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< 死語(28)オブラート  | メイン | 学校検診(2)  >
2008.05.21 07:10 |  診療  |  仕事 / 職場  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 2

飯はまだか 

 前世紀に私は一時期老人の療養病棟を担当していたことがあります。(この「老人の療養病棟」も今の“医療改革”によってそのうち死語になるんでしょうか?) まだ看護師ではなくて看護婦、認知症ではなくて痴呆と呼ばれていた時代のエピソード(思い出)です。フィクションで修飾してありますが、それ以前に、私の記憶自体が変質している可能性も強いと思います。記憶の変化については、自覚できませんが。


 病棟に入ると、微かな異臭がしました。排泄物の微かな臭いがあたりに漂っています。私は詰め所に向かって歩きながら廊下から各病室を覗き込みましたが、特におむつ交換を行なっている様子もありません。おそらく日常的な業務で臭いが病棟に染みついてしまっているのでしょう。先日まで勤務していた、救急車が次々やって来るまるで戦場のような病院から、このようにひっそりした病院にかわると、まずこんなことが気になるものか。私は心に小さな笑みを浮かべました。相当心を入れ替えてまったく新しい発想で仕事をしないと、上手くいかないかもしれません。

 詰め所にはいると、カルテ整理をしていた病棟婦長がすぐに気がついて近づいてきました。先日、就職が決まった時に挨拶回りをすませているから、長々しい挨拶はしません。すぐに事務的な話にはいろうとしましたが、その時詰め所の外で怒号が上がりました。
「飯はまだかっ! 人権無視だ。警察に言いつけるぞ〜」
 私は何事かと思いましたが、目の前の婦長が平然としているので態度はそれに倣うことにしました。ただ、好奇心は抑えられません。
「婦長さん、何事です?」
「ああ、Mさんです。また朝ご飯がなかったと言われているんです」
「朝ご飯が?」
たしかに聞こえてくる怒号は「ここは患者に飯を食わせないのか!」と続いています。
「いえ、痴呆の患者さんで、ご飯を食べてもすぐに忘れてしまわれるんです。で、怒りっぽい方で『さっき食べたでしょう』と言うと『患者に飯を食わせないとは何事だ。人権問題だ。警察に電話するぞ』なんです」

 看護婦が一人詰め所に飛び込んできました。二人に向かって会釈すると戸棚から菓子パンを二個取り出しそそくさと出ていきます。すぐに怒号が聞こえなくなりました。
「静かになりましたね」
「ええ、いつものことですから」
「どうやってなだめているんです?」
「いくら説得しても駄目なものですから、今は菓子パンをさし上げています」
「ああ、さっきの」
「はい、でも一つでは駄目なんです。必ず二つでないと満足されません。ご飯を食べていないんだから一つでは不十分、なんだそうです」
「なるほど、理屈は合ってますね。でも、食後すぐでしょう?」
「はい。満腹のはずなんですけど、げふげふ言いながらでも無理矢理詰め込まれます」
「なんだか、のどに詰まりそうで怖いですね」
「はい、そちらは今のところなんとか無事なんですが、最近体重がどんどん増えてきておられてそちらで困っています」

