昔々の思い出話で本日は始まります。
大学の整形外科の授業で教師が授業中の余談としてこんなことを話してくれたのを私は覚えています。「身体障害者に年金を給付して家に閉じ込める、は下策だ。本人の意欲を下げるだけではない。社会的にも金銭的な負担になる。給付する金だけの問題ではなくて、世話する人間の経費もかかる。むしろその人の自立を援助し社会に出て仕事ができるようにしたら、まず生活に張りが出る。それに、自分の生活費を稼いでくれたらそのぶん福祉の金が浮く。さらに収入が一定以上になったらその人が所得税を払ってくれる。社会がその人にお金を払うのではなくて、その人が社会にお金を払ってくれるわけだ。これは社会にとっても得なことだろう」。つまり社会保障でお金を出すにしても「面倒を見てやる」ではなくて「投資」として使え、ということです。もちろんそのためには(バリアフリーへの改造など)社会のインフラなどへの投資もさらに必要です。しかしその“見返り”は、経済だけに限定しても、大きなものになることが期待できます。(「障害者が暮らしやすい社会は、健常者も暮らしやすい」ということばがまだ広く言われるようになる前のお話です)
で、実態はどうでしょう。
街の中を見たら、たとえば駅にエレベーターが設置されるようになりました。以前より車椅子でもプラットホームまで行きやすくなってきています。ではそれで下半身不随の人が鉄道を使ってどこにでも行けますか?(「行ける」と断言する人は、実際に車椅子に乗って、知らない駅まで行ってそこからさらに別の知らない駅の外にまで簡単に行けるかどうか、試してみてください。ぜひ)
歩道には点字プレートが埋められ、券売機やエレベーターには点字表示がつけられるようになりました。では視力障害者がどこにでも行けるようになったでしょうか?(「なった」と言う人は目隠しをして……以下ほぼ同文) 歩道に乱雑に置かれた自転車にぶつかるか、急ぐ人に突き飛ばされるか、券売機でもどこに点字表示があるかわからなくて困る(あるいはタッチパネルが使えない)、がオチであると私は思っていますが、これは間違いですよね?ね?
ついでですが、歩道に埋められた点字プレートは、車椅子の人や片麻痺で杖をついて歩いている人にとって相性がよいものだと思いますか?(「思う」と断言する人は……以下ほぼ同文)
街に配置されてきた「部品」だけ見たら、一見たしかに「障害者のために」なっているように見えます。あくまで一見、ですが。しかし、それはかつて教師が私に話した「障害者には金を出しておけば良いんだろ」の発想と同根です。「車椅子使用者にはエレベーターがあれば良いんだろ」「視力障害者には点字プレートがあれば良いんだろ」ですから。問題は「それがきちんと使える(社会の中で機能している)ものか」です。健常者の私からでさえも、とても使いにくいものに見えるんですけどねえ。
どうして使いにくいか。結局「投資」の概念がないからでしょう。「金」が「モノ」に変わっただけで、まだ「施し」の発想でしかないから。
また「障害者とどう付き合うかの社会としてのコンセンサス」がないために「部分の最適化」(「障害者の一部分」と「社会の一部分」とのマッチング)だけに夢中になっているのも原因の一つでしょう。(ここで社会を管理している“公僕”の視野の広さについて論じるのはやめておきます。時間がもったいない)
別に声に出しての答えは求めませんが、あなたが身体障害を持たないものとしてちょっと質問をしますから考えてみてください。
1)あなたには身近に身体障害者がいますか? その人たちはこの社会で暮らしやすそうですか?
2)あなたが将来事故や病気で身体が不自由になった時、この社会は暮らやすいと思いますか?
