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 診断書を書くのは気を遣うものですが、私がいろいろ書いてきた中で大変なものの横綱格が脳卒中後の運転免許の診断書です。たとえば障害認定の診断書はお金(患者さんの人生そのもの)がからむので大変緊張しますが、運転免許に関しては日本語解読で苦労するのです。

 参考までに、運転免許証のことで公安委員会に提出する診断書(脳卒中・脳腫瘍関係のもの)の「3 現時点での病状(改善の見込み等)についての意見」を引用してみます。(医者はこの中のどれかに○をつけたり( )に数字を入れたり□にチェックを入れなければなりません)

(ア)脳梗塞等の発作により、次の障害のいずれかが繰り返し生じている
   (意識障害、見当識障害、記憶障害、判断障害、注意障害、視覚障害(視力・視野障害))
(イ)発作のおそれの観点から、運転を控えるべきである。
(ウ)運転を控えるべきであるが、6か月以内に「運転を控える必要はない」と診断できることが見込まれる。
(エ)運転を控えるべきであるが、6か月より短期間(  か月)で「運転を控える必要はない」と診断できることが見込まれる。
(オ)6か月以内に「今後(  )年程度であれば、発作のおそれの観点からは、運転を控える必要はない」と診断できることが見込まれる。
(カ)6か月より短期間(  か月)で「今後(  )年程度であれば、発作のおそれの観点からは、運転を控える必要はない」と診断できることが見込まれる。
(キ)今後(  )年程度であれば、発作のおそれの観点からは、運転を控えるべきとはいえない。
(ク)上記ア〜キのいずれにも該当しない
   □回復して脳梗塞等にかかっているとはいえない。
   □脳梗塞等にかかっているが、発作のおそれの観点からは、運転を控える必要はない等。


 素直に読んで「悪文だなあ」が最初の私の感想です。官僚の文書の特徴ですが、構文はもたもたぐにゃぐにゃしており、「相手と何かをきちんとコミュニケートしたい」という願望をみごとに欠いた機械的で形式的な文章です。
 また、「発作」の定義がありません。(ア)で「脳梗塞等の発作により」とあるし「脳卒中の診断書だから『脳卒中の発作』に決まっているだろう」と言いたいのかもしれませんが、脳卒中後遺症としてあるいは頭の手術後によく出現するけいれんなども「発作」です。それはどう扱うのでしょうか?
 「6か月」というのも変な日本語です。私の感覚では「6箇月」または「6ヶ月」の方が自然な日本語です(さらに言うなら「6」よりは「六」の方が好ましいでしょう)。わざわざ「箇」「ヶ」をひらがなに開く感覚が私にはわかりません。(「ヶ」はカタカナの「ケ」を「か」と読んでいるわけではありませんよ。「箇」の略字である「个」(上向きの矢印に似ていますが、「竹」の半分です。もともと「竹」はこの「个」が横に二つ並んで「个个」と書かれていました)が崩されて変形した文字が「ヶ」です。まあ、なにをひらがなにひらくかはそのひとのにほんごせんすにまかされる、といえるのかもしれませんが、なんでもてきとうにひらがなにひらけばいいというものでもないでしょう)

 悪文という「形式」の次は「内容」について。
 (ア)では「脳卒中後遺症は繰り返し生じるもの」と扱われています。自分が使った「発作」ということばに引きずられているのでしょうが、ああいった後遺障害は波状攻撃のように出現するものでしたっけ?
 (イ)は、運転中に「発作」がおきるから運転をしてはならない、ということでしょう。脳卒中に再発はつきものですが、それがちょうど運転中に起きるかどうか、誰にわかります?(疑問ではなくて反語)
 それが正確にわかるのなら、私は医者ではなくて予言者になります。でも、予言者が書くのは、診断書ではなくて予言書です。

