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2008.07.31 06:54 |  診療  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 3

 聴診器のニコイチ

 愛用の聴診器が壊れました。お気に入りだったのでショックです。患者さんに当てる部分の「メンブレン」と呼ぶ、膜を張ってある方のその膜を固定しているプラスチックの円環状の部品が割れてしまったのです。「あ〜あ」とつぶやいてしばらく眺めていましたが、自力で直ってくれる気配はありません。しかたなくセロテープで仮固定でもしていようか、と思いましたが、あいにくテープが手元にありませぬ。
 ふと、一昨年壊れた別の聴診器のことを思い出しました。こちらは耳にねじ込む柔らかいプラスチック製のイヤピースが割れてしまって、換えの部品がとりあえず手元に見つからなかったのでそのままロッカーにぶら下げていたのです。種類は違いますが、どちらもリットマンという同じ会社の製品です。
 「もしかしたら」と並べてみると……メンブレンの部分のサイズがまったく同じです。
 早速一昨年壊れた方からわっかをむしり取って、最近壊れた方にはめてみました。“移植”は成功裡に終わりました。

 めでたしめでたし。

(「問屋から部品を買え」って? そんな簡単な解決方法では面白くないじゃないですか。ブログのネタにもなりませんし)


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 ニュースによると、「新型インフルエンザ対策の企業版」を厚労省が策定中だそうです。4割の従業員が長期間欠勤することに対応しろ、だそそうな。だけど、その記事を素直に読んでいると、「企業」の中に「医療機関」が入っていないことに気がつきました。
 ある企業で10の仕事を10人でやってたとしましょう。一般企業で4割欠勤すると、10の仕事を6人ですることになります。これは大変です。しかし新型インフルエンザが流行して4割が欠勤するパンデミックの事態では、医療機関では6人に減った人間で10の仕事ではなくて40とか60の仕事をしなければならなくなります(この計算、数字の正確性はともかく、理屈の説明は不要ですよね?)。そのことを厚労省は考えているのかな?

 ということは、厚生労働省は……
1)医療従事者は病気にならないと思っている
2)医療従事者は病気になってもあるいは死んでも働けると思っている
3)医療従事者は1日に48時間働けると思っている
4)医療機関のことは忘れていた
5)何とかなると楽観的に思っている
6)「縁起でもない」から、考えたくない
7)実は奥の手がある

 「正解」が7)であることを、切に願います。


 厚労省のサイトに、平成19年3月26日新型インフルエンザ専門家会議による「医療体制に関するガイドライン」があります。たぶんこれが上記のニュースで触れられたことを取り入れて改訂されるのでしょう。で、これを読むと、国民は粛々と発熱外来を受診しあるいは家で静かにしていることを求められているようですが、さてさて、そんなに上手くいきますかね? それができる人ばかりなら、夜中の救急外来が軽症患者でパンクする、なんて事態は最初から起きないようにも思うのですが。それに、高熱に浮かされたモンスターはもっと凶暴化したりしませんか?
 そうそう、このガイドラインでは別に気になったところがあります。「9.医療施設におけるライフライン 」で「○ パンデミック発生により社会機能が低下した事態においても、医療施設は必要な入院機能を継続するために、電気、水、食料等のライフラインを確保する。都道府県等は、これらのライフライン確保を支援する。」とあります。ライフラインを確保するのは病院の責務、ということのようですが、停電したらどうやって病院が電気を確保します? 私がすぐ思い出すのは、かつて台風19号であちこち停電したことですが、そのとき病院の自家発電の燃料は次々切れてしまいましたが、業者は交通渋滞と多すぎる注文によって配達の手が回らず、多くの病院では電気が使えない状態が長く続きました(そもそも自家発電では病院全体に電気は供給できません)。水も、井戸を掘っているところはまだ良いのですが、それも電気あってのことです。それを「医療施設は……確保する」ですましちゃって、本当に良いの? 県だって困りません? 病院だけでも対応するのは大変でしょうが、「支援」を求めるのは病院だけではないでしょう。てんてこ舞いになるのは目に見えています。すべて対応できるだけのリソースが県にあるでしょうか。しかも人的資源は4割減です。

