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2008.11.30 07:20 |  診療  |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 4

 死相

 子どもの頃の小説で時々「すでに死相があらわれていた」なんて表現があり、そんなものが本当にあるのかと思っていましたが、医者になってしばらくして“経験”を積んでくると“それ”がたしかに存在することに気づきました(といっても、街を歩く人の顔を見て「あ」と言うわけではなくて、病院のベッドに寝ている人で認めるだけです。また、全員に出るわけではありません。単に私が見逃しているだけかもしれませんが)。医学的には、顔面の局所的な循環不全、などと表現できるのかもしれませんが、やはり死相は死相です。(漫画で、落ち込んだ顔の一部に平行線をたくさん引いて影のような効果を出す手法がありますね。強いて言うならあれに似ています)
 ただ、私としては、できるだけそういったものを見たくはありません。そのことについて誰かと話し合ってもしかたありませんから「あ、死相が出てる」なんてことも言いません。日常的には「そんなの、知らないもんね」といった感じで振る舞っています。ただ、そういったものに気づいてしまったり日常的に身近な人がこの世にいる、ということだけは「医者と話すと波長が合わない。医者が他の人間とは違うのはおかしい。もっと普通であるべきだ」なんて言う(見たいものしか見ない)人たちに知っておいてもらいたいと願います。
 もちろん死相に気づくのは医者限定ではないでしょうが。


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2008.11.29 06:55 |  仕事 / 職場  |  その他(一般)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 才能の評価

 11月25日「完全/君子と小人」の補足です。(補足というより蛇足かもしれませんが、せっかく書いたものですから)


 「他人の才能を評価する」ことも実は「人の才能の一つ」です。才能である以上、上手下手がありますが、それが下手くそな人間がやたら多いからこそ「自分には才能があるぞ」と外に形として示すための「資格商法」が世にはびこり、「自分は不当に評価されている」と人事評価で不満が渦巻くことにもなります。それでも「専門家」の場合にはまだ話が楽です。少なくとも使う物差しはその専門領域に関するもの一つですみますから(それでも「お前の判断基準はおかしい」と話がもめることは良くありますが、これはきっと物差しの縮尺が各人で違うのでしょうね)。
 それが「評価するべき要素が複数」の場合には話はややこしくなります。それぞれの要素についてまずは各個に正しく評価した上で、さらにそれぞれのバランスを考えなければなりません。さらに「評価されるべき人」だけではなくて「その人がいる環境との関係」も考慮する必要があります。(戦闘力が優秀な軍人」は「経済市場」ではなくて「戦場」で(それも空軍なら空、海軍なら海で)評価されなければならないでしょ?)。

 ところで日本では、複数の分野で才能を発揮することはあまり好まれません。「器用貧乏」「多芸は無芸」ということばがあるように、マルチタレントは低く評価されるのが日本の“伝統”です。「一芸は道に通じる」は一見最終的な「幅広さ」を高く評価しているかのようですが、そこでも重要なのは「まずは一芸(を極めること)」です。
 ということは、マルチタレントを正しく評価することは、日本の“伝統”に反する行為ということになります。実際にやろうとしても、「他人を評価する才能」を欠いた人間にはそもそも無理ですが。

 ではそういった人が他人の才能、特にマルチタレントを評価するにはどうするか。「完璧」を求めるのです。これなら低才能無能力の人間にも他人の評価が可能です。一点「瑕疵がある」ことのみを抽出すればいいのですから。
 つまり、他人に完璧を求めること・他人のあら探しだけをすることは、そういうことをしている人自身の「自分の能力は低いという告白」でしかないのです。

 ところで、「他人の才能の認知」は個人の才能(の一つ)ですが、「他人が自分より優れていることを素直に認める」のは才能より性格の問題です。嫉妬などに目をくらまされずに冷静に他人を評価できるのは、感情の領域ですから。その上で「現状の把握」をし、適材適所ができることはこれまた才能でしょう。「自分の回りに有能な人間(使える人材)がいない」とお嘆きの向きは、まずは一度自分の才能と性格を厳しくチェックした方がよいかもしれません。


