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2008.09.27 17:58 |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 1

 バナナがない

 家内とスーパーに買い物に行ったら、噂では聞いていましたが本当にバナナの棚がずいぶん寂しい状態になっていました。「TV番組などの影響で品不足で……次回入荷の予定は……」などとお詫びのことばが書いてある紙がでかでかと貼ってあります。
 なるほど、これが評判のバナナダイエットの影響ですね。TVで取り上げられる → わっと買いに行く人がいる → 棚が空になる → 品不足に焦った人が必要もないのに買う の悪循環でしょう。こちらにはバナナを買う予定はなかったから別に“実害”はなかったのですが。

 ちょっと振り返ると、TV番組の影響で「ダイエットに効く」と品不足になったのを思い出したのは、とりあえず寒天・ココア・納豆・スキムミルク……(しかし、こうしてみると、みごとに安いものだけですね)……きっとまだまだあるんでしょうね。

 で、皆さん、スリムになったんでしょうか。
 私には「スーパーの棚を空にすること」と「日本人がダイエットに成功すること」とには相関関係はないように思えます。そろそろ学習してTVに踊らされることは、やめにしません? もちろんTVを信じるのは勝手ですが、せめてそれで成功した人が回りに次々登場してから「よっこらしょ」と挑戦するのでも遅くないのではないか、と私は思います。


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2008.09.27 07:27 |  診療  |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 1

 ロゴス雑考 

 「医学って何?}や「医学は理系か?」で医学そのものについて考えてみましたが、今日は医学の「学」について考えてみました。

 医学の「学」は科学の「学」、が現代人の常識でしょう(普通に和英辞書を引いたら「医学」は「medicine」または「medical science」と出てきます)。たしかに今私が生きている近代西洋医学は科学をベースとしています。ただ、「医学はアートである」という考え方もあります。手術の手技や対人関係はたしかに科学よりはアートに分類されるものでしょう。ただそれだと「学」の意味があいまいになり(あるいは医学が「学」と「アート」とに引き裂かれてしまい)そうです。医「学」という以上、なにか厳密で統一的な論の立脚点が必要です。

 私は「医学の“学”はロゴスである」とします。

 「ロゴス」とは古代ギリシアの頃からある言葉(概念)でいろいろな意味を持っています。「ロゴス」の子孫は英語の「Logic」(論理)や「-logy」(Biology(生物学)とかPsychology(心理学)の尻尾の部分)として生きていますが、つまりは「学」であると同時に「論理」であり、その根底は「理性」であると言えます。感情や感覚や直感ではありません。(「感情的な学問」は考えにくいでしょう? 「感情に関する学問」は考えられますし「感情的な学者」ならいくらでもいますが)

 スコラ哲学では「万物を支配する法則」という意味もロゴスにあるそうです。東洋だったらたとえば朱子学に「理気二元論」(この世は「気」(物質的存在……現代人には原子や素粒子と言ったら理解しやすいでしょう)と「理」(気を司る法則……物理法則と言えばいいかな)の合わせ技で成立している、という考え方)がありますが、スコラ哲学のロゴスはその「理」にほぼ相当するだろう、と私は考えています。

 さらに宗教的な意味もありますが、私は宗教には(宗教にも)詳しくないので省略します。ただ、新約聖書・ヨハネ福音書が「はじめに言葉ありき」で始まっているのを見ると、西洋人の心性は本当にロゴスに染められているんだなあ、とは思います。仏教でインドから東南アジアへではなくて中国および日本方面に伝わって特に栄えたものは浄土教と座禅ですが、浄土教は「南無」という「言葉」は使いますがそれは一種の「宣言」であってそれ以上論理を追究しないものであるし(「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀仏に一切をおまかせします」という宣言です)、座禅は禅問答で言葉の限界を超えさせようとしたり悟りという言葉では管理できない世界に人を連れ込もうとします。つまりどちらも「ロゴス」を絶対視しない(というか、積極的にロゴスの絶対性を無効化しようとする)傾向があります。それを見ると、東洋と西洋とでは世界観の根本(世界を見る視点の位置と視線の方向)が全然違うのではないか、と私は感じます。

 さて、医学の「学」がもしも本当にロゴスだとすると、それは「科学」でなくてもかまわないことになります。「病気や病人(のデータ)をロゴスによって処理する」体系はすべて「医学」として扱えることになりますから。
 私が何を考えているかというと、伝承医学です。伝承医学と民間療法はよく混同されますが、私はこの「ロゴス」が存在するかしないかによってその両者は明確に区分できるのではないか、と考えています。たとえば「発熱には○○の葉を煎じて飲めば良く効く」は体験論のみでロゴスがないから民間療法。「この熱は太陽病だから麻黄湯の証」(漢方医学の言い方)だったらロゴス(と成功および失敗の体験の集積)があるので伝承医「学」。

 漢方医学の「ロゴス」は陰陽五行に基づいた世界観に基づく“医学理論”です。科学の目から見たら「なにを変なことを言っているんだ」です(白状するなら、私は陰陽は好きなのですが五行はあまり好みではありません)。しかし、もしも漢方医学が有効なら、その有効性はとりあえずロゴスごと認めなければ、漢方医学の有効利用ではなくて「西洋医学的な偏見に基づくつまみ食い」にしかなりません。(もしも漢方薬を西洋医学の文脈で使うのなら、西洋医学のロゴス(科学と要素還元主義)に従って「漢方薬」ではなくて「西洋薬」に変更して使わなければならないはずです。たとえば、麻黄からエフェドリンを、大黄からセンノシドを抽出して「西洋薬」として用いているように) ただ、漢方薬をそのまま西洋薬として使う態度は、漢方医学にとっても患者にとっても幸せなことではないように私は感じています。だってそれは過去の知見の蓄積の存在を否定することで、結果は治療の有効率の低下なのですから。
 さらに、西洋だろうが東洋だろうが、「ロゴスを欠いた医療行為を行う」人間のことを医師と呼んではいけない、と言ったら、これはちょっと厳しすぎます?


※ただし、人生は論理だけで成り立っているわけではありません。人生は非論理的なファンタジーやロマンなどもその構成要素としてたっぷり持っています。たとえば「理想」「理念」「希望」「願望」「妄想」「思いこみ」「予測」「期待」「思いやり」「思いつき」「愛情」「友情」「直感」「ユーモア」…………
 医学は人生の一部として運用されますから、医学の「学」が「ロゴス」であったとしても、医のロゴスだけで人生を語ることは「医学者の傲慢」と呼ばれてしまうことでしょう。私自身も、ロゴスだけでがちがちの無味乾燥な人生には魅力を感じません。ロゴスで一本筋が通っていて、でもその他成分がたっぷりある人生と医学、それが理想かな。



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