 (ウ)〜(カ)の「(6か月ではなくて)六ヶ月」への異常なこだわりも、理解不能です。さらに(エ)とか(カ)に至っては、公安委員会は医者に何を求めているのでしょうか。やっぱり、予言? さらに「(ウ)と(エ)」「(オ)と(カ)」の区別の必要性がさっぱりわかりません。「六ヶ月以内」と「六ヶ月より短期間」とを区別する理由って、なに?
 (キ)も(  )年後にはまた危うくなるよ、と予言しろ、との要求です。「キーッ」と言いたくなります。
 (ク)も不思議です。「脳梗塞等にかかっているとはいえない」とはどんな状態を想定しているのでしょう? 一過性脳虚血発作など後遺症が残らない脳卒中のことに読めますが、そんな人は最初からこんな診断書を求めはしません。さっさと免許センターに行ってふつうに列に並んでいるはずです。目に見える後遺症が残っているからこんな診断書が必要になるのですが、『後遺症がある」=「全快した」とは普通の日本語では言いませんよね?(労災では「症状が固定してそれ以上治らない状態」を「治癒した」と定義していますが、それと同類の官僚の独善日本語かな?)

 もちろん医者は病気に関しては専門家ですから、病気とその後遺症に関しての現状についてはきちんと述べることができます。しかし「いつ再発作を起こすか」の予言や「その人が運転適格者か」の職業的判定は医者の仕事とは思っていません。それは予言者や「運転の専門家」の仕事です。(そもそも病院には運転シミュレーターなどはありませんから、実際の運転状況に本人が対応可能かどうかの判定には「想像力」しか使えないのですが、それはつまりエビデンスを欠いた判断ということになります)
 たとえば半身麻痺だったら、どの程度の半身麻痺かは医者が言えますが、それに対してどのように車を改造したら健常な上下肢だけで安全に運転が可能かのアドバイスと判定・視野狭窄だったらどのくらいの視力や視野が残存していたら安全な運転が可能かの基準設定、それらは医者よりも交通関係者の方が詳しいはずです。というか、そういったエビデンスを知らないで運転免許をあんなにたくさん交付しているわけではありませんよね。当然、健常者であろうが障害者であろうが老齢者であろうが「運転免許を取得するためにクリアするべき心身の基準」が厳として存在しているはずです。

 それが、(ア)(イ)に医者がマルをしたら、誰も何も考えずに即刻運転免許は取り消しです。
 ちょっと待って。
 (ア)には高次脳機能障害が並んでいますが、問題は「あるかないか」だけではなくて「その程度(運転が可能か/安全運転が可能か)」です。その判断を一切せずに「医者が言ったから」とそのまま免許を取り消すのが、公安委員会の仕事? そのための最終判断は、医者に丸投げするのではなくて、免許を交付する人が責任を持って行うべきではありません? 例えば、運転シミュレーターの活用とか、机上での道路交通法のテストとか、できること/やるべきことはあると私は思います。さらに、脳卒中後遺症の高次脳機能障害は少しずつ回復します(しない人もいますが)。そのことについてのフォロー(「敗者復活」の可能性)はしない気ですか。
 さらに、安定していて「繰り返し生じ」ない高次脳機能障害やここに書いてない障害(たとえば失行や失調や半側空間無視など)がある場合、医者はどこにマルをつければいいのでしょうねえ。

 こんな悪文の診断書を書くことを医者に強制して、「その人の現状が実際に運転に適しているか」の判断努力は一切しないで(さらにその明確なエビデンスも示さず)、「医者が言ったから免許は取り消しね。恨むんだったら医者を恨め」と逃げる態度を見せつけられるのは、医者としては非常に不愉快です。

 「自分が仕事をせずにすむこと(やるとしても机上だけ)」と「自分が責任を取らずにすむこと」に熱心になることと、ことばに関して重箱の隅の整合性だけを整えるのではなくて、診断書の文案をつくる時に、臨床経験のない官僚だけで文章をひねくり回す前に臨床経験が豊富な人間と協議すれば良いのになあ、とつくづく思います。