※1 冒頭の教師のことばに単なる経済効果以外の意味がこめられていることを私が実感したのは、自分が足を痛めてギプスを巻き松葉杖生活をしたときのことです。しょせん一時的な“障害者”体験ではありましたが、多くのことを感じ学びました。健常人でも障害者と同じ立場に身を置く可能性は常にあります。ちょっと大げさな言い方になりますが、そのとき社会が「私」を拒絶するのか受け入れるのかが重要であること、もし拒絶されたら不便以前にそれによって「私という存在」の意味が揺らぐことが身をもってわかったのです。(最後の文章はわかりにくいですね。実は意図してそう書いています。わかりやすいことばで簡単にわかった気になって欲しくないものですから)
※2 「障害者自立支援法」は、口では障害者の自立を支援することを謳いながら実際にやっていることは政府の財政を支援することにだけ熱心な法律に見えます。もちろん何をするにもコスト意識を持つことは大切ですが、本当にとことんコストを追及するのなら、単に表面的で部分的な収支の算盤をはじくだけではなくて、「その法律」によって自立できるようになった人間がどのくらい増えてさらにその何パーセントがたとえば所得税を納めることができるようになったか(ちゃんと自立できたか)、まで追跡調査をして最終評価をするべきでしょう。(ついでですが、障害者に納税を求めるのだったら、当然、健常者にも納税を求めなければなりませんね。もちろん「自立」の手だてを講じて、ですが)
そういった努力をしないのだったら、日本は「法治国家」ではなくて官僚や政治家が言いっぱなしやりっぱなしの「放置国家」です。
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要支援でデイサービスの御世話になるうちの高齢者の周囲には、高齢1級障害の方がいくらでもいらっしゃいます。
多いのはペースメーカー・透析・ストマの順ですが、歩行器無しでは歩けないうちの健常(障害・介護認定無しです。)高齢者よりも遙にピンピン!とても活動的で、常時フィールドゴルフなどを楽しまれています。
一般の目に触れ易いのは、このような比較的恵まれた重度障害者で、こういった一部に限れば、ある意味で活動能力が低下した健常者よりも有利といえましょう。
>2)あなたが将来事故や病気で身体が不自由になった時、この社会は暮らやすいと思いますか?
本邦では、身体が不自由で真に生活能力の低下した者が障害認定を受けられる訳ではありません。(単に受けられれば良しというものでもありませんが‥)
2)の問に対して、特に若年(60歳以下)の場合は、以下の理由で国際的に見ても非情に厳しい社会だと思います。
A・事故や病気で働けなくなった場合の継続的基礎保障が受けにくい。
B・働く機能が残存している場合においても、それを活用できる就労の場が極めて少ない。(Bの場合は、金銭援助よりも生活可能な収入を得られる器を要しますが、金銭補助・労働の場の提供のどちらも与えられないケースがあまりに多い現状です。)
C・生活保護以前のセーフティネットが実際には整備されておらず、生活保護の認定も年々厳しく(要戦略?)なっている。
その他に、怪我や病気がある程度治癒しても、雇用者側のリスク回避で一般就労・正規雇用が難しく、仮に採用されても不利や偏見がつきまとうなどの問題もあると思います。
日本の障害福祉はもともと遅れた分野でした。病気や怪我は誰にいつ起るか判らないので、少しずつでも整備(必要な所に届かず、必要の薄い部分に手厚いと云われる分布の配慮)されることを期待していましたが、社会保障費抑制のあおり(?)でますます混乱しているように見えるのが何とも残念です。
「障害者の姿」って、見えている人には日常の風景なのですが、興味のない人には「え、いたの?」でしょう。それをせめて「見える」ようにしたい(議論などはその後)、が私の願いです。
しかし「非情に厳しい社会」とは……最初は変換ミスだと思いましたが、よくよく見たら非常に適切な表現ですね。そのうちどこかで使っても良いですか?
コメントありがとうございます。
今の制度のままでは、本当の重度障害者や障害枠外の病者の実態・問題が隠され、それを良いことに、見えない部分の福祉を重点的にカット。見える部分限定で多額の予算が(しかも当事者とは別の所に)つぎ込まれそうな気配を感じます。
医療・福祉で隠れた部分はカットの発想も分らなくはないですが、見えない存在になった時こそ援助が欲しいと思うのが一般の被保険者ではないでしょうか?
「ぎりぎりまで頑張るけれど、最後は助けてね」の考えが一番日本的で綺麗だと思っていましたが、何か最近は違ってきたように思います。
> しかし「非情に厳しい社会」とは……
ご指摘ありがとうございます。いつもながらのテレビを見ながら・話ながらの書き込みによる単純ミスです。
エントリーの死語シリーズの次は誤字シリーズでしょうか?
恥ずかしいので、せめて「非情で厳しい社会」とかに訂正してお使い頂ければ嬉しいです。
個人的には、絶妙のダブルミーニングに見えてウけていたものですから、嬉しくなって書いちゃったのです。
誤字シリーズをやる気はありませんが、ことばについてはいくつか書きたいネタを持っています。ネタが芽を出したら書いてみますが……こちらのシリーズ化はちょっと難しそうです(^_^;)。
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