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2012.02.11 18:03 |  医療制度 / 行政  |  仕事 / 職場  |  おかだ  | 推薦数 : 0

一夜漬け

 学生時代、私は試験前夜には(にも)きっちり寝る主義でしたが、一夜漬けでなんとかする主義のクラスメイトもたくさんいました。教室で「早く始まってくれ。せっかく詰め込んだのに、記憶が蒸発するぅ」とハイになって言っている人たちの表情を見ると目がどよんとしていて「なるほど、徹夜というのは大変だね」と私は思いましたっけ。で、試験が済んだら本当に彼らの記憶が蒸発しているのが面白かったのは、別のお話です。ただこういった「一夜漬けでなんとかする主義」で生きてきた(まがりなりにも「成功体験」を重ねてきた)人は、他のことでもそれでなんとかなる、と思うようになるのかな、と私は思っています。「いざとなったら、徹夜で馬力をかけてやれば、世の中はなんとかなるものさ」と。

 本日の朝日新聞の天声人語は「当直明けの外科医の手術」について書いてあります。
 「日本外科学会の調査では、外科医の7割が当直明けの手術を経験し、うち8割が手術の質の低下を実感しているという。当直明け手術が「いつもある」が31%、「しばしば」が26%」という“データ”が紹介されていて「心穏やかではいられない」という実に素朴な感想がつけられています。ところで、スペースがないから触れることができなかったのか気づかなかったのかはわかりませんが、この“データ”はあくまで「主観的なもの」であることを見逃してはいけません。徹夜明けで本当に能力が落ちているとただハイになって「自分の能力が落ちていること」さえ判断できなくなっている人もいるのです。したがって「質の低下を実感」していることは重要ですが、その「実感の数字」にはあまりこだわらない方が良いです。こういった話をする場合、本当に必要なのは「客観データ(エビデンスとして使えるもの)」です。主観的なデータは、“ムード”や“印象”ではあっても細かい数字を比較できる明確なエビデンスにはなりません。
 そして最後の段落には「それもこれも、病院の多忙ゆえだという。医師、看護師、そして病院全体の「心技体」が充実してこそ、気の弱りがちな患者も励まされる。負担の軽減は医療界あげての急務だろう。」
 「負担の軽減」には私も賛成ですが……「医療界の急務」ですって?  「医療界の急務」ですって!  だったら「医療界」が「負担を軽減します」と自分たちで決めて良いんですね。マスコミは「文句」を言いませんね。なにしろ「医療界の急務」なんですから。ただしその解決策は「夜勤明けの医者は帰します」ではなくて「夜勤そのものをやめます」かもしれませんよ。実際に「救急指定の返上」をする病院はこの“解決策”をとっているわけです。
 ところで、ふだんから「救急車の“たらい回し”」と盛んに報道しているのは、マスコミでは?
 「すべては医療界の問題」とすることで「おれは悪くないもんね」と言っている姿は、醜いものです(「神話崩壊後の信者たち」に書いた『「僕のお父さんは東電の社員です」 ──小中学生たちの白熱議論! 3・11と働くことの意味』を読んだときと同じ感想です)。片一方では「救急車の“たらい回し”は許さない」と主張することで「医者はもっと熱心に夜勤をしろ」と社会的な圧力をかけ、もう片方では「夜勤明けの手術の質の低下は許さない」と「医者は夜勤明けの手術はするな」と言い、でも(書いていないけれど)「日常的な手術の質量を落とすことは許さない」は“当然の前提”とし、それで生じる矛盾(夜勤明けの医者を帰したら昼の手術チームが成立しなくなる、あるいは病棟が空になる)については「その解決は医療界の急務」と軽くすまして「社会の木鐸」の機能を果たしているつもりなのですから。

 しかし……一昨日書いた「若い頃の話」でも同じことを感じましたが、「社会問題についてマスコミ人が何かを社会に発信する」場合、せめて「データを調べる」か「現場で取材する」か、をして欲しいものです。自分の心の中をのぞきこむだけで手軽にすませるのではなくて。

 「データ」だったらたとえばこんなのがあります。
・18時間連続で起きていた場合、多くの作業における心的・肉体的パフォーマンスは、あたかもアルコールの血中濃度が0.05%である人(=ほろ酔い状態の人)と同程度の影響を受けるとされる。
・作業者が23時間連続で起き続けた後に行なう作業は、アルコールの血中濃度が0.12%ある人(酩酊状態の人)と同程度にひどいものとなる。