 現実を見て批判するだけなら、診断をつけただけで患者を放り出す無責任医者と同じになりますから、「ならばそこからどうするか」もちょっと考えてみましょう。(それでも「診断さえつけられないヤブ医者」よりはマシ、かもしれませんが……)
 もし私がこういった診断書をつくるとしたら……運転に必要な心身の能力の最低基準を明示した上で
1)運転は可能(病気はあっても、その人の運動能力や判断力などに悪影響なし)
2)条件付きで可能(車の改造、安全教育とその確認の筆記テスト、シミュレーターで危機管理能力のテスト、公道での実地運転テストなどを優秀な成績でパスすること)
3)運転は不可、ただし保留にして後日再判定(これが不満なら、本人の申し立てで2へ)
4)運転は不可(免許取り消し)

を医者に判断させることを基本骨格にして、その上で日本語にもう少し枝葉をつけたものにするでしょうね。大切なのは「病名の有無」ではなくて、「その人が安全に車の運転ができるかどうか」(回りに危害や損害をなるべく及ぼさないこと)なのですから。ついでに言うなら、この診断書は脳卒中後遺症を持つ人専用ではなくて、健常者にもそのまま使える汎用性を持っているべきだと私は考えます。

 こんなことを言っても、その結果自分の仕事が増えしかも責任まで負わされる官僚には、鼻であしらわれるだけでしょう。でも、仕事の丸投げや無責任体制が嫌いな人には、頷いてもらえるかも。


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 知識のアップデートはなかなか大変な作業ですが、それでも知識のベースが一つの具体的な像としてしっかりと自分の中に構築されていたらその小修正で済むからまだ楽です。楽ではないのは、まったくの新しい知識や概念の登場に対応しなければならない場合です。
 私の場合それの代表が「MRI」です。卒業後に普及したものについては、なかなかその原理に関してイメージをきちんと獲得するのが困難でした。一応本は読みますが、読んでも読んでも「知識」が「実感」として定着できない(コトバを覚えただけで上っ面の理解しかできない)のです。

 私の前の世代でそういったものにあたるのは、たとえばCTなどが考えられますが、もっと世間に広くインパクトがあったのは心電図ではないでしょうか。開業医でも簡単に持つことができる器械ですが、学生時代にそのことについて習っておらず卒業後に専門的な研修を受ける機会もなかった医者には、その性能をもてあましてしまうものだったことでしょう。
 そこで「ミネソタ・コード」です。これは、専門医でなくても判定ができるように心電図の器械が自動的に結果を数字のコードで打ち出してくれるものです。たとえば、不完全右脚ブロックならVII-6、期外収縮ならVIII、とか数字で表現してくれるのです。で、暗号を解読するようにミネソタ・コードの本を参照しながら「なるほど、この心電図は不完全右脚ブロックなのか」と医者がつぶやくわけ(今はそれを最初から日本語で記録用紙に印刷してくれる器械もあります)。普通に内科の訓練を受けた医者は直接心電図を自分で判断していると思いますが、ミネソタ・コードそのものは滅びたわけではなくて、たとえば集団検診などではまだ使われていることでしょう。
 そうそう、昔は医師会によっては「読図サービス」と呼べばいいのかな、医療機関から心電図を回収して、それにミネソタ・コードをつけて返すサービスを提供していたところもあった、と私は聞きました。

 「医者が機械に頼るとはなにごとだ」と言いたい人もいるでしょう。「機械的判断が本当に信用できるのか」とも。でも、ここでの本当の問題は「プログラムの精度」ではありません。「心電図波形異常の検出」に関しては、基本的に機械は人間より優秀、と私は考えています。本当の問題は「異常の有無」「病気の有無」「心配するべきかどうか」が一列には並ばないことです(「心電図で異常がある」→「病気がある」→「心配するべきだ」とはならない、ということです)。たとえ心電図で異常があってもそれは病気と呼ぶべきではない軽い状態であることもあります。異常があって病名がついても、心配しなくても良いものである場合もあります。逆に異常がなくても医者が心配する場合があります。その「心配」も、ただちに精密検査や治療が必要な場合と、別に急がなくても良い場合があります。器械はそれを教えてはくれません。
 つまり機械がべーっと吐き出した結果に異常があろうがなかろうが、「人間の仕事」はそこから始まる(あるいはその前から始まっている)のです。



