| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
| 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
| 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
| 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
| 29 | 30 |
固定リンク | コメント (1) | トラックバック (0)
馬鹿・莫迦・バカ・ヴァカ……さまざまな表記がされますが、これが単純なように見えてなかなか難しいことばです。大阪と東京での「あほ・ばか」の違いに関する話もありますし、同じばか呼ばわりでも誰にどんな口調で言われるかで、言われた方の精神的ダメージは大きく違うでしょう(私の場合でしたら、魅力的な女性に柔らかい笑顔とともに「まあ、ばかねえ」と言われるのと、嫌いな人間に「この馬鹿野郎」と吐き捨てるように言われるのとでは、その心境は天国と地獄くらい違うでしょうね)。
語源について各種の説がありますが、一般的にもっとも人気があるのは『史記』説(馬と鹿の取り違え)でしょう。中国語だと漢音でも呉音でも「鹿」は「しか」ではなくて「ロク」なので「馬鹿」を「ばか」とは読めないはずですから史記説は間違っているだろうとはたしかに思いますが、実は私はこれが気に入っています。学問的には根拠が薄くても、話としてはすこぶる面白くて含蓄がありますから。
古代中国の数百年の長きにわたった戦乱時代を強引に終わらせたのは秦の始皇帝でした。しかし彼は中国の統一はしたもののその安定化はできませんでした。始皇帝の死後、息子でもっとも優秀な扶蘇は陰謀で殺され、第二代皇帝となったのは、それほど優秀ではない(ブレーンが操縦しやすい)胡亥でした。皇帝をさしおいて宮廷で実権を握ったのは、宦官の趙高。こいつが悪いの。皇帝をもろにばかにして自分の権勢を誇るのですから。
ある日趙高が皇帝に「名馬を献じます」と言って、目の前に鹿を引き出しました。胡亥は驚き「これは鹿ではないか」と言いあたりを見回します。ところが趙高がじろりと睨むものですから、居並ぶ群臣は次々「馬でございます」と言いました。中には「鹿でございます」と言うものもいましたが、彼らは後日趙高によって殺されてしまいました。
さて、ここで「ばか者」は一体誰でしょう?
登場人物をリストアップします。
1)皇帝をないがしろにする宦官、趙高
自分が権力を持っていても、それを露骨に誇示したら反対派が頑張ってしまいます。なにより皇帝がその反対派の中心に座って「お墨付き」を与える可能性があります。ですから趙高は頭が良いとは言えません。
2)頭を押さえられておろおろしている皇帝
臣下をきちんとコントロールできない皇帝は、できが良いとは言えません。
3)趙高の権勢をおそれて、鹿を馬と言う群臣
ちゃんと自分の安全を計算している点では頭を使っていると言えます。でも、鹿を馬と言うこと・皇帝をないがしろにする態度、って、立派です? 結局そんな態度の人間ばかりだから秦は滅びたと言えます。
4)権勢をおそれず、鹿を鹿と言う少数派
皇帝を大事にし、鹿は鹿と言う、これは立派です。でもそれで殺されたのでは、なんのこっちゃです。もうちょっと“空気”を読んでも良かったのでは?
ということで、結局みんな、「ばか」?
医療崩壊についても私は似たことを感じます。同じ「現在社会の中の医療」というモノを見て、「馬」という人と「鹿」という人がいます。医療(崩壊)が馬なのか鹿なのかはともかく、居並ぶ“群臣”はいろんなことを言っています。
「医療崩壊だ」「医療崩壊ではない」「医者が足りない」「医者は足りている」「金が足りない」「○○が悪い(○○のところには、医療に関係する人が全部挿入可能です)」「騒ぎすぎだ」……
権力を握りそれを維持するために、過去の自分が“失敗した”と認めない人がいます。
“身の安全”を求めるためか、権力にすり寄り政府の言い分を繰り返すだけの人がいます。“空気”を読むわけです。たとえばコイズミ改革の「三方一両損」を熱狂的に支持した人はここに入るでしょう。(で、「三方一両損」を支持した人は、その直接の成果である後期高齢者医療制度を簡単に否定してはいけない、と私は考えますよ)
少数派となって袋だたきに遭い、それでも「現実を見ろ」と言い続ける人もいます。
アナウンス効果でますます現実がひどくなるから、みな目をそらせ・口を閉じろ、と言う人もいるでしょう。
……あらら、となると、結局みんな、「ばか」?(少なくとも、「自分以外は皆ばか」と思っている人は、多いでしょうけれどね)
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
固定リンク | コメント (4) | トラックバック (5)
固定リンク | コメント (3) | トラックバック (0)
「医療不信」という場合、問題があるのは不信を持たれる「医療の側」とされています。そ
れはそうでしょう。そこになにか問題があると感じるからこそ不信感が生じるのですから。
ところが、医師が「ジェネリック薬不信」を持っている、と言うと、問題があるのは不信感
を持っている「医師の側」であると言わんばかりの記事が書かれます。
……あれれ、どちらにしても“悪い”のは、医者?
