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書誌情報:『健康不安の社会学 ──健康社会のパラドックス〔改訂版〕』上杉正幸 著、 世界思想社、2008年、2000円(税別)
「健康」に対するWHOの有名な定義は「健康とは身体的精神的社会的に良好な状態であり、それは単に疾病がない虚弱でない、というだけではない」です。ここで「健康」は「身体」だけのものではなくて「精神」と「社会」のものでもあることが高らかに宣言されていますが、定義の前半が快調だったのに後半は否定形(それも二重否定)で物語ることによって記述が腰砕けになっています。
「健康」は新しい言葉です。日本での初出は「漢洋内景説」(高野長英、1836(天保七)年)「遠西原病約論」(緒方洪庵、1837年)。それまでの「丈夫」「健やか」といった主観的な言葉に対して「健康」は西洋医学的・客観的な視点からの言葉でした。したがって江戸時代には「健康増進運動」などはありませんでした。それに一番近いのは貝原益軒の「養生訓」でしょうが、そこで重要視されたのは「自然な生」で、否定されたのは「天寿より早い死」です。すなわち「天寿」も「死」もそこでは否定されるべき存在ではありませんでした。
明治政府は、富国強兵のために「健康」を推進しました。それは衛生行政が内務省管轄であったことに現れています(したがって「取り締まり」の発想が持ち込まれています。疫病が発生した場合派遣される“主力部隊”は医者と警官です)。教育では「学制」「小学校令」「中学校令」などで学校の衛生環境・健康教育・身体育成などが定められ、産業では「工場法」によって殖産興業のために生産効率を上昇させるための環境整備が行われました。つまり明治政府にとっての「健康」は「個人の健康」ではなくて「社会が求める健康」だったのです。著者は「個人が求める健康」を「ミクロな健康」、「社会(国家)が求める健康」を「マクロな健康」と定義し、その関係を論じています。
ミクロの健康はシンプルです。「自分が健康だと思う」のなら「健康」です。しかしマクロの健康はそのような個人の主観を排したところに成立します。したがってミクロの健康とマクロの健康にはズレがあります。たとえば「自分は健康だと思っている(ミクロな健康)」人でも、人間ドックにはいったらなにか異常を指摘されるかもしれません。それは社会的には(マクロな健康の観点からは)「健康ではない」とされる状態です。すると個人は自分の主観的判断が信用できず不安になりその結果「健康への強迫」が生まれます。この場合重要なのは「マクロの健康」が「ミクロの健康」に対して優位性を持っている点です。「健康」には「お墨付き」(たとえば、健康診断書)が必要になるのです。
ミクロとマクロの関係は下記の4つに分類されます。
1)ミクロが健康/マクロが健康
2)ミクロが健康/マクロが不健康
3)ミクロが不健康/マクロが健康
4)ミクロが不健康/マクロが不健康
1)においては前出の「健康への強迫」が生まれます。2)の例として精神障害者(あるいはドックでの異常の指摘)が挙げられます。3)としては登校拒否。4)では1)の裏返しとしての「病気への強迫」が生まれますが、そこでは「もしかしたら自分は病気なのではないか」という不安が解消される、つまり、「病気」が「安心」として機能します。それもちょっと変な話なのですが。
明治政府の目標「富国強兵」は単純でわかりやすく、さらに当時の病気の主力は感染症であったためその対策もシンプルでした。ミクロとマクロにズレがあるにしても、それはマクロの健康を推進することの“正当性”によって隠蔽されやすかったのです。しかし戦後になり、政府は「目標」を見失います。「国民の健康」行政を一体何のために行えばいいのかわからなくなったのです。さらに昭和20年代後半に、感染症中心から慢性病中心に日本の疾病構造が変化しました。健康を脅かす病気は(ある意味わかりやすい)「他からもたらされる災い」から(見ることが難しい)「自分の内側に発生するもの」になったのです。
慢性病は、近代医学にとって対応が難しいものです。原因の確定は多くは困難です。そして研究が進めば進むほど「原因」の数は増え、「原因」の数が増えれば増えるほど、その「関連性」の解明は困難になっていきます(多角形の角の数が増えるにつれてどんどん対角線が増えていくようなものです)。つまり「対策」も立てにくくなったのです。できるとしたら「原因の排除」ですが、その多くは生活に深く入り込んでいるもの(たとえばアルコールや喫煙)で単純な排除は困難です。
国民の意識も変化します。1961年国民健康保険法が完全実施され、皆保険が始まりました。それによって人びとは病院を手軽に使うことができるようになりましたが、同時に自分の体(健康)への無関心も始まります。それまで日本人は生活の知恵として様々な医療を家庭生活の中で実践していました。それが医療の専門家へ依存するようになったのです。(言葉尻を捉えるようですが、病気の治療に“健康”保険を使うのは、なにか言葉がねじれていませんか? それでは健康増進には何を使うのでしょう?)