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2008.09.28 21:16 |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 医学生の就職活動

 医療系のニュースで、「医療に対する姿勢」の点で現在一番レベルが高いのは、いわゆるマスコミではなくてキャリアブレインだと私は思っています。といってもあまり熱心な読者ではありませんが。
 9月26日付けのCBニュースでは「記者のこぼれ話」として「東大医学部生が就職活動としてある有名な外資系コンサルティング会社を訪れていた。その人数は25人(定員の1/4)」という話が紹介されていました。

 もしこの話が本当なら、医学生が「医師になる以外の道」を模索し始めている、ということになります。ちょっと先が見える人間には現在の医療の世界はちっとも魅力的には見えない、それなら自分の能力が生かせてそれが高く評価される世界へ、というのもわかる気はします。でもやはりちょっとショックです。私が学生の時には「医師になる以外の道」は、模索以前に想定さえしていませんでしたから。
 「やる気のない人間は来なくて良い」と腹をくくるのも一つの案ですが、よその世界にも通用する実力を持つ人材を確保できるだけの魅力を医療の世界に、という工夫もなんとかできないものでしょうか。医学生が見放すということは、医療崩壊が根っこから進行することになってしまいますから。

 おっと、この話は「続報」が知りたいですね。就職活動は活動として、実際に卒業生のうちからどのくらいが医師にならなかったか、のデータです。



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2008.09.28 07:37 |  研究  |  生活 / くらし  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 振り込め詐欺

 先日同僚のドクターが「変な手紙をもらった」と見せてくれました。ある学会から来た「論文の掲載料を振り込め」という手紙です。その学会は実在しています。でも問題が。そのドクターはその学会に論文を投稿したことがありません(そもそもそこの学会員ではありません)。そして文面が怪しさ爆発。「論文の掲載料を払え」と言うのに、雑誌の名前・何巻の何号なのか・論文のタイトル・掲載年月日などの情報が全然ありません。お金だけはしっかり数字が書いてありますが。つまりこの手紙を日本語に翻訳したら「あわて者やうっかり者は、さっさと銀行に入金しろ」です。銀行口座の名義は、学会の「前」会長、ということになっています。わはははは。しかし銀行は、こんな怪しい口座開設でも、平気で引き受けるんですねえ。

※論文掲載料というと、「学会誌に論文を載せるのにお金がかかるのか」と驚く人がけっこういて、こちらが逆に驚きます。昔は雑誌によっては掲載料は無しのところもあったのですが、最近はどこも懐が苦しいらしく、投稿して論文審査が通って掲載が決まったら、数万円〜十数万円の掲載料を振り込まなければならなくなりました。もちろんその場合、どの論文の掲載料かはちゃんと事務局から通知がありますし、振込先も「前会長の学会名義の口座」なんて変なものではありません。私は不勉強者で、この5年くらいは論文を書いていませんが、その原則は今でも変わっていないはずです。