 「緊急事態に対して適切な対応マニュアルを整備しろ」と病院に要求するのは厚労省や日本医療機能評価機構ですが、“この程度”のマニュアルで良いのだったら、楽ですねえ。「緊急事態に現場スタッフは適切に対応する。管理職と病院はそれを適切に管理・支援する」で良いのですから、鼻歌まじりでちょちょいのちょいです。でも、いくらことばがなんとなく立派でも、この程度の具体性だといざというとき何の役に立たないんだよなあ。“改訂版”でもうちょっと読み応えのあるガイドラインが登場することを望みます。少なくとも、モノ(備蓄と流通)・人(特にイレギュラーな使い方)・情報(収集/処理/広報)、について具体的にきちんと押さえているものを。もし「精神的な支援」だけだったらそんなものなんか要りません。


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2008.07.30 06:50 |  診療  |  医療制度 / 行政  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 死語(39)湿布は5日まで

 「規制大好き」の厚労省は、当然のように処方日数も制限します。現在は向精神薬が規制されていて他の薬は基本的に処方日数の変な制限はありませんが、かつては内服薬・頓服薬・外用薬それぞれ別々に厳しい規制があり、それに違反したら即座に「不正請求」としてレセプト保険点数の削除という鞭がふるわれました。

 その昔ハリホットという湿布薬がありまして(今もあるかもしれません)、一袋に小さい湿布が42枚も収められていました。全身が痛い老人が両肩・腰の両側・両膝にそれぞれ貼ったら一日6枚、その1週間分(週に1回きまった曜日に受診)、という計算で作られた薬でした。ところが昭和の末期にこれを私が出すと、ある日突然レセプト審査で「12枚分過剰投与である」として支払いを削られました。当時外用薬は「5日分」しか出してはならないという規則があり「6(枚)×5(日)=30。42ー30=12。したがって12枚分は減らして処方するべきだったのに、この薬漬け医者め、罰してやる!」というわけです。
 ということは、密閉されている袋を開けて12枚抜き取って患者さんに渡して「湿布が欲しいのなら5日後にまた来てね」と言うか(でも、その抜き取った12枚、どうしたらいいです? キープしておいて次回受診時に「はい、これはあなたの分」と渡すのかな)、42枚丸ごと渡して12枚分のコストは医療機関が泣くか、どちらかを選択する必要がありました。(実際には5日ごとに来院願う方が病院は儲かります。湿布の枚数は結局同じですが、再診料を7日ごとよりもたくさん頂けますから)
 ……だけど……「42枚を袋に詰め(て販売す)る」規格は厚生省(当時)が認可したものなんですけどねえ。「42枚まとめて販売することは許す。でも処方はしてはならない」とは、どの口がそんなことを言うのか、と当時思いましたっけ。

 訂正。当時思っていた(過去形)のではなくて、現在でも思っています(現在完了進行形)。


※現在でも保険薬の湿布で一袋5枚の規格のものは、当時の規制の名残かも、と私は思っています。


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 書誌情報:『図表でみる世界の保健医療 ──OECDインディケータ(2007年版)』OECD 編著、鐘ヶ江葉子 訳、 明石書店、2008年、3000円(税別)

 OECDが出している保健医療国際比較の最新版です。2005年版については「海外からの評価」で触れましたが、最新版が出たのに気がついたのでアマゾンに注文しました。到着したばかりでまだ精読はしていませんが、とりあえずの読書感想です。

