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2009.07.04 06:55 |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 0

 心が痛む

 UFOや幽霊を信じる人の「信じる根拠」として「自分は実際に見た」がありますし、信じない人の主張の根拠の一つとして「そんなもの、見たことがない」があります(他に「非科学的だ」なども)。

 そういえば私はまだ「心」を見たことがありません。では、「見たことがないから心は存在しない」として良いでしょうか。

 「見たことがあるから存在する」もそうですが、「自分は見たことがないから“それ”が存在するとは信じない(存在を否定する)」と言うのは経験主義的すぎるというかあまりに自分中心主義的な世界観に思えます。ただ、「心は存在する(たとえ見えなくても、機能していると推定できる)」とした方がいろいろ人間の行動や心身症などについて説明するのに便利なので、「人に心は存在する」という仮説を私は肯定的に採用しています。(UFOや幽霊は、「見たことはないけれど存在する」あるいは「見たことがないから存在しない」と判断することで私には何もメリットが生まれそうにないので、とりあえず判断は先送りしています)

 話が逸れますが、「他の肉体でもリユース可能な(そしてリユース時には初期化される)心」としての「魂」が次から次へとリユースされ続ける「輪廻転生(転生輪廻)」については、この仮説がないと生きるのがとても不便だったり説明困難な事象をあまり思いつかないので、私は採用はしません。信じたい人の邪魔をする気もないので却下もしませんが。ただ、自分のアイデンティティを確立するためには、「前世の自分」と「前世での自分と周囲の人間との関係」よりも、「現世の自分」と「現在の自分と周囲の人間との関係」の方を重視した方が“お得”とは思います。人のアイデンティティは基本的に人間関係の中で築かれるものですから(孤独の中で形成されることもありますが、その場合でも「他者との関係」を否定する形で孤独が存在しています)。
 そういえば、魂は有限のリソースなのでリユースせざるを得ない、というアイデアでフレデリック・ブラウンが二十世紀中頃に面白いショートショートを書いていましたっけ。
 閑話休題。

 よく「脳自体には痛覚はない」と言われます。実際、うまく局部麻酔をかけて頭に穴を開けて(麻酔をかけていない)脳をいじくっても、いじくられた人は痛みは感じないそうです。
 では、心に痛覚はあるのでしょうか。よく「心が痛む」と言いますが、それは“心の痛覚中枢”が刺激されている?  たぶん違いますね。これはただの比喩表現でしょう。
 ただ、心が傷ついた時には、肉体が感じる痛みに相当するものを心も感じているはずです。もしも傷ついた心が“痛み”を感じて、でもそれを「心の痛み」として表現できないとき、どうしたらいいでしょう。一つのやり方は、「心の病」として表現することです。もうひとつ、その“痛み”を肉体に投射して「肉体の痛み」として脳に感じさせることもできそうです(たとえば「断腸の思い」「胸がはり裂けそう」など)。
 強い鎮痛薬や麻薬を使ってもコントロール困難な慢性的な肉体の痛みの中に、この「心が感じている痛み」が何割か混じっているのではないか、と私は推測しています。その「実在」を証明することは困難でしょうけれど。


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2009.07.03 18:17 |  医療制度 / 行政  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 連絡from厚労省

 カナダからのラブレターは、素敵なような悲しいようなものですが、厚労省からの事務連絡は……

 

社会福祉施設等における新型インフルエンザに係るクラスター(集団発生)サーベイランスの協力について」(厚労省)

「 標記については、平成21年6月19日付け事務連絡「新型インフルエンザに対する社会福祉施設等の対応について【更新】」(厚生労働省健康局結核感染症課、雇用均等・児童家庭局総務課、社会・援護局福祉基盤課、社会・援護局障害保健福祉部企画課、老健局総務課連名。)の4において、社会福祉施設等における集団発生を把握するためのサーベイランスの着実な実施の具体的内容について後日お知らせすることとしておりましたが、今般、別添(PDF:1,146KB) の平成21年6月25日付け事務連絡「新型インフルエンザにかかる今後のサーベイランス体制について」(厚生労働省新型インフルエンザ対策推進本部事務局。以下「6月25日事務連絡」という。)においてその具体的内容が示され、社会福祉施設等での新型インフルエンザの発生を早期に探知するとともに、ハイリスク者へ感染が伝搬することを防止するため、社会福祉施設等の施設長等による保健所への迅速な連絡及び協力が求められました。」