 出典『保守事故 ──ヒューマンエラーの未然防止のマネジメント』(ジェームズ・リーズン、アラン・ホッブズ 著、 高野研一 監訳、 佐相邦英・弘津祐子・上野彰 訳、 日科技連、2005年、3200円(税別))
(参考までに、日本酒1〜2合でほろ酔い(アルコール血中濃度が0.05~0.10%)、3合で酩酊初期(あるいは軽度酩酊)(アルコール血中濃度が0.11~0.15%)になれます)

 「取材」だったら、新聞社の記者ならお得意でしょ?  東京なら救急病院はいくらでもあるはず。そのどこかの救急室の隅っこに立っているだけでも「現場の雰囲気」はある程度わかるはずです。ただ「一晩徹夜で取材しました。どうだ、すごいだろう」では意味がありません。最低、朝から次の日の夜まで連続40時間くらい立ち続けてください。これだったら、「当直」と称する「夜勤」を間に挟んで連続勤務をする救急担当医の疲労度の100分の1くらいは実感できるんじゃないかな。ついでですが、この場合の新聞記者の体験は「一夜漬け」ですが、救急医はそれが「日常」だということもお忘れなく。1回や2回やった程度では、ちっともすごくありませんよ。


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2012.02.11 07:12 |  診療  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 0

気胸だぶる

 別の病名で入院してきた人が、胸のレントゲンを撮ったら気胸でびっくり、という話題は以前書きましたが(「正しい訴え」http://blog.m3.com/ishi-atama/20110521/1)、先日その逆の立場になりました。こちらから別の病院に転院した患者さん(μ1さん)が、そちらで胸のレントゲンを撮影したら気胸だった、と。で、そちらの医者が「前の医者は何をしていたんだ」と言ったのを聞いた家族の人がおかだに対してご立腹、とのことでした。
 私が何をしていたかと言えば、もちろん日々の診療です。特に胸の訴えはなかったし、胸部に関連する症状も全然なかった、ということは思い出せます。胸のレントゲンはたまたま1箇月前に撮影していましたが、そちらではもちろん気胸はありませんでした。ですから、転院直前に胸の精査をする必要性を感じていませんでした。
 もちろん「気胸があった」以上、私が見逃した可能性があります(移送途中に肺のどこかが破裂したのでない限り)。ならば「見逃さない」ためには何をすればよかったのか、と考えても結論は出ませんでした。強いて言うなら「毎日レントゲン撮影」ですが、それは非常識な解決法にしか思えないのです(不必要な被曝ですし、それだって、撮影直後に気胸を起こしたら24時間放置したことになります)。見苦しい自己弁護、と言われても仕方はありませんが。
 その話を聞いた直後に、入院患者のμ2さんの胸のレントゲンができあがりました。μ2さんはこの1箇月で2回目の尿路感染症で、尿路系の精密検査が必要だと思っているのですがなかなか条件が合わず延び延びになっていて、今回はなぜか咳や痰もあったため、「ふだんからむせも軽くあるし、まさか誤嚥性肺炎も?」と思って血液や尿検査と一緒に胸写もオーダーしたのでした。見ると、肺炎はありませんが、軽い気胸が。一瞬めまいがしましたが気を取り直します。刮目して名前を見直しますが「μ2さん」で「μ1さん」ではありません。これはもう合わせ技で肺と尿路系とをいっぺんに診てもらうしかないでしょう。気胸そのものはまだ軽いので安静で改善する可能性もありますが、もし悪化したら私の病院では管理が困難なので、悪化してから慌てるよりも軽いうちから濃厚治療が可能なところで診てもらっている方が安心です。
 で、話がややこしくなりました。実は「μ1さん」と「μ2さん」、同姓同名ではありませんがちょっと似た名前なのです。しかも「気胸」という共通のキーワード。おかげで、話を途中から聞いた人たちは両者を混同してしまって病棟に軽い混乱が。私はそういったのは一切無視して最善の選択肢と思われる病院を手配し本人と家族に説明することに専念していましたけれどね。
 しかし、今回は「見逃し」をせずに済んでよかった、と思います。もちろんこんどは別の病気を見逃しているかもしれませんが。