 「出生と死亡」といったわかりやすい統計データもありますが、それを加工した「早すぎる死亡」には刮目しました(というのはことばのアヤで、私は強く目をこすったらしばらくピントがおかしくなるので、眼鏡をかけ直しただけです)。これは「若年者が死んだ年齢を70歳から引いて全死亡者分を積算したもの」の比較です。日本はOECDでトップ、つまり子ども〜若年者の死亡がとっても少ないのです。さらにこの数字の変化の意味が国ごとに違うことも本文では書いてあります。「国情」というものがあるので、単純に数字だけ“読”めばよいわけではないことがわかって、面白いですよ。
 日本では良く比較される交通事故と自殺ですが……日本の交通事故の死亡率はトップから5番(人口10万対で6.6。トップのオランダは5.2。ワーストの韓国は17.7)ですが、自殺はワーストから3番(人口10万対で19.1。トップのギリシアは2.6。ちなみにワーストはここでも韓国で24.2)。
 「65歳以上人口1000人あたり病院と介護施設の介護病床数」……ため息が出ます。本文には「それぞれの施設の場で提供されるケアは、多くの場合、医療と福祉が混合されたものである」とあります。誰に何が提供されるべきかが明確です。それを分離してさらに病床数を減らす、が日本の方針でしたね(誰に何を提供したくないか、は明確です)。で、国際比較のグラフを見ると……第一グループは北欧です。そこからちょっと落ちて第二グループを形成しているのが欧米の国家群。そこからがくんと落ちて第三グループも欧州が中心ですが、日本もそこに混じっています。かろうじてイギリスよりは上ですから、胸を張っても良いのかな? でもこれから減らすんでしたよねえ。

 こういった統計データの場合、国際比較も重要ですが、時間軸に沿っての比較も重要です。「その国」が過去から現在へどう変わってきたかを見たら、将来どうなるか、もある程度予想できます。
 OECDで本書を編集している人もそれは考えているのでしょう、2005年版と少し変わったところがあります。「臨床医の数」のところで、日本の医師数が下から4番目なのは2005年版と同じですが、その右にある年平均増加率のグラフが「1975〜90年」(A)と「90〜2005年」(B)の二つの時期が比較できるようになっています(この比較は2005年版にはありませんでした)。日本は(A)が2.9%(B)は1.2%です。みごとな激減ぶりです(日本の「医師不足」は自然現象ではなくてどなたかの意図的な努力の結果であることがわかるような気がします)。ただ、日本より下の国の(B)を見ると、メキシコが4.0、韓国は4.7、最下位トルコは3.7です。抜かれるのは時間の問題ですな。上を見ると、日本のすぐ上のポーランドの(B)は0.0なのでこれは抜けそうです。その上のニュージーランドは1.1。ほとんど差がないので抜くのは難しそう。その上のカナダは0.3。なんとかなりそうです。で、それより上は……えっとぉ……なんだかこのへんかもうちょい下が日本の“定位置”みたいです。(「産経と朝日(厚労省)のパラドックス」をしつこく思い出します)

 2005年版の感想でも書きましたが、「日本の医療」について「ぐろーばるすたんだーど」などと口走る可能性のある人は、最低この本(の図表)くらいは目を通しておいた方が良いです。「学ぶ」つもりがなくても「楽しむ」ことができることは請け合います。

 ただ気になるのは、日本が提供しているデータの精度です。わかりやすいところで医師数なんか、絶対「現実」とは乖離していると思うんですけれど。自分の国の政府が信用できないとは、国民として不幸なことだと思いますが、でも、厚労省が根拠にしている医師のリスト、どこまで信用できるのか、と思ってしまうんです。年金名簿さえちゃんと管理できなかったお役所ですからねえ、「どっかと座り込んで書類を見つめているだけで、重い腰を上げて勤務実態調査はしていない(やってもせいぜい郵便か電子メールか電話まで)」に先月のお小遣いくらいなら賭けても良いです……って、この賭け、受ける人はいないでしょうね。あ、そもそも、パソコンのローン返済で、先月は(先月も)お小遣いは無かったんだ。


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 「人事を尽くして天命を待つ」と言いますが、天命は非情です。人間の都合を考えてはくれません。医療の現場で私たちは常にそういった状況に直面させられます。「人事は尽くした。助かるかどうかはもう祈るしかない」という状況に。あるいは……「祈ってももう無駄だろう」と苦汁とともに認識せざるを得ない状況に。
 「絶体絶命の状態から助かった」になるために必要なのは、奇跡か魔法です。奇跡を起こすのは聖人ですが医者は聖人ではありません。それに、たとえ聖人でも毎日奇跡を起こすことはありません。となると、現代医学では命を救うことが不可能な状況で医者が期待されるのは「魔法を使うこと」になります。