 最初の一段落、赤ペンを持って添削をしたくなる文章です。400字詰め原稿用紙1枚分くらいの長さの段落ですが、それがまるまる「一文」であること、主語が不明確であること(末尾の「求められました」って、具体的に誰が誰に求めたのかな?)、という形式的な問題と、二回登場する「おいて」は「で」で良いだろうとか「クラスターサーベイランス」って日本語に本当にならないのか?(「集団発生監視制度」とか)という言語学的な問題が存在することははもちろんですが、そもそもその内容について、結局何が目的なのかが不明確、という大きな問題がある文章ですから。
 「社会福祉施設等での新型インフルエンザの発生を早期に探知」したい、という表面的な目的は読み取れます。でもその目的は?  探知して、それで(誰が)何をどうするのか、が大切なことです。「ハイリスク者へ感染が伝搬することを防止」するとありますが、まさに「ハイリスク者へ感染が伝搬」しているからこそ、施設長は保健所に届け出をする気になるんじゃないです?
 今までの日本の「歴史」では、流行病に関して「早期に探知された社会福祉施設」や病院などは、メディアスクラムの対象になりました。それはもう徹底的に(施設ではありませんが、最近の有馬温泉の風評被害なんかも思い出します)。ということは、厚労省はメディアに早期に投げ与える餌食を求めてこのような通達をした、ということになるのでしょうかねえ。まさかね。まさか、ね。
 連絡を受けた保健所からその施設へ特命チームが派遣されるけれど、その中にメディア対応へのアドバイザーが入っている、とか言うのだったら、喜んで早く連絡する施設もあるでしょうが、そんな「努力」を政府はする気がないのかな。


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2009.07.03 06:54 |  診療  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 他人のノート自分のカルテ

 「カルテは患者の所有物」という主張があります。そこに注ぎ込まれた医者の知識やデータの編集や書いた手間は一切考慮しない(カルテにおいて医者の仕事の価値はゼロである)、という主張に聞こえますが、せめて「共有物」くらいに言えないものか、と私は感じます。
 同じ論法を使えば「新聞記事は取材された人間の個人的所有物」と主張することも可能そうなので、時と場合によってはある意味都合が良い論理とは言えるのですが。

 私は「説明はいらない」と言う人以外には検査データを伝票を見せながら数値とその解釈を説明しますし、「必要ない」と言う人以外には検査伝票(の写し)を渡します。(必要ない人に無理に渡してゴミ箱に捨てる手間をかけさせるのは本意ではありません)  だけどカルテは渡しません。法律で医療機関に保管義務がありますしね。開示請求されたらカルテのコピーは渡しますが、コピー代は頂きます。
 そうやってデータをお渡しした人の中には、ノートに張りつけて整理している人がおられます。さらに少数ですが、グラフや表に整理する人もおられます。この「整理されたデータ」がけっこう重要なのです。各個人で重要なデータだけ経年的に一目でぱっと追えるのは、データが“生きて”います。そして、その作業を自分でやることにも大きな意味があると思います。その手作業を通してカルテ(というかその一部)が“自分のもの”になるのですから(というか、あるデータの塊を本当に“自分のもの”にするためには“自分の手作業”が必要だと私は思っています。あなたは学生時代、他人のノートで試験に合格していました?  もしそうなら、「授業で習った知識」は“あなたのもの”になっていましたか?)。

 こういった「自分の手作業」を重視するのは、ネット以前に育った世代の古い価値観だろうとは思います。今は速読&検索&コピー&ペースト全盛ですからねえ。だけど、私はこの自分の価値観は大事にしたいと思っています。自分の思想自体およびそれを形成するための方法論の「背骨」ですので。


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 のっけからナンですが、「自閉症は母親の愛情不足や育て方が原因」「自閉症は自閉的な子どものこと」と思っている人は、このエントリーや本書を読む前にちょっと「予習」をしておいた方が良いです。そうだな、とりあえずの入門書として、たとえば漫画ですが「光とともに」を数巻(なんなら第一巻だけでも)読んでおくと少しは自分が自閉症について何を知っていて何を知らないかがわかるかもしれません。ブログ「意味不明な人々-発達障害(ADHD、アスペルガー)と人格障害に取り組む」でも発達障害が扱われていますが、こちらにもやはり「予習」が必要です。単なる思いこみだけで対処できるほど簡単なテーマではありませんので。