 私も医師として「振り込め」の手紙をもらったことが(記憶にあるだけで)二度あります。一度は「セクハラをしているだろう。内部告発すると言っている被害者の証言を押さえてやるから金を払え」。わははと笑って、まずは院内に見せびらかして歩きました。見た人は皆笑うか「セクハラ? 脅す相手を間違えましたね」と言ってくれるか、でした。私はセクハラをしていないことだけには、自信があるのです。だけど、セクハラをやりまくっている人は、ぎょっとして「あいつか、それともこいつか」と疑心暗鬼になってついうっかりお金を振り込んでしまうかもしれませんね。おっと、筋金入りのセクハラ野郎は「あれはスキンシップだ」くらいの認識でしょうから、逆にこの詐欺には引っかからないかもしれません(ついでですが、私は職員への「スキンシップ」もやりません)。
 受験シーズンに「医学部の裏口入学の枠が余っているからご紹介」という手紙が届いたこともありました。これまた見た瞬間「わはは」です。そんなものを不特定多数に紹介したら「秘密の裏口」にならないじゃないですか。金だけ取って逃げるつもりであることは明々白々です(しかもこの場合、警察に「詐欺にあいました」と言いに行きにくい)。紙面にはなんとも頭の悪い日本語が並んでいて「こんな文章を書く奴に自分の子どもの将来を託したいなんて絶対思わないぞ」と内容を吟味する前にまず拒絶感を感じましたが。また、「医者の子どもは医者になりたがっている」という決めつけも気に入りません。

 どちらも速攻で警察の生活安全課に手紙の現物を届け、県医師会の事務局にも知らせておきました。

 そうそう、セクハラをしない私の子どもは、文系です。詐欺師の皆さん、悪しからず。(私は親の意向には無頓着に自分がなりたいものになりましたから、私の子どもも親がなりたいものではなくて自分がなりたいものになればいいのです)


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2008.09.27 17:58 |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 1

 バナナがない

 家内とスーパーに買い物に行ったら、噂では聞いていましたが本当にバナナの棚がずいぶん寂しい状態になっていました。「TV番組などの影響で品不足で……次回入荷の予定は……」などとお詫びのことばが書いてある紙がでかでかと貼ってあります。
 なるほど、これが評判のバナナダイエットの影響ですね。TVで取り上げられる → わっと買いに行く人がいる → 棚が空になる → 品不足に焦った人が必要もないのに買う の悪循環でしょう。こちらにはバナナを買う予定はなかったから別に“実害”はなかったのですが。

 ちょっと振り返ると、TV番組の影響で「ダイエットに効く」と品不足になったのを思い出したのは、とりあえず寒天・ココア・納豆・スキムミルク……(しかし、こうしてみると、みごとに安いものだけですね)……きっとまだまだあるんでしょうね。

 で、皆さん、スリムになったんでしょうか。
 私には「スーパーの棚を空にすること」と「日本人がダイエットに成功すること」とには相関関係はないように思えます。そろそろ学習してTVに踊らされることは、やめにしません? もちろんTVを信じるのは勝手ですが、せめてそれで成功した人が回りに次々登場してから「よっこらしょ」と挑戦するのでも遅くないのではないか、と私は思います。


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2008.09.27 07:27 |  診療  |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 1

 ロゴス雑考 

 「医学って何?}や「医学は理系か?」で医学そのものについて考えてみましたが、今日は医学の「学」について考えてみました。

 医学の「学」は科学の「学」、が現代人の常識でしょう(普通に和英辞書を引いたら「医学」は「medicine」または「medical science」と出てきます)。たしかに今私が生きている近代西洋医学は科学をベースとしています。ただ、「医学はアートである」という考え方もあります。手術の手技や対人関係はたしかに科学よりはアートに分類されるものでしょう。ただそれだと「学」の意味があいまいになり(あるいは医学が「学」と「アート」とに引き裂かれてしまい)そうです。医「学」という以上、なにか厳密で統一的な論の立脚点が必要です。

 私は「医学の“学”はロゴスである」とします。

 「ロゴス」とは古代ギリシアの頃からある言葉(概念)でいろいろな意味を持っています。「ロゴス」の子孫は英語の「Logic」(論理)や「-logy」(Biology(生物学)とかPsychology(心理学)の尻尾の部分)として生きていますが、つまりは「学」であると同時に「論理」であり、その根底は「理性」であると言えます。感情や感覚や直感ではありません。(「感情的な学問」は考えにくいでしょう? 「感情に関する学問」は考えられますし「感情的な学者」ならいくらでもいますが)