 「高度に発達した科学は、魔法と区別がつかない」はA・C・クラークの有名なことばですが、今の医療に詳しくない人にとっての医学は実は魔法と同じ領域のものなのかもしれません(基礎知識もなく過程も全然理解できず、ただ結果だけが突きつけられる)。だから「人は死なない。病院に運べば必ず助かる」なんて魔術的な前提も平気で受け入れられてしまうのかもしれません(あるいは、実はそう信じていなくても、先の大戦での「神風が吹く」「この非国民め」と同じで、信じているフリをした方が有利に日常を過ごせるという計算による行動かもしれませんが)。
 とにかく、「死にかけていても、魔法でちょちょいと助けてくれよ。できるんだろ?」です。
 だから「たらい回し」は許されません。「どこでも良いから病院(“魔法”が使える場所)に運び込めば助かるはず」なのですから。「トリアージ」も不評です。「順番をいじくるひまがあれば、さっさと次々運び込めばいいじゃないか」です。病院で患者が死ぬなんてとんでもないことです。病院は人が助かるところで人を殺すところではないのですから。

 問題は医者が「魔女(魔法使い)」ではない、ということです。しかしそれは人びとの期待を裏切っており、「本当は魔法で人を助けることができるはずなのに、魔法が使えないフリをして、あるいは手を抜いて、あるいはミスって、助けることができなかった。魔法が使えないのが本当ならそれは魔法使いとしては論外だし、フリでも手抜きでもミスでも、どれにしても厳しく罰するべきだ」になってしまうのは論理的必然です。(「」内の論理展開はそれなりに筋が通っていますが、実は特に重要なのは「期待を裏切った」の部分でしょうね)
 「存在してはならない魔女が存在して害を為しているにちがいない」と「魔法使いが存在して助けてくれるべきだ」では、魔法に対する価値観の点でまるっきり逆の発想ですが、間違った前提に基づいて論理が進展し人びとの期待と行動をあおり立てる構造は魔女狩りも医者狩りも同じです。


 現代の医学は魔法ではありません。
 ここから話を始めなきゃいけないのでしょうか。


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2008.07.28 06:55 |  診療  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 死語(38)中気

 かつて私が受けた脳外科の授業では、脳血管障害は「脳出血・脳梗塞・クモ膜下出血」に分けられ、さらに脳梗塞は脳血栓と脳塞栓に分けられていました。(クモ膜下出血の原因は主に脳動脈瘤ですが「モヤモヤ病」なんて変わった名詞も脳の奥からもやもやと出現してきました)
 私が医学部を卒業する頃はちょうど日本でのCT普及の最初期に当たっていて、国家試験にCTの読影問題は出てこなかったと記憶しています(もし出ても、現在の精細な画像とは雲泥の差の、まるでモザイク処理でもかけたような画素の荒い、それこそ出血と梗塞の有無と大体の大きさが言える程度のものだったでしょうけれど)。

 「脳血栓/脳塞栓」の区別も今では少し変わりました。
 動脈硬化から血管が閉塞したのを脳血栓、血栓がよそ(多くは心臓)からとんできて脳の血管が閉塞したのを脳塞栓、とかつては区別していましたが、今では「脳梗塞」のサブタイプは以下のようになっています。
 1)アテローム血栓性脳梗塞  大きな動脈の動脈硬化によって血栓が出来て詰まる。
 2)心原性脳塞栓症 心房細動などで心臓にできた血栓が流れてきて詰まる。
 3)ラクナ梗塞   脳の細い(直径が0.2〜0.5mm程度の)動脈が詰まる。梗塞の大きさは大体1.5cmまで(場所によって2cmくらいになることもあります)。原因はほとんどが高血圧ですが糖尿病もあります。

