| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | ||||
| 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
| 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
| 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
『家で病気を治した時代 ──昭和の家庭看護』(小泉和子 著、 農文協、2008年、2667円(税別))という本を読みました。
現在の「救急車はタクシー代わり」の一部風潮とはちがって、昔は「医者にかかる」こと自体が非日常的な一大イベントでした。健康保険制度がない時代には、そもそも「医者にかかる金がない」のも大きな要因ですが。
その代わりと言って良いでしょう、発達していたのが家庭における看護です。軽い火傷や外傷でも少々の捻挫程度までなら家庭で処置していましたし、戦前は湿布も自家製だったと聞いて、私は目をぱちくりです。
戦前の農村は都市部とは別世界でした。農民の生活は基本的に貧しく、農夫症・こう手(草取りによる手の腱鞘炎)・突き目(葉先で目をつく)など農村特有の病気もありました。また、寄生虫も都市部よりは農村の方がはるかに多く見られました(戦前のデータで寄生虫を持っている人は、都市部は20%、農村は70%)。本書にもありますが、ツツガムシやマムシ咬傷なども都市部には見られない病気ですね。私はツツガムシは見たことがありませんが(あるいは遭遇しても見逃しているのかもしれませんが)昭和末期でもマムシ咬傷は何度も診ています。実際に山中で見た(遭遇した)ときには逃げました(幸い向こうも逃げていきました)。
『主婦之友』に掲載された家庭看護に関する記事数が拾い出されてグラフ化されていますが、大正後期に増えた家庭看護記事(西洋医学・東洋医学・民間療法、なんでもあり)は、戦争中は一時減少しますが戦後また復活、それが昭和40年を境に激減しています。その時期を境に「医療行為」は、家庭ではなくて医療施設で行われるべきものになったかのように。
医療技術の進歩や医療保険制度の充実など、「医療の進歩」がかえって「医療」と「我々の生活」の間の溝を深めてしまったのでしょうか。つまり医療は「自分たちのもの」ではなくなってしまったわけです。
結核についても本書ではページを大きく割いてあります。現代の常識では「結核患者は療養所」ですが、かつては自宅療養、あるいは働きながら治癒を待つ人が多かったのです。サナトリウムに行ってゆったりと過ごすことができる人は、一部の金持ちだけでした。治療法も、ストレプトマイシンが登場するまでは、一番ポピュラーなのは「自然療法(大気・安静・栄養の三原則で、自然治癒を待つ)」です。しかし、黒死病の時代には「邪気を吸ったら病気になるから、外の空気を吸ってはならない」とタペストリーを窓に掛けて空気を遮断しようとしたのに、結核では新鮮な空気は体に良い、ですから、人間は得手勝手に自然を解釈するものだと思います。
かつては「お産は穢れ」でした。産婦は集落の外れに作られた産屋に隔離されました。やがて自宅で産むようになりましたが、出産する場所として都会では奥まった暗い部屋・田舎では納屋や土間が用いられました。他に地域によって食べてはならないものやしてはならいことなど様々な忌みごとがありました。江戸時代の取上婆は明治には公的な産婆に変わりました。さらに「衛生」の概念が、まず都会から日本に広まります。この「近代的な産婆」の努力により、お産は「忌むべきもの」から「神聖なもの」に変化します。産婆の介助による自宅分娩(異常産の場合だけ入院)が「日本の常識」となりました。昭和22年「産婆規則」は「助産婦規則」に改正され、23年には「保健婦助産婦看護婦法」が公布されます。これによって、それまでの自宅開業の産婆は、看護婦資格を持つ助産婦に変貌します。看護婦は医療機関に勤務するのが“ふつう”です。同時に、それまで産婆に協力的だった産科医が正常出産の分野に進出します。かくしてお産は自宅から病院にその場を移したのでした。
私は自宅出産組ですが、数年後の妹は産科病院で出産でした。もしかすると、世代としては私は自宅出産世代の最終あたりに位置するのかもしれません。
明治12年に派出看護婦が制度化されました。個人契約で家庭や病院で病人に付き添う看護婦です。専門家として当時は尊敬され高給取りでもありました(明治30年には、小学校教員の初任給が月に8円、派出看護婦の料金が一ヶ月で25円)。しかし日清戦争を契機に派出看護婦が急増し質の低下が懸念されたため、東京府は明治33年に派出看護婦を対象とした「看護婦規則」を制定しました。大正4年(1915)には内務省令で「看護婦規則」が発令され、資格と業務内容が全国的に統一されました。その頃から、家庭看護よりは入院を選ぶ人が増え、同時に派出婦(看護婦の資格はないが、廉価)が出現し、派出看護婦は減少し病院勤務の看護婦が増加します。以後派出看護婦は細々と日本で活動していましたが、最近の介護保険法によって訪問看護が盛んになって、形を変えた派出看護婦が復活しているようにも見えます。
按摩と鍼灸師もまた家庭医療の重要な役割を担っていました。明治43年の全国調査では、医師37,000人に対して按摩・鍼灸師は69,000人です。明治政府は漢方医を滅ぼそうとしてほぼそれに成功しましたが、按摩・鍼灸師は生き残りました。しかしマッカーサーは鍼灸禁止勧告を出します。これにはどうも連合軍捕虜に与える薬がないため灸を行ったことが捕虜虐待である、と問題になったことが背景にあるらしいのです。私の子ども時代にも灸は普通に家庭内で行われていましたが、西洋人からは「肌に火をつけるとはなにごとだ」だったのでしょう(実際に、言うことを聞かない子に「お灸を据える」こともありましたから、あながち「虐待」もまるっきりの嘘とは言えないかもしれません)。結局幅広い日本人によるGHQへの働きかけによって「禁止」は中止となり、国家資格として生き残ることになったのですが。
「家庭で看護」と言えばきわめて簡単な文章ですが、その内容はけっして単純=家族だけが孤独に家庭の中に閉じ籠って病人を看護していたわけではありません(結核のように差別の対象となった病気の場合は別です。このような場合には孤独な家庭看護になっていました)。世間一般に当時としては十分な医療知識が普及しており一般家庭ではその実践経験を十分積んだ上、医者以外の医療従事者も多職種で多人数が社会の中に根を張ったネットワークを形成しており、その中に家庭が位置して看護を実践していたのです。
「家庭看護」に必要なのは、人体と医療に関する知識・物資の供給体制・家族(および社会)の病と死を受け入れるという覚悟・サポートする人たちのネットワーク・サポートする人たちに対する高い社会的評価、これだけは最低限必要でしょう。「病人は家庭で」と言って言葉を放り投げるだけでそういった社会的整備をしない限り、現在の厚労省の目論見は失敗する(悲劇が多数発生する)、と私は予言しておきます。
「医療の充実」は「自分の命を他人任せにすること」ではないはずです。医学の知識は20世紀に異常なくらい増えました(20世紀に知識が増えたのは、医学に限りませんが)。しかし「知識の増加」がすなわち「素人の排除」になること、さらに、知識を持った専門家を使いこなす知恵が失われてしまうことに、私は賛成できません。知識と知恵は両立可能、というか、両立させるべきものでしょう。そうでなければ、これからの少子高齢化社会の中で病気を持った人も病気を持たない人も上手く生きていくことは困難になるだろう、と私はもう一つ予言しておきましょう。
固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)