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
マクドナルド訴訟から「名ばかり管理職」という言葉が広まっています。会社から「お前は管理職だから、管理職手当のかわりに残業手当はなしね。休日出勤は当然ね。労働組合からも脱退よ。じゃあ、昇進おめでとう」と言われ、ぼろぼろになるまでこき使われてその見返りが一切なく、昇進とともに傷心も得た人たちが「管理職と言うのなら管理職らしく扱ってくれよ」と言っているわけです。
管理職の要件は、金・もの・人・時間を自分の権限で自由に「管理」できるかどうか、だと私は思っています。中間管理職はその権限が小さいし上級管理職は大きいわけ。
ということは、職権で使える予算とか人事の繰りとか部下や自分の労働時間の差配ができない人は、いかに肩書きに「○長」とあっても、それは実態は「管理職」ではないと言えるでしょう。むしろ「管理されている人」です。だって何も管理して(できて)いないのですから。
医者はそれ自体が管理職、と私は研修医の時に仕込まれました。当時はパターナリズム全盛で、「医者が命令系統のトップ」であることが当然であり、たとえ研修医であっても上級医がそばにいなければその現場を医師法と慣習によって「管理」することが求められていたのです。私も研修医になって数日(だったと記憶しています)で受け持ち患者さんが急変し、指導医より早く病院に駆けつけたために看護婦さんたちに「指示」を求められ、逆にベテランの看護婦さんにアドバイスをしてもらいながら指導医が来るまでなんとか保たしたことがありますが、あのとき私が「管理職」だったかと問われたら返事は明らかに「ノー」でしょう。
チーム医療の世界でも、医師は意識としては管理職であった方が良いとは思います。ただし、「医療の専門家」が「チーム管理の専門家」である保証はありませんから、とりあえず医師の役割は「管理する役」ではなくて「責任を取る役」としてかな。ということはやっぱり医者は「名ばかり管理職」なのかしら。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
(本日のお話はフィクションであり、実在の人物・施設・介護保険に似ていても、それは偶然の一致です)
ずいぶん前(といっても、今世紀になってから)のことです。何ヶ月か前に退院した患者さんの家族からすごい剣幕で電話がかかってきました。要約すると退院直前に介護保険の申請をしていたのですが、要介護度2と認定されたのが気に入らない、というのです。で、2が4になるように主治医意見書を書き直してくれ、と。
介護保険の仕組みに詳しくない人のために、簡単に解説です。認定される要介護度は1〜5まであって、数字が大きいほど状態が悪くて介護保険でたくさん面倒を見てあげよう、ということになっています(軽症の人は要支援(現在2段階あります)か自立、と認定されます)。
数字の違いは状態の違いですが、有り体に言うなら、数字が増えるほど一ヶ月に保険で使える金額が増えます(要介護度の2と4だと大体月額10万円くらい違います。ただし、1割の自己負担なので、使えば使うほど自己負担も増えます。で、要介護度によって決まっている限度額を超えて何かしたい(あるいは何かを購入したい)場合は限度額を超えた分はすべて自己負担になります)。要介護度は、主治医が書いた意見書とケアマネージャーが訪問調査した結果とをつきあわせて認定審査会で審査して認定されるシステムになっています。
さらに言うと、「医療と介護は別物」のタテマエによって、最初の構想では介護保険の認定には医者は関与しないことになっていたそうです。それを医師側が「病気で要介護状態になる人が多いだろうに、それを医療の素人だけで判断するのは危うい」と口を挟んで今のシステムになった、と私は聞きました。ですから、主治医意見書は実は後付けのものなのだそうです。
ともかく、「この患者さんがどの程度の認定を受けられるか」は、主治医意見書を出した時点では私にもわからないのです。
で、電話の声は、とにかく前回の主治医意見書を書いた“責任”を取れ、の一点張りです。「認定にご不満なら、私にではなくて、そういう認定をした審査会に異議申し立てをしてください。そういう手続きがありますから。あるいはここ最近大きく状態が変わったのなら申請をやり直せば新しい認定がもらえます。その場合は診察の上で主治医意見書を書き直す必要があります」と言いながら、退院後はこちらには全然受診されていないのを思い出しました。退院時に近くの開業医宛に紹介状を書いていて、そちらに通院しているはずなのです。「現在の状態が退院時より明らかに悪いのなら、その旨を私が紹介状を書いた○○先生に主治医意見書として書いてもらったらどうです?」と言うと「『そんなものは書けない』とあっさり断られた」とのこと。
……つまり、退院後の状態はそれほど変わっていない=現状は要介護度4相当ではない、ということですね?