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 「「議員、官僚、大企業、警察等の信頼感」調査」によると、日本では国会議員よりはマスコミの方がまだ信頼感は高いそうですが……それでも医者の習性が働いて、マスコミのことばを信じ込む前にまずは「事実」の確認からです。

 
平成20年第25回経済財政諮問会議議事要旨」から引用します(11ページの部分)。
(麻生議長)67歳、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやた
らにかかっている者がいる。彼らは、学生時代はとても元気だったが、今になると
こちらの方がはるかに医療費がかかってない。それは毎朝歩いたり何かしているか
らである。私の方が税金は払っている。たらたら飲んで、食べて、何もしない人の
分の金を何で私が払うんだ。だから、努力して健康を保った人には何かしてくれる
とか、そういうインセンティブがないといけない。予防するとごそっと減る。
病院をやっているから言うわけではないが、よく院長が言うのは、「今日ここに
来ている患者は 600人ぐらい座っていると思うが、この人たちはここに来るのにタ
クシーで来ている。あの人はどこどこに住んでいる」と。みんな知っているわけで
ある。あの人は、ここまで歩いて来られるはずである。歩いてくれたら、2週間し
たら病院に来る必要はないというわけである。その話は、最初に医療に関して不思
議に思ったことであった。
それからかれこれ 30年ぐらい経つが、同じ疑問が残ったままなので、何かまじ
めにやっている者は、その分だけ医療費が少なくて済んでいることは確かだが、何
かやる気にさせる方法がないだろうかと思う。

 非常に単純化して言うなら「不養生・不摂生をするから体が弱り病気がちになるんだ。そういった人は生活を改めることで“健康”になれる、あるいは病気が予防できる。自分が良い例だ。それで医療費が抑制できる」となるでしょう。(だったらそう言えばいいのに、同窓会だのよぼよぼだの枝葉をつけて言うからマスコミに適当に刈り込まれて“整形”されてしまうのです。
 ただ、病気の原因は不摂生だけではありません。たとえば、先天的なもの・遺伝・外因の病原(インフルエンザ・ノロウイルスなどの病原体や、森永ヒ素ミルクやサリドマイドや水俣病など)・事故・加齢など、個人としてはどうしようもないものはいくらでもあります。さらに、一見個人の不摂生に見えても社会的な強制(過重労働による過労死など)も。それらを除いた「個人としてなんとかできるもの(生活習慣病)」については個人で(生活習慣を)ナントカできないのか、とことばを惜しまず言えばいいのにそれをしないから、「首相は『病気は個人の責任なのにその金をなんで私が払うんだ』と言った」となってしまう。
 ということで、たまには首相の“弁護”をしてみました。

 私は、中曽根さんの原爆病院での「病は気から」発言を思い出しました。あれも「病気があっても元気を出し て」が真意だったはずですが、言った場所と選んだことばのマッチングが最悪でしたっけ。政治家だったら、「自分が言いたいこと」だけを言う(「真意」を押 しつける)のではなくて、最初から幾つかの異なる立場の人を聴衆として想定してから発言した方が良いんじゃないかしら。もちろん「究極の八方美人」が理想 の政治家かと言えば、必ずしもそうは言えませんが、この場合はわざわざ「敵」を作らなければならない状況ではないでしょう? 「敵」を作るには、作るべき 場所と状況は選ぶべきです。

 た・だ・し、ことばを惜しんだのか事実を知らないのかの区別もつきませんが、もし惜しんだのだとしても、あれでは、政治家としては失敗というか失格と言われても仕方ないとは思います。社会保障の理念(健康保険制度の原則)は、相互扶助であって“投資”(“払った金”の分に見合うだけの“利得”を期待する)ではないのに、上で引用した発言を素直に取ると首相は30年間それを理解せずに政治家を続けている、ということになりますから。公的な場での政治家の発言ではなくて「酒場でTV見ながらの無責任な放言」だったらOKなレベルですけどね。

 そうそう、上記の首相の発言、議事要旨を最初から読んでいるとどうも直前までの流れとつながりが悪いのも気になります。もしかして「言いたい時に言いたいことを言う。他人の発言は無視」のタイプ? それとも、それまで続いた抽象的で観念的でふわふわした議員たちの議論に対して(中には少しでも現実的な話をしようとしている人もいますが)、もうちょっと“現場”に足をつけた話を出したかったのかな。