 本書は自伝です。著者は、自閉症スペクトラム(これは英国式の言い方で、日本だと「広汎性発達障害」に当たるそうです)に含まれるアスペルガー症候群(簡単に言えば、知的障害を伴わない(自閉症を含む)発達障害)を持っていますが、同時に、数字を見ると色や形や感情が浮かんでくる「共感覚」とサヴァン症候群と側頭葉てんかんも持っています。アスペルガーがあるから他人に共感することが苦手で日常の細かい決まり事へのこだわりや特定のものへの執着や音に過敏だったり予定外のことがあると途方に暮れてしまったりすぐにカッとなる癖があります。サヴァン症候群は、非凡な才能と脳の発達障害の組み合わせですが、著者の場合は数字と語学の天才、と言う形で出てきています。(映画「レインマン」をご覧になっていたら、“あの”レイモンドのこと、と言えばおわかりになるでしょう。ちなみに本書には、レイモンドのモデルになった実在の人物と著者とがアメリカで出会うシーンも登場します。お互いの誕生日を聞いてその曜日をあてることで「同じ種類の人間だ」と心を通わせるシーンは、ちょっとした衝撃です)
 著者自身が生まれる前から話は始まりますが、もちろんそこは両親へのインタビューの成果でしょう(そもそも自閉症の人がインタビューができることがすごい)。しかし、驚くほど早くから著者は自身の記憶を持っています。それは、残酷な外界とそこから著者を守ろうとする本人と家族の物語でもあります(ときには家族さえも著者を傷つける「外界」の一部となってしまいますが)。しかし、子だくさんだから両親とも仕事を辞めて子育てに専念することにした、って……イギリスだとそんな生き方もあるんですね。どうやって食っていたんだろう? 
 アスペルガーという概念がまだ一般的になる前の時代です。日本だったら特殊学級行きかあっさり退学になるか、でしょうに、イギリスでは「ちょっと変わった奴」で、いじめはあるもののちゃんと一般校で18歳まで教育されています。これは著者だけの特殊例なのでしょうか、それともイギリスの一般的なやり方?
 本書のタイトルの通り、彼が数字を見るとこうなります。「1という数字は明るく輝く白で、懐中電灯で目を照らされたような感じ。5は雷鳴、あるいは岩に当たって砕ける波の音。37はポリッジ(お粥)のようにぽつぽつしているし、89は舞い落ちる雪に見える。333のようにきれいな数字もあるし、289のように見映えのよくない数字もある。素数はつるつるした形だからすぐにそれが素数だとわかる」
 かけ算も彼はイメージで行います。たとえば53×131は「53のイメージ」と「131のイメージ」の間の空間の形がその答えだそうです(著者自身が描いた挿絵が載っていますが、いくら見てもどうしてそれで答えが出るのか私は納得いきません)。
 また、言語ではこうなります。「ladderは青く輝いているが、hoopという言葉は柔らかくて白い。フランス語のjardin(庭)はぼんやりした黄色で、アイスランド語のhnugginn(悲しみ)は白地に小さな青い水玉模様がたくさんついている」。共感覚によってこういった言葉からイメージする色と感情が意味とつながることで、著者は十ヶ国語を習得したそうです。(世界で最も難しい言語の一つと言われるアイスランド語は「1週間で習得する(現地で不自由なくぺらぺら会話ができるようになる)」というテレビ局の企画に挑戦して、成功させています)

