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脳は、頭蓋骨で形成された空洞にぎっしりと脳みそが詰めこまれているわけではなくて、内部に複雑な構造を持っています。その一つが脳室で、脳脊髄液がたっぷりたまった部屋や通路が脳の中にあります。
まだCT検査が登場する前、頭の中の情報を得る手段はきわめて限定されていました。私が医者になる前の時代の代表選手は脳波とレントゲン検査です。超音波検査もトライされていましたが、頭蓋骨で超音波がはじかれてしまうため、内部構造が詳しくわかるところまでは行っていませんでした(現在胎児の脳の超音波検査は実用化されているはずです)。レントゲンは単純撮影では骨が写ります。血管造影検査では、血管の中に造影剤を注入して脳の中の血管をレントゲンで写していました(動脈瘤や脳梗塞はこれでわかります)。しかし、どの検査でも、水頭症のような脳室の形や大きさが問題となる病気の診断をつけることは困難でした。
ところがどこにでも知恵者がいるもので、「脳室に造影剤(レントゲンで写る物質)を入れてやれば、脳室の形や大きさがわかるんじゃないか?」と思いつきました。ただ、普通の造影剤を入れても、どろっとした造影剤がまんべんなく脳室に広がることは期待薄ですし、もしも吸収されなければいつまでもそこに造影剤があって次の検査の邪魔になります。ところが必要は発明の母、「空気を入れたらいいじゃないか」と思いついた人がいたのです。空気は隅々まで素直に広がるし、脳室の脈絡叢から吸収されます。しかも軽いから立っていたら自然に上に向かってくれます(水より重い造影剤を腰から脳に上げるには、逆立ちをしなくちゃいけません)
「空気は陰性の造影剤」とは、医学生経験者ならおそらく1回は聞いたことがあることばのはずです。普通の造影剤は骨と同じように強く白く目立って写ります。ところが空気は陰々と黒く写るので「陰性」です。たとえば胸のレントゲンでは、真ん中やや左よりの心臓は白っぽく、背骨や肋骨はもっと白く、そして空気をたっぷり含んだ肺は黒く写ります。
テクニックは簡単で、脊椎麻酔の要領で背中から針を刺して脊髄液の逆流を確かめ、そこから空気をぎゅっと押し込むだけです。あとは体を立てておけば、空気はぶくぶくと上に向かい、中脳水道や第3脳室を過ぎて最終的には側脳室に流れ込んでその部屋の形に貯まります。そこを狙ってX線をかけたら、あーら不思議、頭の中に微妙な空気の塊が撮影できます。これを「気脳写」と呼びます。
もちろん完璧に脳室を写すことはできません(脳脊髄液を大量に抜いて空気に置き換えたら……最低とんでもない頭痛とめまいが生じることでしょう)が、脳室の奇形・脳室の変形や拡大・脳脊髄液の流れの遮断(たとえば脊髄腫瘍)などの見当をつけることができます。
リスクは感染ですね。針を刺して異物を入れる処置は、どんなものでも感染の可能性がありますが、ここでは脳脊髄膜炎に直結するので、あまり気楽にやりたい検査ではありません。でも他に手段がない時代には、脳の立体構造を把握できる非常に良い検査でした。
長い前振りでしたが、本題はここからです。
空気が陰性の造影剤であるのは、脳だけではありません。たとえば先ほど胸のことを書きましたが、腹でも「腹のガス(つまりはおならのもと)」が“造影剤”として使えます。普通のレントゲン写真では腹の中の腸はきちんと写りませんが、その中のガスの分布をたどることで腸の位置や流れをある程度読み取ることができるのです。腸閉塞もこのガスと腸にたまった液のコントラストで診断をつけることができます。
大腸ガンは、早期の場合は小さな潰瘍やポリープ(少し太めのエノキダケのような感じの出っ張り)ですが、進行すると大腸の回りぐるりにちょうど短いちくわをはめ込んだような形になります。そういった人に注腸検査(肛門からバリウム(これも造影剤です)を注入して腸の内側に塗りつけて撮影する検査)をすると、ガンの所がまるできれいにかじったリンゴの芯のような形として撮影できます。(本日の記事のタイトル、そろそろみなさん忘れていたんじゃないです? 前振りのところで終わるのなら死語シリーズ「気脳写」ですが、今日は死語シリーズを書きたい気分じゃなかったのです)
昭和の昔、外来で、最近お腹の調子が変、と訴える初診の患者さん。話を聞いても見当がつかなかったので私は血液・尿・便検査とお腹のレントゲンをオーダーしました。現像がすんだ写真を丹念に見ていて私は目が点になりました。触診で左上腹部にちょっとだけころっとした手応えを感じてそれが気になっていたのですが、ちょうどその場所の大腸の一部にガスが貯留していて、それがまるで「リンゴの芯」だったのです。
そばにいた若い医者に見せたら信じてくれませんでした。「きっとくっついた便とガスが混じってそう見えているんだ」と言うのです。まあこれは議論しても仕方ないことなので、私は迷わず注腸検査をオーダーしました(大腸内視鏡は予約が詰まっていたものですから)。結果はやはりきれいな「リンゴの芯」でした。
たとえば診療所レベルの機材で、使えるものが自分の手と単純レントゲンだけだとしても、運と見る目があればガンの診断がすぐにできることもある、というのを、以来私は大きな教訓としています。もし家業が医者だったら、家訓にしたかもしれません。
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