 もう一歩踏み込んで考えてみます。11月22日に「読書感想『健康不安の社会学』」で書きましたが、「お上」が「個人の健康」に熱心に口をはさむのは結局社会の健康不安を助長させます。そこまで考えてから「政治家として」国民の健康に口を出さないと、良かれと思ってやったことが別の不幸を招くことになりかねません。政党の中のパワーゲームも複雑でしょうけれど、この世はもっと複雑なのです。

 

 ……あらら、弁護するはずが批判になってしまいました。だけど、ポジティブな批判だから、OKですよね?(と自己弁護)


※いつも思うのですが、政府の文書はどうしてやたらとPDFにするのでしょう。上で引用した中央調査社のページはグラフがあるので必要性が理解できますが、議事録のようにグラフやイラストが含まれない文字だけのファイルはふつうのテキストファイルで良いんじゃないかなあ。PDFは重くてかさばって扱いにくいのですが、なにか“事情”があるのかな。


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 お役所から病院に書類が来ていました。読んでみると、「○○を××されたい」「□□を××されたい」といった文章がいくつも並んでいます(「××」のところは「周知」とか「明記」とかです)。大げさに言うと「されたい」のオンパレードです。
 だけどこの文章の真意は「××をしろ」です。
 私の国語力では「される」は「する」の尊敬・受け身形です。で「され+たい」は「される+希望・要求」。尊敬語を用いることで命令形の強さを少しでも和らげようとしているのかもしれませんが、しょせん「尊敬」はことばだけで、真意が「逆らったら怖いぞ」であることが透けて見えるから、読んでいて微妙に気持ち悪くてしかたありません。そもそも、尊敬と命令は相性が良いとは思えません。単なる形式的な敬意はかえって相手に失礼です(慇懃無礼)。あっさり「○○を××すること」「□□を××しなさい」で良いじゃないですか。どうしても「された」を使いたいのなら「○○を××されたし」だったら、“命令”がわりとストレートに感じられるので、私は「されたい」ほど気持ち悪くはありません。結局意味は同じですけれどね。

※もしかしてもしかして、「される」は尊敬じゃなくて受け身? お役所から「病院は役所の思うがままに“され”なさい」とあらためて通達されているのかも。

 そもそも私の日本語感覚で「されたい」を使うとしたら……たとえば「あなたに優しく愛されたい」とか「あなたに優しく介抱されたい」といった用法となります。(しかしなんで「優しく」が並ぶかねえ。もしかして私は優しさに飢えている?)

 ところで相手への希望・要求として「されたい」を使うのは一般社会常識ではごくふつうのことなんですか? たとえばこういった文章を普通に書く人は家に帰っても「晩酌は日本酒二合にされたい」「今夜の風呂のお湯は、摂氏42度にされたい」とか言うのかしら? あるいは「今夜のセックスは1時間はされたい」とか……あ、これはこれで意味が通ってる?


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2008.11.27 18:57 |  医療制度 / 行政  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 4

 政治の問題

 介護保険に関して「来年度から報酬を増やすから頑張れ。人を増やせ、給料も増やせ」という厚労省のありがた〜いお触れに対して、民間業者の動きがとっても鈍いそうです。

 さて、「収入が増える」と聞けば喜ぶのが“ふつう”です。今回なぜ民間業者は“喜”ばないのでしょう? 私と同じようにひねくれ者ばっかり? そんなことはありません。世間には素直な善人があふれているはずです(だからこそ詐欺事件が横行します)。