 スコラ哲学では「万物を支配する法則」という意味もロゴスにあるそうです。東洋だったらたとえば朱子学に「理気二元論」(この世は「気」(物質的存在……現代人には原子や素粒子と言ったら理解しやすいでしょう)と「理」(気を司る法則……物理法則と言えばいいかな)の合わせ技で成立している、という考え方)がありますが、スコラ哲学のロゴスはその「理」にほぼ相当するだろう、と私は考えています。

 さらに宗教的な意味もありますが、私は宗教には(宗教にも)詳しくないので省略します。ただ、新約聖書・ヨハネ福音書が「はじめに言葉ありき」で始まっているのを見ると、西洋人の心性は本当にロゴスに染められているんだなあ、とは思います。仏教でインドから東南アジアへではなくて中国および日本方面に伝わって特に栄えたものは浄土教と座禅ですが、浄土教は「南無」という「言葉」は使いますがそれは一種の「宣言」であってそれ以上論理を追究しないものであるし(「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀仏に一切をおまかせします」という宣言です)、座禅は禅問答で言葉の限界を超えさせようとしたり悟りという言葉では管理できない世界に人を連れ込もうとします。つまりどちらも「ロゴス」を絶対視しない(というか、積極的にロゴスの絶対性を無効化しようとする)傾向があります。それを見ると、東洋と西洋とでは世界観の根本(世界を見る視点の位置と視線の方向)が全然違うのではないか、と私は感じます。

 さて、医学の「学」がもしも本当にロゴスだとすると、それは「科学」でなくてもかまわないことになります。「病気や病人(のデータ)をロゴスによって処理する」体系はすべて「医学」として扱えることになりますから。
 私が何を考えているかというと、伝承医学です。伝承医学と民間療法はよく混同されますが、私はこの「ロゴス」が存在するかしないかによってその両者は明確に区分できるのではないか、と考えています。たとえば「発熱には○○の葉を煎じて飲めば良く効く」は体験論のみでロゴスがないから民間療法。「この熱は太陽病だから麻黄湯の証」(漢方医学の言い方)だったらロゴス(と成功および失敗の体験の集積)があるので伝承医「学」。

 漢方医学の「ロゴス」は陰陽五行に基づいた世界観に基づく“医学理論”です。科学の目から見たら「なにを変なことを言っているんだ」です(白状するなら、私は陰陽は好きなのですが五行はあまり好みではありません)。しかし、もしも漢方医学が有効なら、その有効性はとりあえずロゴスごと認めなければ、漢方医学の有効利用ではなくて「西洋医学的な偏見に基づくつまみ食い」にしかなりません。(もしも漢方薬を西洋医学の文脈で使うのなら、西洋医学のロゴス(科学と要素還元主義)に従って「漢方薬」ではなくて「西洋薬」に変更して使わなければならないはずです。たとえば、麻黄からエフェドリンを、大黄からセンノシドを抽出して「西洋薬」として用いているように) ただ、漢方薬をそのまま西洋薬として使う態度は、漢方医学にとっても患者にとっても幸せなことではないように私は感じています。だってそれは過去の知見の蓄積の存在を否定することで、結果は治療の有効率の低下なのですから。
 さらに、西洋だろうが東洋だろうが、「ロゴスを欠いた医療行為を行う」人間のことを医師と呼んではいけない、と言ったら、これはちょっと厳しすぎます?


※ただし、人生は論理だけで成り立っているわけではありません。人生は非論理的なファンタジーやロマンなどもその構成要素としてたっぷり持っています。たとえば「理想」「理念」「希望」「願望」「妄想」「思いこみ」「予測」「期待」「思いやり」「思いつき」「愛情」「友情」「直感」「ユーモア」…………
 医学は人生の一部として運用されますから、医学の「学」が「ロゴス」であったとしても、医のロゴスだけで人生を語ることは「医学者の傲慢」と呼ばれてしまうことでしょう。私自身も、ロゴスだけでがちがちの無味乾燥な人生には魅力を感じません。ロゴスで一本筋が通っていて、でもその他成分がたっぷりある人生と医学、それが理想かな。