 どう分類しても脳梗塞は脳梗塞だ、と思いますが、病後の治療(再発予防)が違うから分類する意味があるのです。


※自分の知識の整理のために書いてみました。私的利用でごめん……って、ブログはもともと私的に書くものでしたね。

 だけど私がある程度以上の年齢の人に説明する場合には、今でも実は「中気」や「卒中」ということばが“現役”です。だって「あなたの(ご家族の)病気は脳梗塞の後遺症です」と言っても「はあはあ、そうですか」と頷くだけで明らかに理解していない表情の人がずいぶん多いのですから。正確だけど相手にきちんと通じない言葉を使うよりも、たとえ学術的には正確ではなくても相手が確実に理解してくれる(理解したと思える)ことばを使う方がよいと私は思うので、「脳梗塞」と言って相手に通じていないと感じたら私はただちに「以前は脳卒中とか中気とか言っていた病気のことです」と言います。それを聞いた瞬間相手の表情はがらりと変わる、こともあります。そこで「脳卒中には出血とか梗塞があって……血管が詰まったら脳の細胞が死んで……」と説明をたたみかけたらなぜか理解しやすくなるようです。


 余談です。「卒中」「中気」にはどちらも「中」の字が含まれています。これは「まんなか」や「内側」ではなくて、「あたる(中る)」の意味でしょう。(「的中する」(矢が的に中(あた)る)、の中です) 「卒中」は「卒として中る」で「卒」は「突然」のこと、「中気」は「(悪い)気が中る」かな。


※そういえば心筋梗塞と脳梗塞は今では同じ字を使いますが、1980年前後にはどちらかを「硬塞」と書いていませんでした? 「心筋硬塞」だったかな? これは記憶があいまいで自信がないのですが。


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 「魔女狩り」に関して、たとえばよく一般で言われる「暗黒時代の中世に行われた」「カソリック世界の出来事」は誤解で「近代以降の方が激しい」「プロテスタントの世界でも行われた」が正解だそうです。さらに言うなら「魔女」も間違いで、男も狩られています。

 ただ、キリスト教世界でおこなわれたことは確かです。古代〜中世に、民族伝承などとけっこう共存できていたキリスト教です(日本人にわかりやすいところではクリスマスなんか、本当に見事に異教の風習を取り入れていますね。また、思想的にキリスト教とは全く相容れないギリシア哲学とさえ共存しようとしてスコラ哲学という苦し紛れの手を使ったりしています)が、なぜか近代に入って態度が厳しくなります。宗教改革や世俗政権の興隆によって「キリスト教の絶対性」が揺らいできたことが影響しているのか、とも思いますが、ともかく魔女狩りの炎が激しく燃えさかったのは西洋世界に光がもたらされたはずのルネサンス以降です。
 「南京虐殺」と同じく、殺された人の数には説によってものすごい幅がありますが(「死んだ人、手を挙げて」で列を作っての点呼が取れないからこれは仕方ないでしょう)、「魔女」とされた(殺された)人が数万人ではきかない数であることは間違いなさそうです。

 で、「お前は魔女だ」と有罪にするための手口があざといのです。
 手っ取り早いのは拷問です。「拷問をやめて欲しければ白状しろ」。で、白状しなければ「魔女のくせに強情だ」と延々と拷問が続きます。下手すると死ぬまで。
 次は証拠や証人。「そういえば夜中にこそこそ出歩いていたのを見たことがあるような気がする」と誰か言えば有罪です。でっち上げ証人を使う手もあります。家畜が病気になったり天災がくるのも立派な“証拠”です。
 もっと“科学的”な手法も使われました。たとえば裸にしてどこかにほくろやシミがあったら「まさしくこれこそ魔女の印だ」と言い立てます(人間の皮膚、どこかにシミの一つくらいあるでしょうに)。魔女の印には痛覚が無く刺しても出血しない、ということで針を刺しまくる(拷問ではなくて)検査が行われましたが(なぜか毛を剃った陰部に魔女の印を探すのが、当時の皆さんのお気に入りでした)、中には木の柄の中にバネ仕掛けで針が引っ込むという“道具”を使ったこともあるそうです。