 日本には「二階に上げてハシゴを外す(あるいは「ハシゴを外された」)という言い回しがあります。実は厚労省は、その前の厚生省の時代から、“その手”が大好きなのです。診療報酬を上げることで“経済誘導”をしておいて、それにつられて医療機関が集まった(施設を改装したり設備を揃えたり人を集めたりした)ところでどんと診療報酬を下げる、を何回やったことか。それどころか、現在の話題のフィールドとなっている介護保険では、介護保険適用の療養病床を(削減どころか)ばっさり廃止としたのは記憶に新しいところです。「設備投資」とか「減価償却」ということばを身をもって味わったことがない人が政府にはいるようです。
 いくら“善人”でも、少しでも記憶力や判断力がある人間が経営者だったら「来年度から報酬アップ? ふーん。で、何年後にダウン?」と思っても不思議ではないでしょう。“恒久的”定率減税でさえあっさり廃止しちゃう政府が、こんどの政策(予定)には「恒久的」もつけていないのですから。選挙前に一時だけぶち上げてちょっとやってさっさとやめる気満々と見られてもしかたありません(ついでですが、ここの「一時」は「いちじ」よりも「いっとき」です)。

 つまり、今回の介護報酬の件は、単なる「金の問題(経済)」だけではなくて「政治の問題」なのです。もうちょっと踏み込んで言うなら、「この国の政治が信用できるかどうかの問題」。で、ここで必要なのは「私を信用してください」と懇願したり「おれが信用できないのか」とすごむことではなくて、「国としてのグランドプラン」を(美辞麗句だけ並べ立てるのではなくて)理念とともに具体的な政策としてそのデータや金銭的な裏付けや人の手当などを明確にしてきちんと明示することです。それなしで行き当たりばったりにソロバンだけ振り回してうろうろするから、信用が落ちるのですよ。(あ、振り回しているのは今は電卓ですか。それは失礼)


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 先日産婦人科の労働条件について「産婦人科勤務医の勤務時間」で書きましたが、小児科医を扱っているサイトを見つけました。「小児科医と労働基準」です。まだざっと見ただけですが、内容は豊富です。
 たとえば小児科医師数の統計。平成14年から16年にかけて小児科医は全国で微減ですが、都道府県によって増減の差があり、たとえば北海道はすごい減少ぶりです。ならばその理由を解明すれば、小児科医の減少/偏在に対する解決の方法が見つかるかもしれません。各都道府県ごとのローカルな理由かもしれませんが、すくなくとも根本的な対策を欠いたままでの強制移住よりはましかも。
 「宿日直許可を受けている医療機関に関する監督結果」(平成18年厚労省労働基準局)で、労働基準法違反をしている病院が80%以上、なんてデータもあります。いやあ、凄い数字ですな。でも、こういった数字は、実はそれだけでは意味がありません。問題意識と数字の解析能力と立案能力と実行力(権限と予算と人事とやる気)を持った人びとが眺めて初めて“数字”は意味が出てきます。一つの数字だけ見つめるのではなくて、他の数字との関連も重要ですから、視野の広さや一見無意味なものの関連づけの発想力も必要です。とりあえずそういったものを持っている人の目にとまる一助になるように、ここに紹介をしておきます。本当はそういった数字が一番身近にある官僚に期待するべきなのでしょうが、上記の要素の何か(あるいはすべて)を欠いている様子ですので。


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 「医師養成には国費が投入されているのだから、医師は国の言いなりになって動くべきだ。診療科の自由選択とか自分勝手な開業なんかもってのほか」と主張する人がいます。「国費が投入されていたらその恩恵を受けた学部生は自分の将来に関して国の言いなりにならなければならない」が“真”だとすると、国立大学の文学部を卒業した人は全員文学者にならなきゃいけないし、経済学部で学んだ人は当然全員経済学者でしょうね。だって“文学”部や“経済学”部なのですから、それ以外は認められない、と。そうそう、落第することも“罪”です。「税金の無駄遣い」になるのですから。国民の皆さん、それでよろしいですね?(ところで新聞記者さんたちは、何学部何学科の卒業なんだろう? アメリカのようなジャーナリズム学科は日本にはそれほどないと思うのですが)
 なんだか「養ってやったのだから、その恩に報いるために就職や結婚で子どもは親の言いなりにならなければならない」と主張している一部の封建的な親を彷彿とするのですが……子どもを養ったり社会に必要な人材を育成するのは、親や国の“義務”ではなかったのかな? 「“義務”を果たしたことで自分には特権が生じた」と声高に主張している姿は、控えめに言って、みっともない。

