「母性」が存在するかどうかを証明するために人はいろいろな“リトマス試験紙”を用います。有名なアイテムとしては、たとえば紙おむつ、あるいはたとえば母乳。「紙おむつを使うなんて、子育ての手を抜いている。愛情がない証拠」とか「人工ミルクを飲ませるなんて……」ということばを聞いたことのある人は多いはずです。
さて、今から四〜五十年前には、「母乳なんて“時代遅れのもの”ではなくて、科学的な人工ミルクで“よい子”を育てましょう」という意見が優勢でした。「○○が配合してあるから、母乳よりも頭のよい子が育つ」とか「牛をあんなに大きく育てるミルクがベースなんだから、人間の体も大きく育つ」なんてまことしやかなことばがあちこちで言われていました(年配の保健婦さんから、実際にそのような感じで指導していた、と(後悔の念とともに)聞かされたことがあります)。「ありえねえ」と思わずつぶやきたくなります。森永ヒ素ミルク事件が起きた頃のお話です。
ところが、二十年くらい前からですかね、まるで過去への反動のように、母乳神話が優勢となりました。「目を合わせながらの授乳で、子どもは愛情を感じながら育つ」「ほ乳瓶を咥えさせたままで放置するなんて、信じられない」なんて意見も見た覚えがあります。
※歴史の中には「やんごとなきお方が自ら子育てするなんて非常識。育児は乳母がするべき」が常識だったこともあります。その常識の根拠はよくわかりませんが。
……なんと言いますか……皆さん大きな声で自説を語られるのは結構ですが、エビデンスはあるのかなあ、というのが私の正直な感想です。エビデンス無しの強い主張は、つまりは信仰告白かイデオロギーですが、子育てにそういったものを持ち込むのは結局しわ寄せが子どもに行っちゃいません?(“信念”を語ることで恍惚となっている人には、私のことばは耳の奥まで届かないでしょうけれど)
それと、たとえば母乳絶対をあまりに言うと、母乳が不足気味の人を不必要に苦しめることになりませんかねえ。出ない母乳を出すことに熱中したりそういった人を責めるのに熱心であるよりも、足りなければ足りない分をどうやって補ってしかもそこに「愛情」をどうやってプラスするかの工夫や助言をした方がポジティブな態度だと思うんですが(「人工ミルクの方が愛情が不足する」が正しいのなら、ですが)。
(昔から私が「うさんくさい意見」の判定に用いているのは「声のうるささ」と「自分とは異なる意見を持つ相手に対する感情的な攻撃」です。自分が本当に正しいのなら、声を大にする必要はないし、相手を論破するのならともかく感情的に悪口を言う必要は無いでしょう?)
子育てに関して言えば、母数が大きいのですから統計処理をしたら簡単にその「信念」が真か偽かは判定できるはずです(それがすなわち主張のエビデンスになります)。全人類を対象に、おむつだったら「布おむつ集団」と「紙おむつ集団」に、ミルクだったら「母乳」「混合」「人工ミルク」に集団を分けて、「子ども時代によい子だったか(問題を起こさなかったか・成績はどうか・回りから慕われていたか、など)」「大人になって問題を起こさなかったか・個人としてどのくらい優秀か・社会にどのくらい貢献したか」などで比較して判定したら良いことです。簡単でしょ?
ただ、人間というのはたった一つの要素で育つものではありませんから、もし有意の差があるとしても、おそらく多変量解析が必要になるだろう、というのが私の予想です。「○○絶対主義者(○○だけは単独で絶対に正しい)」には絶対容認できない意見でしょうけれどね。
固定リンク
|
コメント (0)
|
トラックバック (5)