 ここで重要なのは「本当に魔女というものが存在するのか」「もし存在するとして、それは人類に有害なのか」を問うことなく、「魔女は存在する」「神に反するその存在は許されない」「したがって魔女は殺さなければならない」という前提で行動すると、人は「探したのに見つからない。おかしい。これは自分の探し方が悪いに違いない」と思って見つかるまで探す(どうしても見つけたい場合にはでっちあげる)行為を行ってしまう、ということです。さらに「せっかく見つけた魔女」を無罪にするわけにはいきません。「前提」があり「過程」があれば、当然「結果」は前二者と整合性がとれなければならないのです。「魔女が存在し社会に害を為している」という前提で魔女を捜索したら発見でき、それは社会から排除された。はい、ちゃんと(机上では)論理が通っています。しかもその行動は「社会を守る」「キリスト教を守る」という二重の「正義」によって裏打ちされているから、皆胸を張って堂々と行えるのです(ついでに、その「魔女」の財産は没収できるので、実利もあります)。

 つまり、「絶対問い返してはならない前提に基づく結論」が先にある場合、人の熱意と創意工夫は果てしが無く、裁判の結果も含めて「現実」を自分たちが望むように改変(あるいは創造)することができるのです。これが歴史の教訓です。

 当時の人びとは決して愚鈍でも悪意を持った人間でもありません。動機こそ「感情」ではありますが、善意に基づいて社会と信仰を守ろうとし、“論理的”に行動していたのです。問題は、「前提は本当に正しいのか?」と集団に流されずに立ち止まって考え発言する勇気と論理が不足していたことでしょう。(ついでに言うと、魔女は悪魔の手先とされました。神に対抗して存在する悪魔がその手先を神ならぬ人間ごときに簡単に発見されるようにずさんな偽装で放置するかな、と思いますが、それは「悪い奴は頭が悪いからすぐぼろが出るのだ」で皆さん納得されていたようです。私がもし悪魔だったら、公開されている「魔女発見マニュアル」を逆手に取ることを絶対考えますけどねえ)

 繰り返しますが、これは「暗黒の中世」ではなくて「光り輝く近代」のお話です。


 私はここで医療事故裁判を意識しています。
 医者は魔女ではありませんが、今の社会にもかつての魔女狩りと同様の原理で動いている人がいるように思えるのです。
 「大前提」は「治療は全て成功するべきである」「病院で人が死んだり障害者となったら、それは医者のミスの結果である」「ミスをする人間は罰せられなければならない」。すべてはそこを出発点として展開されます。で、「過程」は「ミスがない? そんなばかな。探し方が悪かったに違いない。結果が悪かった以上、誰か悪い奴が絶対に存在している」であり、「結果」は「魔女は縛り首」じゃなくて「悪い医者は有罪」……魔女狩りとみごとに対応していますね。というか「“現実”よりも“大前提”の方が重要」でスタートしたら、その大前提の中身が何であれ、経過と結果は似たことになるのです。

 だけど今は近代的な文明開化後の世界です。現実とは無関係に自分が望む結果(悪い医者を有罪にしてやる!)を得るためだったら、拷問のかわりに社会的制裁を加え、あり得ない前提(人は死んではならない、など)を設定し、奇妙な論理展開を駆使し、時には「無罪だけど賠償はしろ」なんてことまで主張する……なんてことはしていないですよね? もししていたら「魔女狩りをやっていたのは過去の西洋の遅れた人たち」なんてことは言えなくなります。むしろ、過去の歴史から学んでいない分、現代日本人の方が遅れている(進歩していない)と言われかねません。
 我々は昔の人間よりは少しは進歩していますよね? 感情に溺れるだけではなくて、少しは論理を働かせることもできますよね?


 話を一般化して少しずらします。
 医療裁判に限らず最近の裁判に対する厳罰期待度の高さを見ていると、もしかしたら、たとえば漠然とした社会不安に対する感情的な動き(つまりは「むしゃくしゃ」)が個別に噴出している(医療裁判はその一端)、とも考えることも可能でしょう。だけど、感情に駆られて暴発しても、不安の払拭はできません。それは自分の心の中からにじみ出てくるものなのですから。で、そういった感情的な動きをしている人に対して個別対応しても、これまた“解決”にはならないのでしょう。社会というシステムに影響を与えるか、さもなければ「“魔女”は本当に存在するのか?」と考える人を増やさないと、何かが変わることは期待薄でしょう。



※ブログ「筍耳鼻科医の呟き」の記事「刑事事件と被害者感情」につけたコメントに「魔女狩り」と書いて、そこから連想が膨らんでここまでの長さになったので、こちらに投稿しました。