「なるほど」私は腕組みをして少し考えました。婦長に向かって笑いかけてから言います。「だったら、謝ったらどうでしょう?」
「はい?」婦長はぽかんとしました。そばでカルテを記入していた若いスタッフの手が止まってしまいました。
「話を整理しますね」私はかまわず続けます。「Mさんは痴呆で、食事を食べてもそのことを忘れてしまう。だけど『食べさせろ』と要求してそれが叶えられないことは忘れないわけです。だからいつまでも『食べさせろ』と言い続ける。食事をしたことは忘れるのにどうしてこちらは忘れないんでしょう?」
「……?」
「私は人の心を読めるわけではありませんから違っているかもしれませんが、その『忘れない』というところに感情の力が強く働いているんじゃないか、と想像しています。食事したことを忘れて『食べさせろ』と言ったら相手に否定されてカッとする。その怒りの感情が強く働いて『まだ食べさせてもらってない』という記憶が心に焼き付けられてしまうんじゃないかな。つまりは感情の記憶です。もしそうならば、そういった怒りが出現しないように対応したら、案外トラブルにならずにすむんじゃないかと思うんです」
「つまり……上手くごまかすんですね」
「いや、ただごまかすのではなくて……そうですねえ、ちょっと我が身に置き換えて想像してもらいたいんですけど……レストランに行って、いつまで経っても注文した料理が出てこない、とします。で、店員に催促したら、手元の書類を見て『あなたはもう食事を食べています』なんて言われたら『そんなはずはない』と頭に来ませんか? だって自分が食べていないことは確信があるわけですから。そんな時店員がどんな対応をしてくれたらいいです?」
「……」
「『申し訳ありません』と一言言ってから伝票をチェックし調理場に確認に行き、すぐに料理を持ってくるかあるいはいつ頃料理ができるのかを伝えて欲しいでしょう? Mさんもそうです。『さっき食べた』というのはこちらの言い分であって、Mさんにとっては『真実』ではないわけです。だったら、Mさんに必要なのは、説得やごまかしではなくて、Mさんが感じている『真実』に一番近く寄り添ってさらに筋がちゃんと通っている対応でしょう。ですから『食事が遅れて申し訳ありません』とまず謝って、それから調理場に電話して、少なくとも電話するふりをして、調理場には申し訳ないけど悪者になってもらってMさんには『すみません、今作っているそうです。まったく、調理場はどうしたんでしょうねえ。こんどよく言っておきますけど、ご飯はすぐ届くと思いますからもうちょっと待っていただけますか?』と言えばどうでしょう。怒りの出番がないからそれで収まると思いますよ」

 婦長は呆然としています。予想外の提案だったのでしょう。口がぶつぶつと動きます。「だけどMさんは……だから……そうか、上手くいくかも……」
すぐそばにいた若い看護婦が質問をしました。
「あのう、『食事がもうすぐ来る』と聞いたことさえも忘れられて、また催促されたらどうしたらいいでしょうか」
「また同じことを繰り返せばいいと思います。たぶんそれで上手くいきますよ」やや無責任な口調で私は言いました。「食事と食事の間が5〜6時間ですか。食後すぐに催促があっても、謝ったらおそらく2〜3時間は平和な時間が稼げるでしょう。そこでまた催促されたらもう一回心を新たにして謝るんです。それでまた2〜3時間。さらにもう一回催促される頃には現実に次の食事時間ですから『はい、お待たせしました』と食べていただいたら良いんじゃないです?」

 正直私は上手くいくかどうか半々だと思っていましたが、なんとそれで上手くいきました。翌日から、Mさんが食事を食べた食べないに関するトラブルはぱったり起きなくなったのです。それでも病棟には毎日元気に大きな声は響いていました。「看護婦さん、飯はまだですか?」 彼が亡くなる数日前まで。



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父の事を思い出しました。
父は、脳血管障害でまだらボケがありました。
ある夏に実家に帰っていると、お盆でお坊さんがお経をあげに来てくださいました。すると父は、自分も座敷に行くとしきりに言うのです。
その頃の父は、とてもきちんと対応できる状態ではなかったのですが、長年、長男としてその責を果たしてきていたので、自分が行かなくては、と思ったようです。
そこで私は、「うん、そうだね。分かった。でもその格好(洗いざらしの甚平)では、恥ずかしいから着替えてからにしよう。」と言うと、身だしなみに気を使う父は、すっと納得し、お経をあげにいく事も忘れてしまい、おとなしくなりました。
written by ひな / 2008.05.21 09:40
 「痴呆老人」とか「後期高齢者」とか呼ばずに「人間」として遇すれば、関係がうまくいく……こともありますね(いかないこともありますが(^_^;))。
 ただ、私は偉そうなことを言っていますが、自分の肉親だったら冷静に対処できるかどうか、自信はありません。赤の他人の方が、ある意味楽なのかもしれません。
written by おかだ / 2008.05.22 21:56

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