結局「これだけ言っても書かないというのか!」と電話をガチャ切りされました。
だけどねえ、何と言われても私は「4にする意見書」は書きません。「現実を見て意見書を書いたらその結果として要介護度が4になる」ことはありますけれど。特に現在の意見書は大切なことが落ちてしまう形式ですから、備考欄には力を入れて切々と現状(「数字としては出ないけれど、こんな状態だから介護の手がかかるんだよぉ」)を具体的に書きます。でも、現実を無視した意見書を捏造する気はありませんし、そもそも私の書いた意見書が現実やケアマネージャーが書いた調査書とかけ離れていたら私の信用問題になってしまいます。もちろん「なんでこの患者さんが要支援なんだ?」とか「へー、この程度でも要介護度○がもらえるんだ」とか思うことはありますが、それはまた別のお話。
子どもの通知表と少し似ています。最近の小学校の通知表はことばをぼかしてわかりにくくなっていますが、私の時代には1〜5で(相対評価ではありましたが)成績がはっきりわかりました。で「他の子が100点をばんばんとるテストで30点でも、通知表の2は気に入らないからうちの子は4にしろ」と教師にねじ込む親はいませんでした……いませんでしたよね? ……いたかな?
……しかし、通知表の2は嬉しくないですが、要介護度の2は「まだ軽い方で良かった」と思うことも可能なんじゃないかなあ。状態が軽いのが嬉しくないのかしら。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
救急室に勤務する医師で、「タバコを食べた」「タバコを飲んだ」と担ぎこまれた子どもを経験している人は多いはずです。救急医ではないただの内科医の私でもそんな例はいくつも経験していますから。
食べたことはありませんが、あんなもの、まことに不味そうに思えるんですけどねえ、なんでわざわざもぐもぐするのやら。親が美味そうに口にしているから真似をしたくなるのでしょうか。
私が経験した中では、普段は家でタバコを吸わないのに、遊びに来た友達がスモーカーで、母親がその人を玄関まで見送っている間に子どもがテーブルの上の灰皿からわしづかみにして口へ、というのがありました。戦後すぐにはシケモク(吸殻)を集めてほぐして辞書の紙で巻いてシガレットを“再生”なんてことも行われていたそうですが、今でも吸殻に“需要”があるのね、と感心しました。嘘です。感心する前に胃洗浄を始めました。何歳だったかな、とても小さな子だったので胃洗浄チューブではなくてネラトンチューブの細いのを鼻から入れて洗ったら、ちゃんとタバコの葉っぱが出てきましたっけ。
ジュースに混ぜて飲ませた人もいます。
パパがジュースの空き缶を灰皿代わりに使っていました。それを知らないママが、一本のジュースを欲しがる兄弟に“平等”に分けるために、たまたまテーブルにあった“空き缶”にジュースを半分くらいトクトクトク。煙草の葉を水に浸すと効率的にニコチンが抽出できて、すごい毒水ができるそうです。くわばらくわばら。せめて灰皿は灰皿を使いましょう(変な日本語ですな)。
さて、ここから読書感想です。
子どもが事故で一番たくさん死ぬ“現場”は、家庭です。家庭内での子どもの事故に対しては「子どもの事故は親の責任」「親の不注意」「親が気をつけて」ということばが用いられがちですが、本書はそういった決まり文句に対する“異議申し立て”です。事故を科学的に分析し具体的な防止策を考えそれを実践するための提言集なのです。子どもの事故はこの世の多くの事故と同じく、「個人が気をつければいい」ものではないのですから。
著者は統計をじっと眺め、同じ事故が毎年毎年繰り返されることに気づきます。0歳代での死因トップは先天異常ですが、1〜19歳での死因トップは不慮の事故。さらに、“リピーター”がいます。事故にあった子どもの1割は、また事故にあうのです。
まずは誤飲から。
本書で最初に登場するのはアルコール飲料です。小学校低学年の子どもが自動販売機の缶チューハイをジュースと間違えて一気飲み……これはけっこうコワイ例です。
アルコールのつぎはタバコ。上にも書きましたが、タバコをそのまま食べたり、灰皿の吸殻を食べたり、子どもは何をするかわかりません。
その次は薬です。カラフルで適度な大きさの錠剤はまるでお菓子のように子どもには見えるようですが、なぜか薬を誤飲するのは男児が女児の倍。こんなところにも、性差?