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2008.07.26 06:52 |  診療  |  生活 / くらし  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 頭シラミ

 仕事を終えて帰宅すると、なぜか子どもが洗髪中でした。なにごとかと聞くと「しらみ」。
 塾で頭が痒くなって掻いていると、仲のよい子が見て「あ、しらみだ」と一匹取ってくれたんだそうです。あらあら。(後で聞くと、その子は幼稚園の時の経験者だったそうです。医者の診断と同じですね。知らない病気の診断はつけられないけれど、知っていて経験していたら診断は早い)

 さて、「何をするか」はすでに対応を開始していますので、あと気になるのは「どこからもらったか」「だれかにうつしていないか」です。もらったルートはすぐわかりました。学校で櫛の貸し借りをやっていたそうです。早速学校に連絡を……あら、今は夏休みですね。どうしましょう。

 こちらからうつした可能性は……普段一緒に遊んでいるグループには電話連絡。我が家も全員頭チェックです。虫眼鏡片手に家内の長い髪をかき分けていると、なんだか毛繕いをしているお猿さんみたいな気分です。白いものを見つけてどきっとしますが、ふけでした。目視限定ですが、とりあえず親の方は大丈夫そうです。

 しかし、親切なことに、スミスリンシャンプーには専用のすきぐしが付属しているんですね。話には聞いていましたが、さすがに目が細かいですなあ。それで髪の毛をすくと、ちゃんとシラミが取れます。ほほー、こんなお姿なんですか。ちょっと老眼の身にはつらい大きさです。
 さて、今日は1回目ですから、これから3日に1回スミスリンでシャンプーを3回はする予定です。忘れないようにカレンダーに印をしておかなくては。

 子どもはショックを受けています。なんだか自分が「不潔な存在」になったような気分なのでしょう。「これからはきちんと頭を洗う」……って、これまできちんと毎日洗ってなかったのかい?

参考になるサイト
「頭しらみと卵の駆除対策サイト」http://head.aromalife7.com/
写真はここなんかどうでしょう。「アタマジラミ」http://www.nsknet.or.jp/katoh/wanzen.html


※ずいぶん前ですが、病棟で疥癬が出現した時に(幸いなことに最初の一人で食い止めました)、「急に体が痒くなった」と訴えるスタッフが多くいて参りましたが、昨夜は私の頭が痒くなりました(笑)。人間の心と体は、くっついているんですねえ。


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 昭和の頃の思い出です。いくつかの事例をまとめ、フィクションと記憶の変質が入っています。


 「ご臨終です」

私は静かに頭を下げました。人の生き方は様々、そして人の死に方も様々です。そしてその死を迎える家族の態度も……

「お姉さん、早速だけどあの珊瑚の帯留め、私がもらうわよ」

病室にけたたましい声が響きます。

「ええ〜、だったら帯は私のよ」

「駄目よ、帯がなかったら帯留めだけあっても仕方ないじゃないの」

「だったら指輪で我慢しなさいよ」

「お前ら、臨終の枕元だぞ。そんな形見分けの相談は後にしろよ」

「何言ってんのよ、お兄ちゃん。昨夜はちゃっかり遺産の計算してニコニコしていたくせに」



 私はさっさと部屋から退散することにしました。入院したときにこの患者αさんがハンドバッグを大切そうに抱えて誰にも触らせなかったわけが分かるような気がします。そのバッグも今開けられて中から貯金通帳が取り出されています。「ちぇっ、8桁なかったか。でもやっぱりしっかり貯めてたな」そんなせりふも耳に入ってしまいました。聞きたくもなかったのですが。