 2004年に著者はてんかん協会のチャリティイベントでπ(円周率)の暗唱に挑戦します。目標は22500桁。もしこれが日本だったら、「障害者を見せ物にするのか」「もし失敗したら彼には心の傷になる」などの意見(批判・非難)が大声で主張されて、「彼の意向」は無視・邪魔されるでしょう。しかしイギリスでの彼の恋人・家族・友人・てんかん協会などは彼をサポートし、彼は、自身の障害による邪魔(大量の記憶に必要な集中力の持続が続かない(ちょっとのことですぐ注意が逸れる)、人前で大声を出すことが大の苦手、体力面での不安など)を乗り越えての挑戦で、22514桁・所要時間5時間9分のヨーロッパ記録を樹立しました。文字通り「桁外れの人間」です。この暗唱のシーンでの「円周率の数字の列が、次々変わっていく風景に見える」描写は、新鮮で美しくはかなく繊細で、こちらは読んでいて心が何かで優しく洗われる思いがします。(なお、この事実を元に著者を主人公としたテレビドキュメンタリー「ブレインマン」が製作されました)
 本書は「異能の人」の物語に見えます。しかし、その本質は(障害がハンディであると同時にギフトでもある)一人の若者が、まっとうに生きようと苦闘している物語です。安易に一般化するなら、それは私やあなたの物語でもあります。人が生きるとはどういうことか、人間であるとはどういうことか、の謎を解こうとする旅の物語でもあるのですから。
 本書では、ドストエフスキーやルイス・キャロルがてんかんを持った作家として上げられていますが、著者は、チェスタトンが高機能自閉症ではなかったか、とその作品や行動から想像しています。さらにそのチェスタトンの著作に導かれるように著者がキリスト教徒になったと聞いて、「自閉症」と「信仰」が頭の中で容易に結合せず、またまた私は考え込んでしまいました。

 「数字と世界」で私がまず連想するのは、ピュタゴラスです。彼の「神々と悪魔達、観念と形相、全ては数字に支配されている」ということばは、もしかしたらただの観念論ではなくて、本当にピュタゴラスは「そういった世界」を自分の目で見ていたのではないか(共感覚で世界を認識していたのではないか)、と私は想像しています。
 もう一人連想するのはガリレオ・ガリレイです。彼の有名な言葉「哲学は、宇宙というこの壮大な書物の中に書かれてある。この書物は、いつもわれわれの眼前に開かれてある。けれども、まずその言葉を学び、それが書かれている文字が読めるようになるのでなければ、この書物を理解することはできない。それは数学の言葉で書かれているのであって、その文字は、三角形、円、その他の幾何学的図形である。これらなしには、人間はその一語たりとも理解することはできない。これらなしには、人は暗い迷宮の中をさまようばかりである。」(『偽金鑑識官』)はよく「世界(宇宙)は数学の言葉で書かれている」と短く引用されますが、それでは彼の言いたかったことがねじ曲げられているのではないか、と私には思えます。そしてやはり、もしかしたらガリレオ・ガリレイは本当に世界をそのように「見」ていたのではないか、とも思うのです。(蛇足ですが、当時のヨーロッパでは数学はまだ幾何学全盛で(代数学はインドやイスラム世界の得意技)、もしもガリレオ・ガリレイが代数学をしっかり学んでいたら、彼のこの言葉はまた変わっていたかもしれない、と私は考えています)
 もう一つ、古代中国の「五行」のことも私は思います。世界を五つに分類し、それぞれに「色」を配当する発想は、やはり何らかの共感覚の産物ではないか、とも思えるからです。
 私がこんな連想をするのは、私もなんらかの共感覚やアスペルガーの傾向を自分の中に意識しているからかもしれません。「人は皆言語に関してなんらかの共感覚を持っているはずだ。だからこそオノマトペ(擬声語・擬態語)がどの言語でも成立している」という面白い指摘(と、異なる言語間でも似た語感のオノマトペが成立する研究成果の紹介)が本書ではされています。さらに「自閉症スペクトラム」の「スペクトラム」は、自閉症が「正常」とは隔絶された「異常」なものではなくて、それが「正常」と連続的につながっていることを意味しているのです。

書誌情報:『ぼくには数字が風景に見える』ダニエル・タメット 著、 古屋美登里 訳、 講談社、2007年、1700円(税別)



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2009.07.02 06:45 |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 5

 喧

 「末は博士か大臣か」とかつては言われましたが、総理大臣はその大臣の中で一番エライ人のはずですよね。ああそれなのにそれなのに、最近は与党の中でさえもあまりにないがしろにされている有様を見ていると「ぼく、大きくなったら総理大臣になる」とはとても言えない雰囲気です。(まあ、私はもう「大きく」なっているからよいとしても、政治を志す子どもたちのやる気を潰してしまいません?  あ、だから世襲にするのかな)
 衆議院の解散も、本来は総理大臣の腹一つのはずなのに、「さっさとしろ」「早すぎるのはダメ」「遅いのはダメ」「都議選の前」「都議選の後」「知事選のことも考えろ」などとまあ好き放題の喧(かまびす)しさには「誰が責任を持ってそれを決めるんだ?」と聞きたくなります。