目標が不明確で対策が困難でも国は「健康」を増進し続けます。まるで終わりのないマラソンのように。まずは「早期発見・早期治療」の施策が次々施行されました。1970年代には「健康づくり」が推進されます。さらに厚生白書では、1986年に「自覚と責任」、88年には「健康づくりと生きがいづくり」が謳われ、1996年には「成人病」が「生活習慣病」に改められ、「国民生活への干渉」が順調に強化されていきました。そして2003年の「健康増進法」で、「健康の増進」は国民の法律上の責務となりました。ところがここで重要なのは「健康」の定義が法律ではされていないことです。国民は正体が明記されない「健康」を目標として追い求め続けなければならないのです。
面白いのは、1970年代に「紅茶キノコ」と「ジョギング」が大ブームとなったことでしょう。産業界はそれを見逃しません。健康産業が成立します。そこでは「健康不安」は「飯のタネ」であり、人びとの健康不安は商売のためにかき立てられ続けることになります。
「健康を求める方法」として、健康食品や健康器具だけではなくて「異常の排除」が用いられました。「健康に悪いこと」をこの世から追放しよう、という運動です。怖がる対象が明確なのが恐怖で不明確なのが不安ですから、不安に対する「対策」として「排除」が採用されるのは当然です。かつてらい病は非常にわかりやすく社会から排除されました。ところが疾病の原因などが科学的に明確になった現代社会でも、人は似たことをします。本書では堺市でのO157感染のときに「感染児童が退院してから差別された」「堺市の児童が他県のキャンプに参加を断られた」「堺市のスポーツ少年団が全国大会に出場辞退をした」例が紹介されています。
「排除の輪」は容易に広がります。「社会の不潔なゴミ」としてのホームレス襲撃や障害者差別、さらにはデブ・ハゲ・体臭などに対する排除も行われます。著者は、1970年代からの「異常の排除による健康追求」と1980年代からの「学校での細かい差違によるいじめ」とが同じ構造(キレイナモノを追い求めるためにキタナイモノを排除する)を持っていることに注目をしています。
現代日本では、人は医学に「健康増進」の機能を求めます。しかし医学の本来の機能は「疾病治療」です(でした)。そこで人は失望します。「絶対的な健康(すなわち不老不死)を現代医学はもたらしてくれない」と。そのかわりをしてくれそうなのが、TVなどで自信たっぷりに「これを食べたら健康になれる」などと語る“健康伝道者”たちなのでしょう。
それでも医者はいろんなことを言います。「これは危険だ」「これも危険だ」。しかし、医者の言うことを丸呑みしてあれもこれも自分の生活から排除するのではなくて、「自分がどう生きたいのか」のグランドデザインに従ってリスクを取捨選択するのは、各個人の“責務”ではないでしょうか。誰かに選択を丸投げするのではなくて。でないと「自分の人生を生きている」ことにならないような気が私にはします。
私の「健康」の定義をここに書いておきます。元気に生きる、そして安らかに死ぬ。「一病息災」という良い言葉がありますが、たとえ五体満足でなくてもたとえ病気持ちでも「健康な人生」を送ることは可能です。そう思わないと、宇宙の中ではあまりに弱いアシである人間なんてやってられません。
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