飲み込んだものが存在するのは、胃腸だけではありません。食道に停滞したり、方向を間違えて気管に行ってしまったり。気管に入るもので多いのは、ピーナッツ。ついで豆(節分の翌日は、乳幼児の気管支異物の多発日だそうです)。
気管は、窒息の危険があります。こんにゃくゼリーが有名ですが、プチトマトやイクラで窒息死や重い後遺症の例もあるそうです。
次は溺水事故です。
0〜1歳児が溺れるのは、圧倒的に家庭風呂です。日本は先進国でもダントツの多さです。「浴槽のふちの高さが50センチ以下」「残し湯をする」「浴室に子どもが一人では入れないような工夫をしない」……この3つがそろっている日本の家庭(日本の6割)は、幼児の溺水危険地帯なのです。
そういえば私も幼稚園に入る前に、風呂桶の中で足が滑って溺れたことがあるそうです。親にすぐ救助されて事なきを得たそうですが。親が目の前にいても事故は起きるのです。まして浴室で子どもだけにしていたら……「残し湯で洗濯」も大切ですが、小さな子どもの命も大切です。
こんどはやけど。子どもの3人に1人はやけどの経験者だそうです。医療機関を受診するのはそのうちの1割で、さらにその1割が入院となっています。
ちなみに人生で一番やけどをしやすいのは、生後6ヶ月からの1年間。家の中の熱源は、すべて子どものやけどの原因になる、と考えたほうがよさそうです。原因として多いのは、(熱いものが入っている)茶碗・ストーブ・アイロン・魔法瓶・鍋・花火……本当になんでもありです。
著者が講演をすると、質疑応答で出てくるのは「洗剤を飲んだときの対処法」「タバコを誤嚥したときの救急処置」などの応急処置だそうです。しかし著者が話したいのは、「どうすれば子どもの事故を予防できるか」の根本的対応方法。コミュニケーションエラーですね。
また、「事故が起きる前(予防)」「事故がおきたときの対策(救急処置)」「事故の後(医療体制やリハビリテーション)」の3つに分けてそれぞれ考えることが必要だ、と著者は主張します。
で、日本で一番遅れているのは予防のところだ、と。(だからいつまでも同じパターンで事故が繰り返されるのでしょう)
誤飲防止で重要なのは、子どもの発達段階を理解することです。乳児は発達段階で必ず「やたらといろいろつかみ、手に持ったものを口に持っていく」過程を経ます。ならば、その時期には手が届くところに誤飲しやすいものを置かなければ良いのです。そのとき「危ないものは片付けるように」という精神論を言うのではなくて、子どもの口の大きさの円筒を渡して「これを通るものはすべて1m以上高いところに」と具体的に指導するのが欧米のやり方です。精神論と具体的な指導と、どちらが有効かは、事故で死ぬ子どもの数の差が雄弁に物語っています。
食べ物による事故の予防は簡単です。3歳になるまでピーナツ禁止。歩きながら・遊びながらの「ながら食べ」を禁止。乳幼児の食事は大人がきちんと見守る。子どもが子どもに食べさせることがあるので、それにも注意。その他列挙されていますが、読んでいて当然のことばかりのようにも感じます。真実はシンプルなものなのでしょう。
お風呂での事故を予防する対策も簡単です。ところが「もったいない」「災害時に役立つ」という意見によって著者の「せめて1歳までは残し湯をやめるべき」という主張がなかなか通らないのが、著者にはとっても残念なようです。無念が紙面から伝わってきます。
本書では、子どもの事故を予防するためにはまず実態を知ろう、と、事故サーベイランスが提唱されています。しかしそれが「不注意な親を責めるため」だったら意味がありません。さらに子どもが事故にあった親に対する心理的な支援の重要性にも著者は言及します。事故の原因(あるいは遠因)が社会にあるのだったら、その対策もまた社会ぐるみで行わなければ有効なものにはならない、ということでしょう。
……なんだか、医療事故のことを思い出してしまいました。事故の“構造”も事故を減少させるために必要な“基本的態度”も共通していますね。事故に関する“真実”は事故の種類によってそれほど異なることは無いのでしょう。
書誌情報:『子どもの誤飲・事故(やけど・転落など)を防ぐ本』山中龍宏 著、 田島みるく 漫画、三省堂、1999年、1200円(税別)
固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)