 「あの姿」を見ていると、私は二つのことを想起します。
 一つは天皇。本来は日本で一番偉い人のはずなのに、外祖父・上皇・将軍などが天皇をどこかに祭り上げておいて自分がちゃっかり実権を握って好き放題するのが歴史上つづいていました。そういえば明治〜昭和初期でも、大権・大命・統帥権などを天皇が「自分の意のまま」に操ったことがありましたっけ?
 もう一つは、今の医師です。これまた「医師は○○をするべきだ」「医師は××もするべきだ」「□□はするべきではない」「△△はさっさとするべきだ」と喧しいことこの上なしです。

 日本の医師は、総理大臣や天皇と並ぶ存在ではなくてむしろ奴隷的専門職ですから同列に論じることはできないでしょうが、人々のこれらの行為はすべて同じ構造を持っているように私には思えます。

 やはりこれは、「日本の伝統」なんですか?

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2009.07.01 18:32 |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  おかだ  | 推薦数 : 2

 3秒で癒される

 テレビには、温泉につかって「あ〜、癒されるぅ」とタレントが言うシーンがよく登場します。
 「癒される」ためにはまず傷ついて(傷つけられて)いなければならないはず。ところがテレビであっけらかんと「あ〜、癒される」と言う人は、それほどでかい傷を負っているようには見えません。私の目が節穴で、見えていないだけかもしれませんが。
 心の傷だから見えない?  でも、心の傷って(あるいは身体の傷でも)温泉につかったら3秒で癒されてしまうものなんですか?  それが本当なら、すごい温泉だ。

 そもそも本当に悲惨な人生を生きている人は、「お風呂につかって癒されたい」ではなくてまずは「この境遇から救われたい」と願うでしょうね。

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2009.07.01 06:50 |  医療制度 / 行政  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 5

 餅を絵に描く

救急受け入れルールのガイドライン作成へ議論開始-消防庁・厚労省」(ロハス・メディカル)

「傷病者の搬送及び受け入れの実施基準等に関する検討会」が開催された、というニュースです。一部マスコミなどが大好きなことば「救急車のたらい回し」(本当は病院の救急車受け入れ不能状態)を解決するための会議らしいです。ただし、解決したいのは実態ではなくて「ことば」の方のようで、だから結局ことばと会議を踊らせるだけでお仕事をする気のようですね(この判断の根拠は、この記事によれば予算をつける気が無い様子であること、各都道府県に通達することが目的であるらしいこと、の二点です)。
 さらに、すでに地域で活動している既存の協議会に対して、屋上屋の存在です。お役人が中央で熱心にお仕事をしている、という姿を見せたいのですかねえ。でも、誰に見せたいのでしょう。

 具体的にはたとえば救急のトリアージをするか(軽症患者は平気で夜明けまで待たせてもよい)、とか、救急車の有料化を検討する、とかまで踏み込んでくれたら良いのですが、どうもこの協議会、「自分たちに何ができるか」ではなくて「他人(救急隊員と救急病院の医者やスタッフ)にいかに仕事をさせるか」に集中しそうな雰囲気で、今の疲弊した救急の現場に有益な『ガイドライン』がでる期待ができるのかは、疑問です。(そもそも、ガイドラインなどの「ことば」の操作で医療崩壊が救えるのなら、医者ではなくて雄弁家を育てればいいのです)

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2009.06.30 18:29 |  診療  |  仕事 / 職場  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 5

 俺が信用できないのか

 ときどき病棟に「○○さんの病状について詳しく知りたい」という電話がかかってくることがあります。私は基本的に答えません。そもそも「○○さんが入院しているかどうか」についても答えませんが、「そちらに入院していることは家族に聞いた」と言われたら、たとえばこんな会話になります。

「失礼ですが、どちら様ですか?」
「……知り合いの××だ」
「患者さんの病状については、ご本人とご家族に説明してありますので、詳しく聞きたければそちらにお問い合わせ下さい。あるいは、ご本人や家族の承諾書があれば、説明しても良いです」
「なに、面倒くさいことを言っているんだ。せっかく電話したんだから、さっさと説明すれば良いんだ」
「個人の病状はプライバシー情報ですから、軽々しくお答えできません」
「俺が信用できないというのか。馬鹿にするな!」
「信用できるかできないかを言っているのではなくて、個人情報は軽々しくしゃべれない、と言っています。どうしてもお知りになりたかったら、次回のご家族の面談の時に、同意を得て同席してください」

 こういった主張をする人は、もしも自分が入院して、病院外からどこの誰か本人確認ができない電話がかかってきた時主治医がぺらぺらぺらぺら病状やら見込みやらをしゃべっていたら、それを喜ぶんですよね?


