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 実は完全に死語ではありません。少し前にはマスコミなどでけっこう使われていました。ただその用法はたとえば「医は仁術と言われるのに最近の医者はそれを忘れ……」と医者の悪口を言うためのまくらことばとしてでした。しかし最近は、そういった用法でさえこのことばは使われなくなってきたようです。皮肉としてさえ用いられなくなってしまうとは、いよいよ世も末なのでしょうか。


 そもそも「仁」とは何でしょう。
 国語辞典には「他人に対する思いやり」とか「いつくしみ」という意味が載っています。それではどうも漠然としている(特に「術」と結合するわけがわからない)ので、基本を知るためにちょっと過去を振り返ってみましょう。
 儒学では「仁」が重んじられました。今から2500年くらい前、中国全土が戦乱で荒れ放題だった春秋戦国時代を時代背景として出現した孔子が、他者への思いやりである「仁」をキャッチコピーに掲げたのは、当時の人には衝撃だったことでしょう(力によるローマ帝国支配下のユダヤでキリストが「愛」を掲げたのを私は連想します)。孔子が行なったことが、純粋な理念の提示だったのかあるいは人の意表を突いて儒学を売り込むためのマーケティング戦略の行動だったのかは私には判断できませんが、ともかくこの「仁」は歴史の中でぴかりと輝いているように見えます。「敵がいるから戦って勝てば良いんだ」で終始していたら、結局人類の進歩も調和も社会の改善も望めませんよね? 人が動物と異なる点の一つは「理念」を持つことが可能な点です。(もしかしたら哺乳類も爬虫類も昆虫も「理念」を持っているのかもしれませんが、いまのところ私のもとにその知らせは届いていません。逆に、人の形をしていても理念のカケラも持っていない輩もいるでしょうが、それは「例外」とするか、「人の形をしたナニモノカ」と分類するのが適当でしょう)
 ただ「仁」と言われただけでは人は具体的な行動として何をして良いのかわかりません。そこで孔子が示したのが「礼」でした。心は仁、その発露としての行動が礼です。この発想もわかりやすいと私は思います。「仁」は見えません。でも「礼」は見えますからそれを見ることで心に仁があるかどうかを外から判定しようというわけです。(もちろん「仁」と「礼」の結びつきは、「必然」ではなくて「恣意的」です。そういえば慇懃無礼なんてのもありますね(笑))

 話を戻します。
 「医」と「仁」に関して私が持っている疑問を箇条書きにしてみます。
1)現在の医は仁術ではないとして、そもそも過去に医が仁術だった時代はあるのか?
 社会的な制度としての医療が日本で始まったのは律令時代です。したがって「医は仁術」の時代が日本にあるとしたら、それ以降のはず。で、質問です。そういった時代(「仁を欠いている」と非難される現代医療が“お手本”とするべき時代)は何時代ですか?(こう言うとすぐに「赤ひげ」を持ち出す人がいるのですが、フィクションとか一例ではなくて「制度としての医と社会の関係」で考えてください。そもそもここで論じているのは、「医は仁術」であって「医者は仁者」ではないのですから)

2)この社会では「仁」は生きているのか?
 もしもこの社会が「仁」で満たされていて、なぜか「医」だけ仁を欠いているのなら、それは大問題です。この世の医は“欠陥商品”ということになります。しかし、この資本主義社会(のふりをした社会主義社会)がもしも「仁」を欠いているものなら、それはそのまま医に反映されてしまうでしょう。これまでにも何回か言ったかもしれませんが、医は社会の“中”に所属するものですから、当然「社会の縮図」になってしまうのです。もしも医の外側の人間が「自分たちは仁を欠いている。しかしお前たちは仁を持つべきだ」と要求したなら、それはダブルスタンダードの無い物ねだりです。だって「医の人間」は「社会」から供給されるのですから。(ただし、個人的には、「社会」がどんなに非情なものであろうと、「仁」を欠く人間は、医者どころか、社会的存在である人間をやる資格はないとは思っています。あくまで個人的に思っているだけですが)

3)医は仁術だとして、儒学での(「仁」に対する)「礼」に相当するものが医学に存在するのか?
 これについても具体的に示すことが可能でしょう。たとえば「外来診療は5分以上」とか(ここは笑うところです)。
 で、どんなものが現代の医に行動として見られたら(見られなかったら)、「現代の医は仁術である(仁術ではない)」と判定できるでしょうか。「仁」は目に見えません。それがあるかないかを判断するには目に見えるものを手がかりにするしかないはずです。

 以前ラジオを聞いていたら「昔は人情があったのに今では……」という話をやっていました。どんなことかと耳を澄ますと「昔のスキー場では、リフトの回数券にパンチを入れるのに、顔なじみになるとおじさんが『あ、いいよ』とパンチを入れずにフリーで乗せてくれることがよくあった。だが最近では世知辛くなってきっちりお金を払わないといけない。ああ、昔は人情があった」でした。
 「結局、人情人情と言っても銭のことか」と私はげんなりしたのですが、この人にとっては目に見えない「人情」を具体的に示すモノが「小銭(を得すること)」だったわけです。ではそういった人にとって「仁」の表現形は一体なんでしょうねえ。大銭? そういえば医者が薬袋に小判を入れて渡した、なんてお話もありましたね。あれも「人情」話かな? それとも銭(厳密には小判)の話?


 ……そうそう、患者対応の態度とか口の利き方は、これは「愛想」(または愛敬)であって「仁」ではないと私は考えます。仁と愛想の結びつきも恣意的なものであって、愛想があるから仁があるとは即断できません(よく似た話で、「異性に対する愛想の良さ」が「優しさ」や「愛」と混同される例もよくありますね)。もちろん、巧言令色の人がそんなにお好きなら、それを止めはしませんが。


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