かつての「人生」は自宅で始まり自宅で終わる、つまり最初から最後まで「自宅」で展開可能なものでした。人は自宅で生まれ、育ち、働き、結婚の披露宴を行い、病気になって寝つき、老い、死に、自宅から野辺の送り、だったのです。簡潔に言えば「生老病死」はすべて「自宅」で、だったのです(仏陀さん、ごめんなさい。最初の「生」は、本来の「人生」ではなくて「出生」に変えています)。
しかし今は核家族の時代。今までは普通にやっていたことも今では……出産は病院、労働は会社、披露宴はホテル、入院は病院、老いたら老人施設、葬式は葬祭会館……自宅に残された機能は、生活することと子育てくらい? でも、実際にそれ以上のことを「自宅」に期待されたら、私も困ります。現在の生活でいっぱいいっぱいで、余力はありません。
来年度からの診療報酬改定の話がそろそろ具体的に数字を交えてこちらにも流れて来はじめました。ぼんやり見ていると、リハビリテーションのジャンルで一つの流れが目に止まりました。「自宅退院への誘導」です。自宅へたくさん帰せない(退院患者が施設に多く行く)病棟は、入院料を削減(収入を減らす)という手法が導入されています。「自宅へ帰せないのはリハビリテーションが上手にできない(状態を良くできない)ことだから、そんな病棟には罰金」という発想でしょうか。(「重症者ほど他の病院や施設に行く可能性が高い。ならば最初から軽症者を多く入院させたらたくさん自宅に帰れる」という入院時点での“選別”(“難民”発生)を防止するために、一定割合以上の重症者を入院させることも必要とされています。官僚って、こういう細かなことにはよく気がつきます)
ちょっと待って。「老人を病院から自宅へ」は小泉改革の時からのトレンドですが、つまりは「(政府による)親孝行ノススメ」なのでしょうか。だけど、いくらそう言われても(親孝行の心を持っているかどうかとは無関係に)現実問題として“それ”ができる家庭とできない家庭があります。今の「家庭」にはもうそこまでの「力」は残っていないでしょう。さらに、家庭は地域の中にあってこそ機能するものであり、そして地域にも地域内の弱者を支える力が以前と違って失われていることも忘れてはいけません。単に「親不孝者」を責めるだけでは、何も解決しないのです。
私の場合、現在4人の両親がいますが(私と家内と二人ずつ)、もし全員がたとえば脳卒中になって後遺症が残って同居しようとしても、今の家の経済的および物理的状況では四人は無理です。二人でも……まことに申し訳ないけれど、無理です。
……つまり私は政府によって「親不孝者」の烙印を押されてしまうのでしょうね。(だけど、「親を自宅に引き取らない」と頑張ると、その病院の自宅退院率が下がることによって親の入院料負担は安くなります。あら、政府は実は「親不孝ノススメ」をやっていたのかな)
ところで、人気があるものは別に勧める必要がありません。放っておいても人は“それ”を勝手にやります。無理矢理強権的にススメなければならないのは、“それ”の人気がないからです。「人として不自然な行為」と言い換えることができるかもしれません。私も「親と子とどちらを取るか」と問われたら(親にはまことに申し訳ないことですけれど)子の方を取ります(できたら、そういった究極の選択を迫られないことを望みますが……って、今日はなんだか謝ってばかりですね)。『孝経』は「身體髮膚 受之父母 不敢毀傷」で有名ですが、その程度のことで親孝行かどうかが判定できたのどかな時代がちょっとうらやましいとも思えます。
なお、これはリハビリテーション病院の問題だけではありません。同時に始まる成果主義(状態が改善しないと“罰金”)もとりあえずリハビリテーション関係で始めてみて、ついで健康保険全体に拡張、が厚労省の目論見でしょうから、日本の医療関係者全員にとって他人事ではないのです。
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今朝の朝日新聞(大阪版)にこんどは写真特集がありました。救急現場の写真が5枚載せられていますが、1枚は救急車の中から電話をしている救急隊員で、残り4枚の被写体はすべて「医師」。
http://www.asahi.com/kansai/news/kyuukyuu/OSK200802210095.html 重い腰を上げてやっと“現実”を報道する気になったのはめでたいことですが、ただ、やはり決まり文句に頼って突っ込みが浅いことに引っかかります。たとえば、「医師が足りない」と強調していますが、足りない・疲れ切っている、のは医師“だけ”でしょうか? ほかの人たちは?
そもそも「救急崩壊」の“原因”は「医師不足」でしょうか。だったら救急現場に医師の頭数だけ増やせばそれですべてが解決して皆がハッピー……いいえ、そうは思えません。「医師」に視点を固着させるのは、結局「救急医療」全体から目を背けることになると私は感じます。一つの臓器ばかりに注目して、患者全体を忘れるヤブ医者のように。(結局「医者の悪口を言えればいい」と医師に注目していた習性をちょっと形を変えて引きずっているだけ、でしょうね)
行政の無責任さ・医療費削減の政府方針・医療に過剰な期待をする社会の雰囲気・病院運営の問題・まともな報道をしないマスコミの問題……それらについては軽くスルーをして「真剣なまなざし」「市民を守る誇りを持ち続ける人たち」と耳に心地よいことばだけ並べても、現場の問題は何も解決しません(というか、これまた救急医療を辞めた医者に対しての「市民を見捨てた」「誇りも捨てた」という悪口になっているところが、さすがことばのプロです)。
せめて最低限、救急医療がチームで動いていることをまず理解してくれないかなあ。ちゃんと見ていたらわかるはずなんですけれど。「医者が減った」ことも、救急崩壊の“原因”ではなくて、別の何かの“結果”ではないか(つまりは“過程”の一部)、という疑いを持ってくれないかなあ。それはマスコミに対する過剰な期待かしら。
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