 ところで今回元次官宅を連続襲撃した小泉容疑者は中退とはいえ国立大学に在籍していたそうです。この場合「国費が投入されているのだから」の文脈を用いたら、彼には一体何を言えばいいのでしょう? 「国立大学で国民の税金を使って学んでいたのに、殺人犯なんかになりやがって」です? なんだかとっても虚しく響く言説なのですが……これはきっと話の前提が大きく間違っているのでしょう。


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 世間では最近あまり聞かれなくなったことばですが、ある種の裁判官とある種の弁護士とある種のマスコミはこのことばの存在自体を認めていません。どんな人でもとにかく救急室に運び込んだら助かるべきで、万が一そこで助からない場合はそれは医者の責任だ、と主張します。
 奇跡を期待してとにかく人間が努力しろ、と言うのでしょう。たしかに天命を待つ前に人事を尽くすことは必要です。手抜きをするのは医者としてあるまじき態度。でも、すでに三途の川を渡ってしまった人に救命処置をするのは「医療」でしょうか? そしてその救命処置を事後に詳細に点検して、手順の一部にでも瑕疵があればあるいは数秒の遅れでもあれば(ひどい場合にはそういったものがなくても)、鬼の首を取ったように訴えます。人の死は全て医師の“手抜き”がその原因であるかのように。

 病気や怪我の治療は、人の手でできます(できないこともあります)。しかし、「死」を治療することは人間にはできません。


 そして、奇跡が起きなかったことへの怒りをそこに居合わせた人間に対してぶちまけるのは、二重に間違っています。奇跡は人間が起こすものではありませんから。(奇跡を人に求めるのはお門違いです。で、願うのではなくて神に奇跡を要求するのは僭越な行為、と私は思っています。だから「二重」)

 ただ……「奇跡が待望される社会」は、社会全体に不幸が満ちあふれていることを示しているのかもしれません。だとすると、私がするべきことは「奇跡を求めるな」と言うことではなくて……


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2008.11.25 18:39 |  その他(一般)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 1

 下らないやり取り

 なんでこんなことを堂々と報道するのか、と思うニュースです。「「チンピラ」発言に応ぜず=麻生首相
記事から一部引用します。
 2008年度第2次補正予算案提出をめぐり、小沢氏は年内採決に協力する考えを示したが、首相は「信用できない」と発言。これに小沢氏は「チンピラの言い掛かりみたいな話だ」と不快感を示していた。

 で、これを記者は「小沢さんが麻生さんのことを『このチンピラめ』と言った」と解釈したわけです。ネット上の検索システムだったら上記の文章から「チンピラ」という文字列を切り取って出典のデータとともにデータベースに登録することには何の問題もありません。だけど、知性のない存在だったらともかく、少しでも知性があれば「チンピラの言い掛かり」「チンピラの言い掛かりみたい」「チンピラの言い掛かりみたいな話」という文字列も並べて登録しませんか? そしてそれぞれの微妙な差異に注目するはず。問題は「チンピラ」という単独の文字列が登場したかどうか、ではなくて、それがどんな文脈で使われたか、なのです。

 これで私が想起するのは、オバマさんの「ブタに口紅」発言です。共和党側はこれを見て「(口紅をつけた)ブタ」はペイリンさんのことで女性蔑視だとしてオバマさんを攻撃する広告を出しましたが、オバマさんの文脈ではブタは共和党、口紅がペイリンさん。当然オバマさんの反応は「共和党陣営は罪のない発言を文脈を無視して取り出し、メディアの興味をそそると知りつつ挑発的な広告を打ち出した」となって、私の見るところでは結局共和党の戦法は逆効果でした。比喩の形を借りた「共和党はブタ」というオバマさんのメタメッセージが「単純な比喩さえきちんと理解できない」という“事実”によって強化されてしまったのですから。(少なくとも、比喩が理解できる人には逆効果だった、が正確な表現かな。たぶん共和党の広告をまっすぐそのまま受け取った人も多かったでしょうから。ついでですがオバマさんのあとの発言が、共和党だけではなくてメディアも皮肉っていること、大喜びで報道しているメディアの人たちは気づいていたかしら?)

