DoctorBlogでアクセストップの「ほねまであいして@奴隷院長の日々」ブログを拾い読みしていたら、診療室での暴力について書かれた「産婦人科残酷物語」ブログが紹介されていました。読んでいて切なくなりました。いや、「産婦人科残酷物語」で書かれている内容もですが、そこにつけられたコメント群の中に暴力容認の意見が堂々とあったもので。「殴って良い」という積極的な容認論から「何か患者の親の側に殴りたくなる理由があったのでは」という消極的な容認論まで“強度”はいろいろですが。
で、積極的容認論。私も暴力は容認しますが、それは正当防衛だけで、あとは基本的に否認の立場です。「腹が立つ(あるいは殴って良いと思う)“正当な理由”があったら、患者を殴る医者」なんてしろものになりたいとは思っていません。自分が患者の立場になったときでも、医者を殴る患者になりたくはありません。どんな怒りが湧いたとしても、それを行動化することとの間にぽっかり大きな谷が開いている人間でありたいと思っています。
次は消極的容認論。なんて言うかなあ……「暴行事件を見たら、まず、被害者の側に殴られる理由があるに違いないと考える人」って……「いじめで、いじめられている人に理由を探す」「強姦では、犯された被害者に隙があったに違いないと決めつける」「殺人事件で、殺された人に何か落ち度があったと思う」人と、構造的に同じことをやってません? というか、医者が殴られているのを聞いて「医者の落ち度」をまず考える人は、いじめ・強姦・殺人などでも同じことをしないと、行動にスジが通っていませんぜ。
もちろん「暴力をふるう人を理解する」ことは必要でしょう。ただし「理解する」とは「暴力を容認する」の意味ではなくて、「心理や行動原理を解析すること」を意味しています。目的は「再発予防」(そのためにこそ、暴力を否定する態度と暴力を“理解”する態度とを両立させなければならないはずです)。私は医療事故でも同様に「(再発予防のための)解析」の意味での「理解」が絶対必要と考えていますが、私の中では一本スジがつながっていると思うのは自画自賛かしら。
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整理すると、こうなるわけです。
・国が認可した薬品で病気が起きた。
・はじめは薬のせいとわからなかった(だから国の責任はない)。
・わかってから(例によって)対応が遅れて多数の患者が発生した。
・患者が多数発生した(する)ことが分かったが、それを個人に通知して病気の進行を止めることは国の責任ではない(と思った)から、手をこまねいていた(企業または病院の責任である)。
・患者リストも目に見えないところに大事にしまっておいたからさらに対応が遅れた。
・裁判で時間をかければかけるほど、病気が進行して患者は次々死んでいくことが予想される。
以上をふまえて、国の主張は……
・したがって、原告がするべきことは、政府の主張に歩み寄って「和解」することである(政府のお偉方は「ボールは政府の手にもあるが、原告の手にもある」とのことばで原告が妥協するべきだと主張したそうですね……つまり、交渉が長引いたらそれは国の責任ではない、と)。
えっと、相手にひどいことをして、さらにその「ひどさ」を“人質”にとって交渉を自分に有利に進めようとしているように見えて、ものすごく理不尽に思えて全然ぜんぜん納得がいかないのですが、私はどこかで「整理」を間違えてます?
ついでですが、「パートがやった、出入り業者がやった、社員が個人的にやった」と述べ立てていたどこぞの重役さんのことばをなぜか思い出します。
さらにもう一つついでですが、ある本に書かれていたことばも思い出しました。「みなの幸せのために立ちあがるのは、必ず小さく弱き者。大いなる者たちは、自らの利益にのみかまけているからな」(『歌う石』O・R・メリング……アイルランドの神話を子ども向けにリライトした本です)
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