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 ある日の試合のスターティングラインアップでは、讀賣ジャイアンツの2番から6番までがずらりと他のチームからの移籍(トレードやFAでの獲得)選手でした。そのほとんどが他のチームでクリーンナップを打っていた強打者です。試合終盤には他のチームから獲得したリリーフエースが登場。おやおや、生え抜きの選手はどこ?
 私が東京都民だったら、こんなよそからの選手ばかりのチームに地元民としての愛着は感じられないぞ、と思うところです。幸いにも私は東京都民でもジャイアンツファンでもないので、そこのところは平気なのですが。(ニューヨーク・ヤンキースも他のチームからの豪華ラインナップで有名ですが、マントルやマンソン(はちょっと古すぎるか)、最近ならジーターとか、生え抜き選手をきっちり育成してそれを軸にまとまる姿勢は見せています。まとまらないこともありますけれどね)
 で、ごくありきたりの感想を持ってしまいそうになります。「金持ち球団が、まったく、金にあかして……」と。

 ただ、そこでいつもの悪いクセが出ます。自省してこう思ってしまうのです。上の「……」の感想は、もしかしたら「医者は金持ちで悪いことばかりしている。だからやっつけて良いんだ」と同じ種類の感想になってはいないか、と。

 現象の表面だけ見て「金持ち」などのレッテルを貼って、そして悪口を言う。その構造は確かに共通です。(虎の威を借るタイプの選手は「俺様はジャイアンツの選手だぞ。うふふ」かもしれませんが)ジャイアンツのまっとうな選手はそんなレッテルに対しては「自分たちが何者であるか、だけではなくて、自分たちのプレーを見てくれ」と言いたいでしょう。そして医者の方は「職業名だけ、あるいは一部の医者の姿だけに注目して決めつけるのではなくて、自分たちが実際にどんなことをしているのか、見てくれ」と言いたいことでしょう。違います?


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2008.09.25 06:58 |  診療  |  仕事 / 職場  |  医療事故  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 システムと個人

 私は病院で医療安全の係もやっています。で、何か医療事故があった場合の原因解析の場で何回もスタッフに言うのが「個人を責めない」「ネガティブなことを言わない」「主語と述語を明確に」「否定文ではなくて肯定文で叙述」「推測ではなくて事実を具体的に(推測は推測と明記)」「原因は対応が可能なモノを指摘(「不幸な生い立ちに問題がある」「みんな社会が悪いんじゃあ」は無し)」「改善や対応はシステム的に」などです。
 これをやっていると、大体の場合、最初にぼんやり想定していたのとは全く違う「根本原因」が一同の前に登場してくれて、皆が一瞬呆然とする、という面白い瞬間が味わえます。

 ただ、「システムで対応する」ということは、現場にいるスタッフは「個人」としては「取り替え可能な部品」扱いになっちゃうような気がして、最近ちょっと欲求不満を感じるようになってきました。患者さんという「個人」を病院という「システム」が扱うのは、その場その場の出たとこ勝負ではなくなるから少なくとも「安全」の面からは好ましいことでしょう。だけど、そのどこかに「個人と個人」のつながりも残しておきたいように思うのです。これは私が「古い人間」ゆえの感傷にすぎないのでしょうか。といって、あまりに特定個人の能力に頼る病院システムはつまりは「個人病院」になってしまうので、システムを管理する立場からするとちょっと困るのではありますが(今は上手くいっているにしても、その人が急に抜けたら全てがストップしますから)。

 さらにこのまま“マニュアル全盛”の動きが進行すると「患者とは、マニュアル通りに扱われるべき存在である」という働きがどんどん強くなりそうですが(つまり、患者もシステムの中の「部品」扱い)、それで本当に良いのかな?


