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2008.11.11 19:35 |  恋愛 / 結婚  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 寄る年波

 子どもの頃に大人が「あれだよ、あれ。わかんないかなあ、あれ」などと言っているのを私は不思議に思っていました。ところが最近私も順調に年を取り、単語の想起力がみごとに落ちてきています。まだなんとか「あれ」の連呼ではなくて言い方を変えることでなんとか相手にわかってもらうように努力ができていますが、さて、この“迂回回路”もいつまで使えるかはわかりません。
 で、そのことを家内に言うと、喜んでいます。家内は「自分は頭が悪い、亭主(説明は不要でしょうが、私のこと)は頭が良い」と思いこんでいます。で、亭主の頭が悪くなったら釣り合いが取れてコミュニケーションが良くなる、と言うのです。
 山の神(説明は不要でしょうが、家内のこと)に逆らうようですが(というか、逆らいますが)、私はそうは思いません。頭が悪いもの同士だと話は通じませんもの。観察したらわかりますが、あれは「会話」ではなくて「独り言の交換」です。話が通じるのは片方あるいは両方が「頭がよい者」の場合です。頭が良ければ相手のレベルに合わせて言葉の調整ができるのですから。もし頭が悪いもの同士で話がかみ合っているとしたら、それは両方(あるいは片方)の性格が非常によい場合です。ですから私と家内のコミュニケートは、危機にあります。だって、私の性格はとても良いとは言えないものですから。家内もそのことには深く肯いています。
 おやぁ、珍しく二人のコミュニケーションが成立しているよ。


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 何の因果かインフォームド・コンセントに関して真面目な文章を作らなければならなくなりました。
 そこで、あらためて世界医師会のリスボン宣言や前世紀の日本医師会の文章を読んでみましたが、さすがに20〜30年前の文章は古いと感じます。たとえば「医師と患者」「説明と同意」といった文言が。

 「医師と患者」で私が感じるのは閉鎖性です。現代はチーム医療の時代ですから、「医師と患者」だけが納得していれば良い医療になる、というものではないでしょう。医療チームのメンバーが全員「自分は患者さんときちんとコミュニケートする」と思っていなければ、きちんとした治療はできないはずです。たとえば栄養士や薬剤師が「自分は栄養指導をした(服薬指導をした)。患者がちゃんと理解できたかどうかの確認は医者がやれ」と言ったとしたらそれは一種の職務放棄に私は感じます。また、医師は患者だけ相手にすればいいのではなくてその背景(患者の家族や近隣社会や職場など)も意識していなければならないでしょう。つまり「医師と患者」では“取りこぼし”が多すぎるのです。

 「説明と同意」も、一見まっとうなことばに見えますが、私が感じるのは「不同意は存在しないのか?」です。患者は、医者(を含む医療チーム)から聞いた説明に「同意する義務」は負いません(だからこそ、セカンドオピニオンが成立します)。ところが「説明と同意」と書くとそそっかしい人には一見「不同意が不在」と見えます。しかし患者には「治療を受けない権利」もあるのです。
 「説明と同意」を(そそっかしい)医療者の側から見ると、「同意」を得るためにきちんと説明しろ、という努力目標のようにも見えます。「患者が説明に同意しないのは、お前の説明が下手くそだからだ。ちゃんと説得しろ」と言われているかのような。そうではなくて、「常に相手には拒否する権利がある」ことを忘れてはいけません。「説得」は、少なくともインフォームド・コンセントにおいては、「自分の意見を相手の口から言わせる」ための作業でもなければ、相手にいかに「うん」と言わせるかの技術論でもないのです。


※この「ノーと平気で言えるかどうか(言う方が「ノー」と言うだけではなくて、言われた方がその「ノー」をすぱっと受け入れて次の段階に両者が進めるかどうか)」が「その人間関係が対等かどうか」の一つの試金石だと私は考えています。友達にだったら「その日は都合が悪い」とか「そんなのいやだ」と言えますが、会社の社長に向かっては同じことが言いづらいのは、人間関係が平等か不平等かのちがいによるところが大きいはず。(もちろん“友達”でも全然ノーと言えない関係もありますが、それはもしかしたら「あまりに遠慮が勝ちすぎている」のか「不平等な友人関係」なのか、あるいは「最初からそもそも友達じゃない」可能性もあります)
 インフォームド・コンセントは「患者と医者は知識の量が違いすぎる」と「患者と医者は人間としては対等」を両立させるための方法として始まりました。ならば両者ともに(あるいは医療に関係する人全員が)相手に「ノー」と平気で言える関係でなければ「それはそもそもまっとうなインフォームド・コンセントではない」疑いが濃くなるでしょう。
 「ノー」と言うのにはそれなりの勇気が要りますが、「ノー」と言われることを平然と受け入れるのにはそれなりの覚悟が要ります。そういった「勇気」と「覚悟」、日本の医療現場では明らかに不足しているように私には見えますが……それらが不足しているのは医療現場だけかな?


 結局私は「主治医(を代表とする多職種から成る医療チームのメンバー)と患者(と家族)」をインフォームド・コンセントの参加メンバーとし、そのプロセスは「説明・理解・納得・選択」と並べることにしました。なんだか不器用な文面ですが、現時点ではこれが私の最善の表現です。
 それともきれいに着飾ったもっともらしくてごてごてした文章にしなくてはいけないかな?

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