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 「魔女狩り」に関して、たとえばよく一般で言われる「暗黒時代の中世に行われた」「カソリック世界の出来事」は誤解で「近代以降の方が激しい」「プロテスタントの世界でも行われた」が正解だそうです。さらに言うなら「魔女」も間違いで、男も狩られています。

 ただ、キリスト教世界でおこなわれたことは確かです。古代〜中世に、民族伝承などとけっこう共存できていたキリスト教です(日本人にわかりやすいところではクリスマスなんか、本当に見事に異教の風習を取り入れていますね。また、思想的にキリスト教とは全く相容れないギリシア哲学とさえ共存しようとしてスコラ哲学という苦し紛れの手を使ったりしています)が、なぜか近代に入って態度が厳しくなります。宗教改革や世俗政権の興隆によって「キリスト教の絶対性」が揺らいできたことが影響しているのか、とも思いますが、ともかく魔女狩りの炎が激しく燃えさかったのは西洋世界に光がもたらされたはずのルネサンス以降です。
 「南京虐殺」と同じく、殺された人の数には説によってものすごい幅がありますが(「死んだ人、手を挙げて」で列を作っての点呼が取れないからこれは仕方ないでしょう)、「魔女」とされた(殺された)人が数万人ではきかない数であることは間違いなさそうです。

 で、「お前は魔女だ」と有罪にするための手口があざといのです。
 手っ取り早いのは拷問です。「拷問をやめて欲しければ白状しろ」。で、白状しなければ「魔女のくせに強情だ」と延々と拷問が続きます。下手すると死ぬまで。
 次は証拠や証人。「そういえば夜中にこそこそ出歩いていたのを見たことがあるような気がする」と誰か言えば有罪です。でっち上げ証人を使う手もあります。家畜が病気になったり天災がくるのも立派な“証拠”です。
 もっと“科学的”な手法も使われました。たとえば裸にしてどこかにほくろやシミがあったら「まさしくこれこそ魔女の印だ」と言い立てます(人間の皮膚、どこかにシミの一つくらいあるでしょうに)。魔女の印には痛覚が無く刺しても出血しない、ということで針を刺しまくる(拷問ではなくて)検査が行われましたが(なぜか毛を剃った陰部に魔女の印を探すのが、当時の皆さんのお気に入りでした)、中には木の柄の中にバネ仕掛けで針が引っ込むという“道具”を使ったこともあるそうです。

 ここで重要なのは「本当に魔女というものが存在するのか」「もし存在するとして、それは人類に有害なのか」を問うことなく、「魔女は存在する」「神に反するその存在は許されない」「したがって魔女は殺さなければならない」という前提で行動すると、人は「探したのに見つからない。おかしい。これは自分の探し方が悪いに違いない」と思って見つかるまで探す(どうしても見つけたい場合にはでっちあげる)行為を行ってしまう、ということです。さらに「せっかく見つけた魔女」を無罪にするわけにはいきません。「前提」があり「過程」があれば、当然「結果」は前二者と整合性がとれなければならないのです。「魔女が存在し社会に害を為している」という前提で魔女を捜索したら発見でき、それは社会から排除された。はい、ちゃんと(机上では)論理が通っています。しかもその行動は「社会を守る」「キリスト教を守る」という二重の「正義」によって裏打ちされているから、皆胸を張って堂々と行えるのです(ついでに、その「魔女」の財産は没収できるので、実利もあります)。

 つまり、「絶対問い返してはならない前提に基づく結論」が先にある場合、人の熱意と創意工夫は果てしが無く、裁判の結果も含めて「現実」を自分たちが望むように改変(あるいは創造)することができるのです。これが歴史の教訓です。

 当時の人びとは決して愚鈍でも悪意を持った人間でもありません。動機こそ「感情」ではありますが、善意に基づいて社会と信仰を守ろうとし、“論理的”に行動していたのです。問題は、「前提は本当に正しいのか?」と集団に流されずに立ち止まって考え発言する勇気と論理が不足していたことでしょう。(ついでに言うと、魔女は悪魔の手先とされました。神に対抗して存在する悪魔がその手先を神ならぬ人間ごときに簡単に発見されるようにずさんな偽装で放置するかな、と思いますが、それは「悪い奴は頭が悪いからすぐぼろが出るのだ」で皆さん納得されていたようです。私がもし悪魔だったら、公開されている「魔女発見マニュアル」を逆手に取ることを絶対考えますけどねえ)

 繰り返しますが、これは「暗黒の中世」ではなくて「光り輝く近代」のお話です。


 私はここで医療事故裁判を意識しています。
 医者は魔女ではありませんが、今の社会にもかつての魔女狩りと同様の原理で動いている人がいるように思えるのです。
 「大前提」は「治療は全て成功するべきである」「病院で人が死んだり障害者となったら、それは医者のミスの結果である」「ミスをする人間は罰せられなければならない」。すべてはそこを出発点として展開されます。で、「過程」は「ミスがない? そんなばかな。探し方が悪かったに違いない。結果が悪かった以上、誰か悪い奴が絶対に存在している」であり、「結果」は「魔女は縛り首」じゃなくて「悪い医者は有罪」……魔女狩りとみごとに対応していますね。というか「“現実”よりも“大前提”の方が重要」でスタートしたら、その大前提の中身が何であれ、経過と結果は似たことになるのです。

 だけど今は近代的な文明開化後の世界です。現実とは無関係に自分が望む結果(悪い医者を有罪にしてやる!)を得るためだったら、拷問のかわりに社会的制裁を加え、あり得ない前提(人は死んではならない、など)を設定し、奇妙な論理展開を駆使し、時には「無罪だけど賠償はしろ」なんてことまで主張する……なんてことはしていないですよね? もししていたら「魔女狩りをやっていたのは過去の西洋の遅れた人たち」なんてことは言えなくなります。むしろ、過去の歴史から学んでいない分、現代日本人の方が遅れている(進歩していない)と言われかねません。
 我々は昔の人間よりは少しは進歩していますよね? 感情に溺れるだけではなくて、少しは論理を働かせることもできますよね?


 話を一般化して少しずらします。
 医療裁判に限らず最近の裁判に対する厳罰期待度の高さを見ていると、もしかしたら、たとえば漠然とした社会不安に対する感情的な動き(つまりは「むしゃくしゃ」)が個別に噴出している(医療裁判はその一端)、とも考えることも可能でしょう。だけど、感情に駆られて暴発しても、不安の払拭はできません。それは自分の心の中からにじみ出てくるものなのですから。で、そういった感情的な動きをしている人に対して個別対応しても、これまた“解決”にはならないのでしょう。社会というシステムに影響を与えるか、さもなければ「“魔女”は本当に存在するのか?」と考える人を増やさないと、何かが変わることは期待薄でしょう。



※ブログ「筍耳鼻科医の呟き」の記事「刑事事件と被害者感情」につけたコメントに「魔女狩り」と書いて、そこから連想が膨らんでここまでの長さになったので、こちらに投稿しました。



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