつきまといます。「人の生き死に」に責任を感じるのは心理的に常に緊張状態にあるわけですし、物理的にも夜中だろうがなんだろうがじゃんじゃん電話がかかってくる(しかもその多くは緊急事態)なのはたしかに心臓に悪いものです。実際私も医者になってから本当に気の休まる時と言うのは持てません。以前は学会出張をしたらその間だけは解放されました(それでも会場から病棟に電話を入れたりしていました)が、今は携帯でいつでも呼び出される時代です。呼び出されなくても「待機」というだけで心のエンジンはいつでもフル回転できるようにアイドリング状態を保っています。(それでも、今勤務しているのは緊急事態が非常に少ない病院なので、「エンジン」はアイドリングを保っていても、以前の「(すぐ踏めるように)右足はアクセルペダルの上にずっと保った状態」ではなくて現在は「右足をペダルの脇に外した状態」になっていますけれど)
私個人は、自分が選択した道ですからそのことについて自分から改めてとやかく言いたてようとは思いませんが、それでも他人に無責任に云々されるのはあまり嬉しくありません。自分で不摂生している医者(つまり本当に不養生をしている医者)だけを見るのではなくて、医者一般をつかまえて、いわく「聖職だから当然」、あるいはお気楽に「楽して稼げて、医者って、うらやましいなあ」、はては愉快そうに「医者の不養生」……
医者は「自分が医師であること」のストレスだけで十分心血管病を起すリスクを高くしているわけですが、そこにさらに(医学以外の)人為的なストレス(たとえば濡れ衣訴訟リスクなど)を加えることで医者が死ぬリスクをさらに高めたい人がいます。「死ぬのは自分じゃない」から平気なのでしょうが、医者を医学に集中させないことでリスクを高めたい理由って、何なんでしょう? 早く殺したい?
もちろんすべての医者が早く死ぬわけじゃないです。ストレスの処理が上手な人や図太い人は楽々と生き延びます。発病するかどうか・発病しても致命的なところがやられるかどうかは、確率の問題です。だけど、体が弱い医者やナイーブな医者は、早く死ぬ確率が高まります。死ぬ前に「これはたまらん」と辞める人も出るでしょう。ということは、ストレスをかければかけるほど、“弱い”医者は社会的に淘汰される(数が減る)ことになります。
医者を責め立てている皆さん、医者を社会的に淘汰することで、図太い(他者からの評価とか人の思いなどに無神経な)医者が今より多数派をしめる医療の世界になることが本当にお望みで? で、その理由は?
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◎学力調査
全国学力調査の結果を「全面公開しろ」「公開するな」でもめているようです。
もちろん文科省には過去の「全国学力テスト」での過熱ぶりがトラウマになっているのでしょう。あのとき、どこの県でしたっけ「全国テストで一位になる」ことだけを目標に頑張っちゃって、結局“副作用”が大々的に出てしまったところがあったはず。
だけど。私は、一般人としては「公開しないのだったら、何のために大金かけて大々的に調査をしたんだ?」と思いますし、医者としては「診療で言うなら、検査データを今後に生かさないのだったら、最初から検査の必要性はなかったのでは?」とも思います。さらに疑問に思うのは、「データをどう生かすか」の基本方針は発表されていましたっけ? 単に数字だけ見て地域ごとや学校ごとに「勝った」「負けた」を競うだけだったら、あまり意味がないような気がするのですが。発表されてから考えるのではなくて、教育のグランドプランの中でそのデータをどう生かすかが明確にされていないと、単に数字を見て右往左往するだけでしょう。
……ところで「良い学校」とは、全国学力テストでよい成績を取る学校のこと? ということは「良い生徒」とは学力テストで良い成績を取る生徒のことなんですね。学校や生徒・学生にはそれ以外の“価値”はなし? これもまた「グランドプラン」の中で考えておくべきですよ(たとえば「“良い学校”はどこかを調べるために学力調査を利用する」と明記するとか)。
◎代理ミュンヒハウゼン症候群
ミュンヒハウゼン(英語ではマンチョウゼン)は実在の人物ですが、ビュルガーやケストナーの『ほらふき男爵』で有名です。で、そこから名前が取られたのが「ミュンヒハウゼン症候群」と呼ばれる病気。虚偽の話をしたり自ら怪我をしたり病気のふりをすることで、何らかの利益(周囲からの注目や関心とか、疾病利得)を得ることを目的として行動します。保険金を詐取したりするための「詐病」とは違って「自分が病気であること」を認めてもらうことが最大の目的なので、そのためには手術など自分が“実害”をこうむることに対しても非常に積極的です(手術をしてもらうまでドクターショッピングを繰り返すこともまれではありません。私は外来で何度かその疑いを持ったことがありますが、とにかくみなさん話の持って行き方が巧妙です。なにしろあちこちでたっぷり“経験”を積んでいますからね、こう言ったら検査や処置を断られる、というパターンを学習していてそうならないように話を進めてくれます。矛盾点をついても全然たじろぎません。即座に話を塗り替えるかそれを“学習”として次の医者に向かっていきます)。
で、その「病気になる」対象が自分自身だとミュンヒハウゼン症候群ですが、他人だとあたまに「代理」がつきます。他人を怪我させたり病気にすることで「心配して献身的に看護するけなげな私」を演出するわけ。病気にする(傷つける)対象はほとんどが自分の子ども、ときに配偶者です。
今回の「古くしたスポーツドリンクを子どもの点滴に混ぜた親」が、代理ミュンヒハウゼンなのかただの児童虐待なのかは私にはわかりませんが、もし前者だとしたら、これは親が病院を訴える医療訴訟のネタにならないかと思いつきました。論点は二つ。
・自分は病気なのにそれを発見してくれなかったのは病院の落ち度である。
・子どもの様態が悪くなるように自分を放置したのは病院の管理体制に責任がある。
ということで、病院はこの親に賠償をしなければなりません。
さて、こんな民事訴訟が起きたら、判決はどうなるでしょう?
常識だと病院が勝つでしょうが、今の日本は非常識な世界ですからねえ。ただ「入院した子に母親が付き添うと言い出したら、病院は親子の完全監視をしなければならない」ことになるようでしたら、現場の負担が増えすぎて本当に困ったことになりそうです。
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