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2009.06.30 06:34 |  診療  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 4

 今の医療に足りないもの

 今の医療に足りないものはたくさん数えられます。
 人が足りない。時間が足りない。金が足りない。知識が足りない。知識を普及する手段が足りない。

 「足らぬ足らぬは、工夫が足らぬ」と簡単に片付けられてしまいそうですが、工夫とは無関係に足りないものが別にあるように、私は最近感じています。

 「祈り」です。

 「人が人を治す」ことがあまりに当たり前になってしまっていますが、医者も患者も家族も周りの人も、「やることはやりました。どうか上手くいきますように」とともに祈る時間が、もうちょっとあってもいいんじゃないです? 

 ……世間一般の人は、医者が「自分は全力を尽くしました。どうか直りますように」と祈っている姿はあまり見たくはないでしょうけれど。


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2009.06.29 18:30 |  診療  |  仕事 / 職場  |  その他(医療関連)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 6

 しゅじい

 ある救急病院勤務の医師から聞いた話(を“脚色”したもの)です。

 そこの外来も“コンビニ受診”で時間外は目が回るほど忙しいのですが、いつものように夜中過ぎてもくるくる働いていると、病棟から電話が。「入院患者の家族が『主治医から説明を聞きたい』と大声で怒鳴っているので、何とかして欲しい」。
 なにごとかとその医師が駆け上がると、数日前に入院した患者さんの家族が「入院した時に説明を聞いたが、心配だから確認のためにもう一回聞きたい」と。忘れている人のために繰り返しますが、真夜中過ぎです。
 不思議に思って「そういう用件なら昼に来てくれませんか」と言うと「昼は仕事してるに決まっているだろう!」「いや、それなら仕事が済んでからでも。私は今日は当直だからこの時間でもいますが、普段でも夕方遅くまでどうせいますから」「皆と一杯飲むに決まっているだろう! それがやっとすんだから見舞いに来てやったんだ!!」

 昔々、殿様が調子が悪くなると「くすし、くすしはおらぬか」と夜中でも平気で呼びつけることができました。もちろん医者はそのために「侍って」いるから「侍医」なのです。
 で、上記のようなお行儀の悪い人にとって「主治医」とは「いつでも呼びつけることができる、主に自分のためだけに侍っているべき医者 = 主侍医」なんでしょうね。で、そんな無茶な要求をする人に限って自分の要求が叶えられないと、暴れます(たとえ身体的暴力はふるわなくても、言葉で)。きっと“気分は殿様”なのでしょう。でもねえ、殿様には、暴君もいますが明君や名君もいるんですけどねえ。

 べつの「しゅじい」もあります。他の患者は後回しにして、自分を優先的に診ろ(あるいは、重症の人の処置よりも、自分との雑談を先にしろ)などと要求する人も時にいるのですが、こういった人にとって「しゅじい」は「主に自分だけを診る医者 = 主自医」なのでしょう。

 「主侍医」にしても「主自医」にしても、ベースは「自分は殿様である」でしょう。しかし、なぜそんなに自分が世界の中心にいると思えるのかは不思議です。たしかに昔の王侯貴族なら侍医をそのように扱うこともできたでしょうが、皆が平等の健康保険制度を使っておいて自分だけ特別扱いしろ(他人には損をさせろ)とぬけぬけ要求できると考えるとは、ちょっと(いや、相当)図々しくはありません?(というか、真面目な人がお行儀の悪い人のために不利益をこうむることに私は我慢なりません)

 もちろん「侍医」はOK。ちゃんと契約を結べば、ですが。ただし、制度としてはコストがかかりますよ。払います?  そのコストを“節約”するために「聖職」だの「医の倫理」だのを持ち出して人を都合良く安くこき使おうと画策するのは、ただのおケチだ、とクレヨンしんちゃんに言われちゃいますよ、きっと。


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