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2008.09.24 06:55 |  スポーツ  |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 1

 ラテン語

 医学部で「自分は医学生になったのだなあ」と実感したのは、解剖の授業が始まった時でした。もうこれで以前の無垢な時代には戻れないのだ、という宣告をされたような……ちょっと違うかな。
 もちろん最初から実習室に連れ込まれるわけではなくて、はじめはみっちりと座学です。分厚い教科書(百科事典三冊分)をめくってみたら、まあ何と言いますか、期待通りの図が並んでいます。で、その説明が、日本語・ラテン語・英語・ドイツ語。私は英語はもちろん日本語もアヤシイ人間ですのに、急に4ヶ国語に精通しなければならなくなってしまいました。もちろん文章ではなくて単語レベルで覚えればいいのですが、何はともあれ「ひえ〜」です。
 たとえば「胃袋」。英語だともちろんstomach(ただし「胃の」だとgastric)、ドイツ語だとder Magen ですがさてラテン語は ventriculus だったかな……ははは(弱々しい笑い)、忘れました。

 英国紳士は学生時代に古典教養としてラテン語をたたき込まれるそうですが、彼ら(の中の劣等生グループ)に私は共感します。大いに共感しますとも。

 参考までに、解剖学用語のサイトです。「船戸和弥のページ(解剖学用語)」
http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~funatoka/anatomy/anatomy.html

 でも……ラテン語が現役だった古代ローマではそのことばはそれほど「格調高い」ものとは見なされていなかったはずです。当時の風潮では「野蛮なローマ」が常識で、「文化的なギリシア」がその対極として置かれていました。つまり、ローマ帝国の文化の中心は実はギリシアで、ギリシア語が使えることが教養の証だったのです。ですから帝国貴族の子弟もギリシアに留学することが“インテリの証明”になっていました。(この文化的イメージは、ローマ帝国が東西に分裂した後も保存されます)
 なんだか「洋行帰り」が幅をきかせた(今でも幅をきかせている)どこぞの国を思い出します。そういえばその国は、江戸時代には京都の方が文化の「格」が上で、江戸から京に向かうのは「都に上る」であり、京から江戸にものを運んだら「下りもの」でしたね。「武」と「文」を同じ国の中で分けて置くのは、けっこう古典的だが一般的な手法なのかもしれません。目的は何でしょう? 国の「健康(平衡)」を保つため? もしそうだったら「一極集中」は国が病んでいる証拠ですが……

 ともかく、ラテン語に対して、格調高いとか化石とかのイメージを持つと、当の古代ローマ人は目を白黒させるでしょう。むしろ「ラテンミュージックのノリ」とか「ラテンの熱い血」のイメージの方が彼らの好みに合っているかもしれません。(私が「ラテン」でまず思い出すのは、エディ・ゲレロです。惜しいことに最近死んでしまいましたが、すばらしいプロレスの選手でした)


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2008.09.23 07:04 |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 1

 ニセモノの改革

 何かを改革したら、必ず変化が生じます(「何も変化させない改革」というものがあるのなら、話は別ですが)。するとその変化に人が適応するため(あるいは変化によって生じたトラブルを処理するため)に何らかの対応処置が必要となります。つまり、大きな改革のあとには必ず小さな改革が連続して行われる必要があるのです。そしてその小さな改革の集積は結果として改革された社会システムのさらなる修正(変更)をもたらします。システムの変更はまた変化を生じさせる連鎖反応を起こすのです。
 改革は人の意識にも影響を与えます。意識が変わった人は世界をそれまでとは違った目で見ますからそれに対しても社会システムはまた変化しなければなりません。(というか、最終的に人の意識を変化させないものは最初から「改革」の名前には価しないでしょう。ただの目先または小手先の変化です)

 ……つまり、本当の「改革」は、一度手をつけたら誰かの都合の良いところでおしまいにするわけにはいかないものなのです。「○○の改革を」と叫んで何かを一回変えたらそれで目的が達成されたかのように思う(思わされている)人は、「ニセモノの改革」をつかまされているだけです。


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