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2012.02.10 18:26 |  医療制度 / 行政  |  おかだ  | 推薦数 : 2

特級の医者

宮城「民間投資促進」岩手「保健・医療・福祉」復興特区認定」(河北新報)
岩手県の保健・医療・福祉特区は、病院や介護老人福祉施設の医師ら医療従事者の配置基準を緩和し、被災地の医療体制の確保を目指す。
とあります。「医者が足りない」→「配置基準を満たせないから、病院を開けない」→「被災地の医療体制が不十分なまま」、を解決するために真ん中の「基準」の方を変えて病院などを開けるようにする。つまりは「x床の病院にはy人の医者が配置されていなければならない」という規則があるとして、「医者がy/2人しかいないからx床の病院が開設できない(するとしたらx/2床)」というところを特例で「たとえy/2人の医者でもx床の病院を開設して良い」ということにする = 「少ない医者を限度を超えてこき使うことを公認する」ということです?
 私は若い頃に最大30人の入院患者を主治医として担当したことがありますが、これは私の「限界」を越えていました。いや、ふだんの日常業務だったら問題はありません。時間はかかりますが、カルテを参照しながら仕事をすればいい。問題は緊急時です。すべての患者の病状・全身状態・アレルギー歴・既往歴・家族関係・現在の治療方針・最新の検査データ、などが頭に入っているだけではなくて、瞬時にそれらが頭からするする出てきて体を動かしてくれないと最善の緊急時対応になりませんが、30人だとそこに自信がなかったのです。そして、そういう思いを持つことだけでもストレスでした。
 現在は主治医として担当しているのは二十数人ですが、加齢によって私の能力は目減りしていますからぎりぎりの所で毎日勝負している、といった感じです。
 で、上に紹介された「特区」になると、医者一人で何人患者を診ることになるんでしょうねえ。入院だけではなくて外来も検査も(外科だったら手術も)あるんでしょ?  もちろん時間外やら緊急も。私だったら一瞬で燃え尽きるか医療事故を起こして訴訟に巻き込まれるか、になりそうです。もしも私に向かって「きちんと仕事をしろ」と言われるのでしたら、「どの程度までならきちんと仕事ができるか」の“限界”の見極めもしておいた方が良いと思いますよ。もちろん医者のためではなくて患者さんのためにね。「特区の医者」は私よりはるかに優秀で体力抜群な人ばかりで、楽々と仕事をするのかもしれませんが。


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2012.02.10 06:43 |  開業 / 病院経営  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 1

応援団

 私が高校時代に不思議に思ったことは多々ありますが、その一つが応援団の存在意義です。私の学校では、体育祭とか運動部の体外試合の時にはずいぶん大きな態度で目立っていましたが、ふだんのグラウンドではどこにいるのかわからない存在でしたから。“本番”の時だけ目立つ行動をして注目を浴びるとは、ふだんから黙々と練習をして試合に備えている運動部員の立場は?と思ったのです。日常の練習の時から練習をサポートすること、それが「応援」の本質ではないかなあ。そういった日常的な努力をせずにいるのは、他人が努力してしつらえた“舞台”の良いところ取りでしかないと思っていたし、今も思っています。
 つまり、“本番”だけではなくて、日常的な目立たない部分への実質的な“応援”をする「応援団」があっても良いのではないか、というのが私の感覚です。
 で、学校の運動部ではなくて病院でも「応援団」は必要ではないかと私は感じています。現在の病院はどこもほとんどはぎりぎりかつかつの状態で運営をしています。するともしかしたらこれからの数十年の間の“生存競争”で、そういった「応援団」がついているかどうかが、病院の生死を分けることになるかもしれません。
 「病院の応援団」と言っても、たとえば手術室で「手術、がんばれ」とチアリーダーが踊っているとか、外来待合室で「おっす」と言いながら太鼓を叩いているとか、そんなことを期待しているわけではありません。
 病院に必要なものは(というか、ほとんどの企業に必要なものは)人・もの・金・時間・情報です。すると「この地域にはこんな病院が欲しい」という地域のNPOやボランティア団体がそういった方向になるように病院を支援するとか、スポンサー企業が金を出して病院で広告活動をするとか、そんなことが始まると本当の意味での「地域の中での病院」が誕生するかもしれない、と私は思っています。もちろん「こんな病院は要らない」という意見表明でもいいです。だったら他のところに資源を集約できて助かりますから。

