「あなたの病気は命にかかわります」と宣告されたらショックです。頭の中が真っ白になってしまうでしょう。「あなたは重大な病気かもしれません。検査しましょう」と言われただけでパニックになったり検査する前から絶望的な気分になる人も珍しくないでしょう。(なまじっか知識がある分、悪いことを考えてしまって「悪い患者」になる医療者は多そうな気がします)
自分の家族が急に死んでしまった、これもショックです。「なぜ?」と呆然とするでしょう。それがたとえば交通事故だったら、加害者に「なんで殺した」と詰め寄りたくなるはずです。そこで加害者が「いや、急に目の前に飛び出されて」と言っても「弁解するのか」と怒りは増すばかりです。“加害者”が責任転嫁をすることで自分の“罪”から逃げようとしている、としか見えないのですから。その事故が本当に子どもによくある飛び出し事故で、“加害者”は単にそこを普通に運転していただけ、だとしても同じことです。その状況を説明する人間はすべて“加害者寄り(=敵)”として認識されてしまうでしょう。
では“加害者”はその被害者の家族の怒りをすべて受け止めるべきでしょうか。たとえば墓前で土下座? 飛び出し事故の場合“加害者”も実は“被害者”の一種です。ごく普通に落ち度なく道路を走行していて突然「人殺し」にされてしまったのですから。ふだん車を運転する人は、自分がその立場になった時どう思うかをちょっと考えてみてください。常にそうなる可能性は存在しているのですから。
この場合必要なのは“罪人”を作ることではない、と私は考えます。必要なのは時間と心のケア(癒し)です。周りの人間が、自分一人では受容できない悲しみと苦しみの中にいる人に、どのような援助ができるか、が大切だと思うのです。
キューブラー・ロスの「死の受容のプロセス」を持ち出すまでもなく、自分が耐えきれないもの(たとえば自分の死や家族の死)に直面した時人は、まずは拒絶を、あるいは怒りを抱きます。普通の人間があんな喪失体験を従容と受け入れられるわけがありません。
しかし、そこで裁判などを起こして“罪人”を作ることに集中することになると、“被害者”の家族は「怒り」の段階に長期間とどめおかれることになります。そして裁判で“加害者”が無罪あるいは予想外に軽い刑となると、そこで家族はこう呟くしかありません。「納得できない」。
それはその家族のせいではなくて、受容や癒しの段階に進むことを妨害した周囲の人びとの“罪”だと私は考えます。
*1)そもそも、犯罪ではない「事故」の場合にすべてを「被害者/加害者」と単純に二分するのは、適当なのでしょうか?
*2)感情で解決するべき場面を、論理を押し立てて「納得」することでなんとかしようというのは、実は「否認」の一プロセスである可能性がある、と私は感じます。もしそうなら、そのプロセスを“強化”するのは本人には有害な結果がもたらされるでしょう。
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