 さて、今回このやり取りでマスコミが注目する点があるとしたら、小沢さんがただの「言い掛かり」でも良いのにわざわざ「チンピラ」という“単語”を選択して付加したことでしょう(私個人としては、下品な選択に見えますが)。ですからここでマスコミがするべき事は「親分親分大変だ、小沢さんが親分のことをチンピラと呼びましたぜ」と“ご注進”に及ぶ(そして自分好みの反応をさせようとしてスカされる)ことではなくて、「わざわざここでチンピラということばが選択されたことについて、どう思うか?」などと開かれた問いを投げかけることで麻生さんにもメッセージ(とメタメッセージ)を発するチャンスを与えることでしょう。その“チャンス”を瞬間的に最大限に生かす力量があるかどうかは、また別の問題ですが。

 しかし……こうやって報道されるものを見ている限り、(一部)マスコミ人の日本語に対する言語感覚の粗雑さ(たとえば単語に注目して文脈を無視する、など)には、頭が痛くなります。あれでよく“マスコミ”の仕事ができるもんだ。(これは直接的なメッセージです。特に複雑な含意はありません)
 「ことば」はマスコミ(と政治家)にとっては“商売道具”でしょう? 大工の鋸や鉋・料理人の包丁のようなもので、その道具をきちんと手入れし素人にはできない腕前で使いこなしてこそ「真っ当な職人」なんですが……
 もちろん「巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」ということばもありますから、単に口先だけお上手であればいい、とは言いません。でも、少なくとも言語に関する基本的テクニック(ふつうの漢字を間違えずに読む、メッセージとメタメッセージの区別や比喩の精確な解釈、豊富な語彙……)はことばを“商売道具”として日常的に使う人には、最低限必要なことではありませんかねえ。基本がしっかりできた人が応用として“破調”を用いるのはそれは個性ですが、基本ができていない者がいっぱしの口をきいているのはただの下手くそな素人。少なくとも私のような言語の非専門家にこんなツッコミをされるようでは、恥ずかしいですよ。


※マスコミ内部の人は「あれは政治部だから……」なんて感想を持っているかもしれませんが、私からはそういった区別はできませんので(する必然性も感じませんので)「マスコミの人間」と十把一絡げにしました。


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 孔子は「君子は人が完全であることを求めない。小人は人を使う時完全であることを要求する」と述べたそうです(『孔子と老子』カール・ヤスパース 著、 田中元 訳、 理想社)。(「この文は論語のどこそこから」などと非常に細かく訳注をつけている訳者でも探し出せなかったらしく、この文の出典が本には書いてありませんでした。内容からして論語じゃないかなと見当をつけて、図書館で論語関係の本を借りて探してみましたが、おそらく『論語』第十三篇「子路」の「子曰、君子易事而難説也。説之不似道、不説也。及其使人也、器也。小人難事而易説也。説之雖不以道、説也。及其使人也、求備焉」でしょう。意味は「君子の下で働くのは容易だが君子を満足させるのは難しい。君子は人の能力や器量を見極め適材適所で使うが、人が道を外れていたらたとえいくら成果が上がっていてもそれをよしとしないから。小人の下で働くのは難しいが喜ばせるのは簡単である。小人は、人の能力以上を見境なく性急に求めるが、たとえ道に外れていても上手く立ち回れば単純に喜ぶから」です(訳は私がやったので、間違いがあったらそれは私の責任です)。読み下しのポイントは、「事」を「つかえる」、「説」を「よろこぶ」、と読むこと)

 たとえ孔子のネームヴァリューがなくても、この言葉には真実みがあると私は感じます。人の能力を見極めそれを適材適所で使いこなすのは「人の能力」の一つですが、君子と小人ではそれは天と地くらいの開きがあるはずですから。

 ……しかし、安易に他人に完全を求めるのが小人の証拠なのだとしたら、孔子から2500年も経った今の日本では、「医者が完璧であること」を安易に求めるマスコミにも法曹界にも政府にも、君子ではなくて小人が大手を振って闊歩しているということなんですね。もちろんそのターゲットにされている医療界自体もまたその例外ではないのかもしれませんが。


※他人にではなくて「自分は完璧であらねばならない」と思うのはどうなんでしょう。向上心のあらわれ? 強迫観念? それともこれも一種の小人の証拠?


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