ちょっと変わったタイトルの本を読みました。
『
ゴキブリ取扱説明書』青木皐 著、 ダイヤモンド社、2002年、1400円(税別)
著者はゴキブリ駆除を仕事としていますが、ゴキブリの実態も知らずにただただやみくもに薬物をばらまくだけの「駆除」には批判的です。
まず必要なのは「相手に関する知識」です。ゴキブリはどのような生き物でどのような行動をするのか。その研究のために、著者はゴキブリを飼育します。30,000匹も。喫茶店のテーブルの上に泊まり込みます。夜間どのような行動をするのかのフィールドワークのために。そういった「ゴキブリの現実」に裏打ちされた本です。
ゴキブリの出身地は、熱帯~亜熱帯のジャングル。冬でも暖かくて水と食料が豊富で、体を隠すのにピッタリの隙間が多い……つまり都市における人間の家屋はまさに彼らのために用意されたような「環境」なのです。著者は断言します。「“ゴキブリを見ない”と“ゴキブリがいない”は全然違う。ゴキブリがいない家はまず存在しない」と。その根拠は、ゴキブリはどこからでも入ってくるし、ゴキブリゼロの家は人間にとっても住みにくい家だから。
日本の屋内に棲息するゴキブリの代表はクロゴキブリとチャバネゴキブリです。クロは体長31mm体重0.65g、好きな隙間は8~13mm。チャバネは13mmと0.056gで好きな隙間は5mmです。(ついでですが、日本に棲息するゴキブリは全52種類、そのうち屋内に住むのは8種類です) イメージではもっと大きく感じていましたが、意外に小さく平たいものですね。そして5~13mmの隙間は……人家にはいくらでもあります。
ゴキブリの人家への侵入ルートは、自分で侵入する(下水管や窓や玄関など)と人によって持ち込まれる(段ボール、紙袋、鉢植え植物、服の隙間……意外なルートからひょいひょいと入ってきます)。ちなみに「一匹だったら生殖できない」と思っていたら……それができちゃうんです。ゴキブリのメスは最後の脱皮直後に交尾を一回します。それで得た精子を貯め込んで一生受精卵を生み続けることができるので、ねずみ算どころかゴキブリ算で増え続けます。
ゴキブリは不潔です。感染源としての証明は非常に困難なのですが、たとえば過去に小児麻痺が流行したとき、感染地域のゴキブリの糞からそのウイルスが証明されています。ゴキブリは“健康保菌者”として菌を糞を通して生きたままばらまくのです。サルモネラ菌の生存期間は、ガラスのシャーレの表面では34日・乾燥ビスケットの表面では88日ですが、湿度30%のゴキブリの糞中では180日! ということは、ゴキブリを新聞丸めて叩くことも重要ですが、「衛生」の観点からは目を皿にしてゴキブリの糞を掃除しないといけないのです。
著者はゴキブリ退治に乗り出します。ただし「レス・ケミカル」(薬物をできるだけ使わない)で「ゴキブリが限りなくゼロに近い環境を作りそれを維持する(予防する)」ことを目標としています。殺し方も「合理的で礼儀をわきまえたもの」です。ゴキブリに対して「礼儀」? なぜ著者がそう主張するかは本書をぜひ読んでください。
現在広く行われているゴキブリ退治法は 1)見敵必殺(みつけたら、叩く・スプレー。ただし秒速85cmの“高速”に対抗する反射神経かトレーニングが必要です)。 2)待ち伏せ(トラップや毒物をばらまく) 3)ガス室(燻蒸殺虫剤) の3種類です。しかし著者はそのすべてが単体としてはたしかに有効だが、実際の現場ではそれほど有効に用いられていない、と述べます(医療の現場での抗生物質使用実態を私は連想しました)。ゴキブリの生態も都合も知らずに、やたらと人間の都合や思いこみだけを押しつけても上手くはいかないのです。著者が勧めるのは、まず調査です。床一面に粘着式のトラップを敷き詰め(「ゴキブリは部屋の隅をよく通る」はウソだそうです)、どこに多く潜んでいるかを知り、隙間を潰すようにします。次は整理整頓。それから掃除と餌の除去。きちんと退治し、住みにくい環境を作ってやり、そして日常的なメンテナンス、これに尽きるのだそうです。
プロ(飲食店など)に対しては著者はもう少し厳しい態度です。「安全」「安心」にコストをかけない、あるいはコストをかけても見当外れの薬物ばらまきだけして自分が安心しているような態度では、経営者の見識が疑われる、と。何しろ著者の顧客には、病院の厨房もあります。薬物(≒毒物)をやたらとばらまくわけにはいかないのです。
著者の口調は軽妙で題材も題材なので一見不真面目に見えますが(ゴキブリを食べる話まで登場します、うげ)、実は取り組む姿勢は真剣です。私は本書を読んでいて、著者の態度は私が人間の「健康」に対するのと同じとらえ方をしていると感じました。検査もせずに自分は「健康」だと信じる(ゴキブリを見ないから、ゴキブリは存在しないと信じる)のではなく、体の調子が悪くなって(ゴキブリをたくさん見るようになって)からやみくもに大量の薬物を投入することで事態を改善させようとするのでもなく、薬を投入するにしてもちゃんと効果と副作用を考えて最小限に、そして「悪くなったら直せばいい」ではなくて「日々のメンテナンスで予防する方が結局“お得”」という考え方をしているのです。私はこの態度に、家庭人としてだけではなくて医師としても一々共感しながら読めました。
ゴキブリについて知りたい人、そして、職場(医者にとっては医療施設)のゴキブリについて真剣に考えてみようとする人には、一読の価値がある本でしょう。