 生者に対してというより死者に対する礼儀として部屋の出口で黙礼をした私は、喧噪の外側、病室の隅にぐったりと坐っている人を見つけました。αさんの長男のお嫁さんです。本当に疲れ切った風です。それはそうでしょう。入院以来毎日病室に通って本当に熱心にαさんの世話をしていたのは彼女だけです。他の、今あさましく枕元で形見分けの争奪戦を行なっている実子たちが何度も病院から電話をした結果やっと顔を見せたのは、αさんが亡くなる前日になってからで、それでも「まだ生きているじゃないか。なんで死ぬ五分前に呼んでくれないんだ。それだったら死に目にもあえるしこちらの時間も無駄にならずにすむ」と不平タラタラでした。長男は病院に来るなり「死ぬのは病院の責任なんだから、ちゃんと責任取って葬式を出してくれるんだろうな!」と要求していました。「ガンの末期がどうしようもないのは病院の責任ではありません」と断られると「それならせめて火葬して骨にしろ。それくらいはできるだろう」と要求をダウンしてそれでも食い下がっていました。

 この有様を見たらαさんは死んでも死にきれないだろうな、と私は思いましたが、同時にそのように子供たちを躾けたのもαさんなのだから、仕方ないのか、とも思いました。どちらにしても他人の親子関係ですから、私にはどうしようもありません。
 そして、私はもう一つのことにも気がつきました。この部屋で涙ぐんでいるのは、お嫁さんだけです。実子たちは体力を温存していて元気いっぱいです。


 αさんの入院生活は一年以上だったので、長男のお嫁さんとのつき合いもそれだけの長さだったことになります。義母の介護と家の仕事と子育てに本当に忙しそうでしたが、盆や正月に彼女はもっと忙しそうになっていました。「里帰りがありますから」と言い訳をしながらいつもより早く病院から帰っていく姿を目撃したことがあります。翌日も彼女は一人で介護に現れていましたから、自分が里帰りをするのではなくて、つまりあの実子たちが家族を連れて実家に帰ってくるのでその世話も大変だった、ということなのでしょう。

 目に見えるようです。「やっぱり育った家が一番だわ」と盆や正月に実家に帰って、そこのお嫁さんに家事を全て押しつけてのんびりしている人たちの姿が。そして、忙しく働いているお嫁さんは「自分が育った家」に帰れないわけです。さらに義理の親の看護・介護をすべて行なったお嫁さんに、遺産相続権はありません。これではまるで「貧乏くじ」です。

 民法では、実子すべてに親の面倒を見る義務があるはずです。「自分は嫁に行ってこの家を出たから」とか「次男だから」というのは、自分の親の面倒を長男の嫁に押しつける正当な理由ではありません。しかし、かつての家制度の残滓を自分にだけ都合よく使って、自分がするべき義務を断り切れない他人に押しつける人間が当時の日本にはたくさんいました(もしかしたら今もいるのかな)。いわば、人の好意につけこんでいるわけ。だけど、そうやって人の好意につけ込む人間は、いざこうした形見分けや遺産相続の場合には自分の「権利」だけはちゃっかり主張するものなんだなあ、と私はつくづく思います。



 だけど、そういった人たちの子どもたちが「自分の親がその親をどう扱っているのか」を見て育ち、そしてそこから「自分は将来自分の親をどう扱えばいいか」を学んでいるのだろうな、と、私はちょっとだけ気になってます。



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 自分の負担を減らすために患者自己負担を少しでも増やそうとしている厚労省は、保険給付率をいじらなくても自己負担額を増やす(自分の支出を減らす)ために「自己負担するべき項目」を増やすという姑息な手を使っています。その一つが食事代で、そのうちに病院に七輪を持ち込んで患者が自炊をしていた昔に戻ってしまうのかもしれません(昔と言っても昭和、それも戦後のことですけれど)。

 そこまで時代が戻らなくても、患者の家族がボランティアとして常に(24時間)病院内にいるのは、つい最近まで別に珍しいことではありませんでした。整容・トイレや食事の介助・洗濯などけっこう用はあるもので、夜は折りたたみ式の簡易ベッド(ボンボンベッドと私たちは呼んでいました)に窮屈そうに寝ていましたっけ。で、田舎だとそれは基本的に「(長男の)お嫁さんの仕事」でした。
 毎日の回診で、ベッドのそばで顔を見る家族はお嫁さんだけ。実子を見るのは臨終の時だけ、も珍しいことではありませんでした。

 ああ、書いていて思い出がいろいろ蘇ってきます。

 明日の「田舎のお嫁さん」に続きます。


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