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 割り箸事件の判決が出ました。

「謝罪して欲しい」両親ら痛切 男児割りばし死亡事件

 で、この記事を素直に読む(印象操作される)と、まるで「病院や医者は一言も謝らなかった」と言わんばかりの遺族の主張ですが、それは真実なのでしょうか? もし本当にそうだったのなら、ものすごく傲慢な医療者ということになります。原因に医療過誤があるかどうかは別として、残念な結果に終わったことに対しては当然一言あるべきだと私は思いますが、しょせん私は「社会的常識に欠ける医者@首相のお墨付き」ですから、この思いが社会的に通用するのかどうかはわかりません。でも、本当に一言も言わないかなあ。少なくとも、命を救えなかったことへの力不足を詫びることや哀悼の意を表することはあったと思うのですが(ネット版では書いてありませんが、紙面には医師の哀悼の意は載っています)。

 あくまで可能性ですが、ことばはあっても遺族の側に聞く耳がなかったのかもしれません(「否認」という心理メカニズムが働くことが考えられます)し、ことばの質や量に不満があるのかもしれません(でもその場合には「足りなかった」という表現になるでしょうね)。もしかしたらそもそも「謝罪」の定義が違っているのかもしれません。(定義については遺族の方に詳しくインタビューしないとわかりませんが)
 たとえば「裁判で有罪判決」「記者会見を開いて土下座」のセットが遺族の心の中での「謝罪」の定義だったとしたら、たしかに病院も医者も「謝罪していない」ことにはなります。有罪判決はなかったし、公開の場(マスコミの前)での土下座もなかったのですから(なかったですよね?)。
 ところで、「無罪の人間に“謝罪”を求める」のはつまり「裁判の結果がどうであれ、まずは自分が“有罪”であることを認め、そのことを詫びろ」という要求になります。あら、裁判は何のためにあったのでしょう。「お前は有罪だ」と「私は無罪だ」の意見の対立があるからこそ裁判になったと私は解釈しているのですが。

 「何があったか知りたい」もこういった場合に遺族によって良く語られることばです。しかし、それは、実は医者の方も言いたいことばです。特に救急の現場で。見たらわかることは見たらわかるので、見てもわからないこと、倒れた状況や関係する物的証拠・持病・アレルギーなどの情報があればあるほど医者の判断や対応は“正解”に近づきます(もちろん医者の力量も関係するし状況もあるから、必ず正解に到達できる保証はありませんが(そして“正解”が得られても必ず打つ手があるとは限りませんが)、ともかく(正確な)情報はないよりはある方が絶対的にマシです)。
 医学は「黙って座ればぴたりと当たる」ものではありません。山勘で決断するバクチでもありません。警察の科学捜査と似ていて、物的証拠・状況証拠などを積み重ねた上で論理を使い根拠を持って判断をしていく地道な作業の連続です(それでも埋めきれない部分がある場合には覚悟を決めて決断することもありますが)。この事件の場合も、たとえば割り箸を捨てずにちゃんと持ち込んでいれば、その長さなり折れ口なりで、何が起きたかが判断できた可能性が高いでしょう。(ついでですが、救急の現場にいた頃、私はそういったことで何回悲鳴を上げたことか。「瓶から何か飲んでいた」「その瓶は?」「危ないから、洗って捨てた」「参考になるからすぐ持ってきてください」「いや、もうわからない」なんて会話はしょっちゅうでしたから。情報を医者に与えずに「診断しろ」というのは、姓名判断で姓名を教えずに「顔を見たらわかるだろ、早く姓名判断しろ」と要求するのにほぼ等しいと私は思います)


 私の子どもは今でも恨めしそうに「お父さんはピーナッツを割って食べさせた」と言います。気管につめての窒息死防止のために、幼稚園までピーナッツは禁止、幼稚園に入ってからもしばらくは食べる時に豆を二つに割ってから、としていたことを今でも覚えているようで。だけど私はそのことを子どもに謝罪する気はありません。子どもの事故防止のために親がするべきことは限りなくありますが、そのすべては無理にしても、自分でできることはやっておきたかっただけです。だから自分がやったことは「罪」だとは思っていません。「我慢させたことと、他の子とちがうことになって、悪かったな」とそのことについては謝りますけどね。

参考までに「乳幼児の誤飲と窒息事故」
www.geocities.jp/kids_first_aid/pdf/goinyobou.pdf


※本日は記事を3つも上げてしまいました。たくさん読ませて申し訳ない。貯めると“在庫”が増えてしまうのでそのまま放出してしまいましたが、今日は本当は、4つ書いていたのです。4つめは長いので、明日に回します。


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2008.11.21 17:01 |  その他(一般)  |  おかだ  | 推薦数 : 3

