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NHKの朝ドラの話です。
私はTVドラマはほとんど見ないのですが、これは最近珍しい良質なドラマだと思いながら見ています。ストーリーもですが、特に私が感心するのは「主役だけではなくて、登場する人すべて、それぞれの人がそれぞれの人生を生きていることがちゃんと画面に表現されていること」です。つまり脚本が上手い。下手な脚本家だと、主人公の人生を脚本家の思うようにこづき回すために都合良くいろんな事件を起こしてくれる存在、つまりは便利な“ツール”としての扱いで様々な人が登場するようになります。描かれるのは、「(色々な人の)人生の交錯」ではなくて、ジグザグはあるが基本的に一本道の主人公の人生のみで、“その他”の人は名前がないと区別に不便だから一応命名はしておくけれど“用”が済んだらさっさと舞台から退場させられてしまいます。まあ、舞台の小道具みたいなものですから、“ツール”。
だけど、ちりとてちんでは違います。たとえ画面から消えて“舞台裏”に回っても、すべての人はみなそこで自分の人生を生き続けていて変化をしお互いに影響を与え合い、また舞台に登場したときにはそれがちゃんとわかるのです。これはけっこうすごいことに思えます。
「人がそれぞれの人生を生きている」は当たり前のことですよね。でも、それを忘れている“ドラマ”が多いこと。下手すると主役でさえたとえば単に「運命に翻弄される」の「運命」を描くための捨て駒扱い(別にこの人ではなくてもかまわない、誰が演じても同じ結果)のドラマがけっこう多いのです。しかし、“人”が描けていないドラマは“薄い”。心がくすぐられはするけれど、心が動く(感動する)ところまでは行きません。(だから、スペクタクルとか有名俳優を使ったという話題性とか運命の過酷さという“ドラマ性”に頼って強引に心を動かそうとするのでしょうけれど)
私にとって、患者さんは「顔のある個別の人」です。それぞれの人がそれぞれの人生を歩んでいて、たまたま病気という局面で私の人生と交錯した人。だけど、私も患者さんを“顔”の無いマスとしての存在扱いをする場合があります。統計を取る場合です。このとき、それぞれの人は“人”ではなくて“数字”になります。ただ、臨床医はその統計を「目の前の“この人”の治療を選択するときに参考にしたい」と眺めますので、常に「個別の人」に話が戻るようになっています。これが臨床医としての基本的スタンスです。私はそれが自分の特徴と強みであり、同時にある種の“限界”を規定していると意識しています。(たまに“患者”という“レッテル”を貼った“マス”としてしか人を見られない医者もいるでしょうが……それは“臨床医”としては悲しいことです)
政治家や官僚にとっては「国民」はたぶん生身の「一人一人が“顔”と“人生”を持った個別の存在」ではなくて、「国民」という“マスとしての存在(=その他大勢)”、個別だとしてもせいぜいレゴ・ブロックの部品のような相互に交換可能なものなのでしょうね。だから国民が「お上」に「個人の幸福」を望んでも「何、それ?」になってしまうでしょう。ちょうど下手な脚本家が、舞台“裏”に回った“端役(=その他大勢)”の幸不幸に興味を持たない(持てない)のと同様に。
さて、ちりとてちんもあと1週間。どんなオチがつきますやら。笑わせてくれるのか泣かせてくれるのか、期待してまっせ。
政治家や官僚の皆さん、国を動かすのに良い“脚本”を書いてください。期待して……期待……えっとぉ……
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