 そくせき

 厚生官僚宅連続襲撃事件のTVニュースで、アナウンサーがさかんに「そくせき」と言っていました。「?」と考えたら「足跡」のことです。たしかに漢字は同じですが、少なくとも、私が受けた国語教育とこれまでの読書経験では、「あしあと」と「そくせき」は日本語では微妙に意味が違います。「あしあと」は物理的な「歩いたあとの足の形(プリント)」、「そくせき」はもうちょっと抽象的なあしあとで「「諸国にそくせきを残す」といった使い方をされたり、あるいはもっと抽象的に「医学の歴史にそくせきを残した」といった使われ方をするはずです。

 もちろん「足跡」を「そくせき」と読むことはその漢字にだけ注目するなら“間違い”ではありません。ただし、機械的に原稿を読むのではなくて、その読みがその場にふさわしいかどうかの判断もプロのアナウンサーだったらできてしかるべきではないかしら。漢字が読めなくても良い、は総理自ら“お手本”を示しているからどうでもよい些事なのかもしれませんが。
 それとも「足跡」は「そくせき」と読むのが、最近の世間の常識ですか?

 ま、私は古い人間だし、どうせ常識を欠いた医者ですから、こんなことをいくら言っても仕方ないでしょうけれど。

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2008.11.21 07:22 |  生活 / くらし  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 3

 へきめて、めっ!

 先日出かけようとバイクに乗って、私はすぐにUターンしました。眼鏡を交換するのを忘れていたのです。私は読書やパソコンに向かう時には読書用眼鏡をしていますが、使い始めてまだ日が浅く、読書と運転で「眼鏡を交換する」がまだ習慣として身についていないのです。
 私は若い頃にはバイクに乗る前に「へきめて」と呪文を唱えていました。ヘルメット・キー・免許証・手袋、の頭を取って忘れ物がないようにするためでしたが、こんどはそれに眼鏡をプラスして「へきめて、めっ」とでも唱えなければなりません。それも「運転の眼鏡だよ」と強調符つきで(ふだんから近視用の眼鏡をかけてますから、強調符をつけないとついつい「眼鏡はかけてるから大丈夫」と「交換」を忘れちゃうのです)。

 そうそう、「近眼は老眼にならない」と言っている人がときにいます。だけどそれは残念ながら本当ではありません。手っ取り早く「私」という「反例」(筋金入りの近眼だけど老眼になった)を提出できます。

 そのへんのことを「D(ジオプトリー)」という専門用語を使わずに説明してみましょう。
 人間の目には「見える範囲(ピントを合わせることができる範囲)」があります。たとえば近くは「1」遠くは「1,000」まできちんとピントが合って見えるとしましょう。(数字は適当です。単位は「ゴスン」とか「おかだ視力単位」とかを暫定的に当てはめておいてください。理論的には正視の人は無限遠までピントが合うはずですが、話をわかりやすくするために限界を設定しています) ところがその人が近視だと見える範囲は近づいてたとえば「0.1〜100」になります。遠視だと逆で「10〜10,000」の範囲が見えるわけ。近視は近く・遠視は遠く、と見える範囲は全然違いますが、近くと遠くの比率(目のレンズの調節力)は同じことに注目してください。そこで目(レンズ)と見るものの間にレンズをはさんで光を屈折させて「見える範囲」を移動させる、が近視・遠視での「視力の矯正」です。
 ところが年を取ると、この調節力が落ちてきます。特に近くを見るところがやられてしまいます。早い人は20代でもうこの変化は出ているそうですが、人間の目の能力にはゆとりがあって、「1〜1,000」が「2〜1,000」や「3〜1,000」になってもとりあえず生活に不便はありません。しかしたとえば「5〜1,000」くらいになると「手元が見えにくいなあ」となって本を遠ざけてしっかり見ようとする(「見える範囲」にものを入れる)ようになり「10〜1,000」になると老眼鏡が必要になります。(繰り返しますが、この数字は適当な目安で、何の「単位」でもありません)
 近視の場合にはスタートが「0.1」ですから「5」までに非常に余裕があります。だから正視の人と同じ調節力の老化がきても(実用的には)近くは見える、ということになります。(それで「近眼は老眼にならない」と言う人が出るようになったのでしょう) だけどこれは嬉しいことではありません。「近眼だから遠くが見えない」「老眼になって近くが見えにくい」と遠くも近くも見えない状態になってしまうのですから。
 私が現在使っている「読書用眼鏡」も実は近眼鏡です。ただ、普段使っているものよりレンズの屈折力を落として「見える範囲」を手前側に持ってきています。正視の人が老眼になったら凸レンズの老眼鏡を使いますが、私は近視だから強い凹レンズに弱い凸レンズを合体させた、と言えばわかりやすいでしょうか。(わかりますよね?)

 遠近両用レンズにすれば眼鏡の交換の手間は省けるはずですが、私の生活スタイル(パソコンの前に座る時間が長い、乱読、車やバイクにも乗る)からは、中途半端な眼鏡だとかえって危険、と判断しました。境目のない遠近両用レンズだと、「レンズで使っていない部分」がもったいない、というケチ根性もありますが。


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