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2012.02.09 18:41 |  その他(一般)  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 1

若い頃の話

 「記者クラブ制度にあぐらをかいた記事」や「記者クラブ制度そのもの」に対してあちこちから批判がありますが、その批判に対する“反論”がありました。
 「記者クラブについて書いておこう」(西島雄造/あらたにす)
新聞批判はしばしば、ここに書かれているように「役所から大量に流れ出てくる当局情報に寄りかかってしまう」記者クラブという書き方に収斂しがちである。官報の垂れ流しといった表現も目につく。私はこうした批判に出くわすと、この人は新聞記者としての取材経験がないか、記者の仕事をよほど甘くとらえているに違いないと思うことにしている。
と「1/3」に書かれているのを読んで、思わずわくわくと期待してしまいました。「記者クラブに属していても、記者は非常に熱心にきちんと現場の取材をしているんだぞ」という主張が「2/3」「3/3」で出てくるに違いない、と思いまして。もちろん私には「新聞記者としての取材経験」はありませんから、“記者の実像”をその経験者から教えてもらえるのは大歓迎なのです。そして、喜んで私の“思い込み”を訂正いたしましょう、と思います。
 で、読んでみたら、肩すかし。なにしろここに登場するのは「武見太郎」が現役時代の「40年前の厚生省の記者クラブでの自分の体験談」なのですから。要約するなら「おれの若い頃には、汗水垂らして走り回ったものだ。どうだ、すごいだろう」のただの自慢話(というか、この程度で自慢話になると思う感覚に私はついて行けません。ち〜っともすごいとは思えない程度の行動に過ぎませんから)。
 たとえば私が「おれの若い頃には病院ではこんな風に仕事をするものだった」と言い立てても、それはあくまで「おかだの若い頃の話」です。でも、今の医療に重要なのは私の思い出話(や自慢話)ではなくて、「今の医療現場で実際にどのように仕事がされているか」です。西島さんがいくら「おれの若い頃には」と言っても「現在の記者クラブ所属の人間がどのように仕事をしているか」「その結果どのような記事が生産されているか」「それが世界にどのような影響を与えているか」に対して言及がなければ、何の意味もない文字の羅列でしかありません。あ、訂正。「何の意味もない」は言い過ぎですね。少なくとも書いた人は「自己満足」はできるでしょうから。
 しかし、ここで「問題」になっているのは「記者がちゃんと調査報道をしているかどうか」なのですから、その“主題”にふさわしく、思い出にふけっているのではなくて、“現実の現場”(現在の記者クラブでの記者たちの取材ぶり)をきちんと調査するか、さもなければ現在の多くの新聞記事を分析して「ほら、記者クラブ経由の記事も発表原稿ばかりではないだろう?」と証明してみせるか、どちらかをして欲しかったなあ。「おれの若い頃の話」は、先輩に言い返せない後輩相手にでも開陳していてください。何の義理もない赤の他人は、よほど面白い話でなければ、ただの時間の無駄、としか思いませんよ、というか、思いました。

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2012.02.08 18:49 |  映画 / 音楽 / 読書  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 0

くっつくやまい

 「理屈と膏薬は、どこへでもつく」ということばがありますが、実は「病」もけっこういろんなものにくっついています。
 私が初めて「『病』というものは何にでもくっつくものだ」と意識したのは、「ホームシック」という単語に出会ったときでした。日本語だと「故郷が恋しい病」でしょうか。国語辞典には「懐郷病」なんて単語もありますが、「かいきょうびょう」と言われてすぐにそれが「ホームシック」のことだとわかる日本人はどのくらいいるのかな?  「海峡病って、なんだ?」と反応されそうな気がします。
 「ホームシック」は「日本語」ではありませんが、日本語ならたとえば「五月病」がありますね。五月が病気になるとは大変だ、とは誰も思わないでしょうが。ほかにも「加速度病」「金欠病」「月曜病」「高山病」「潜水病」「ハイヒール病」などなど、まあいろいろあること。ちょっと捻ったところで「左翼主義小児病」(*1)なんてのもありました。

*1)『共産主義内の「左翼主義」小児病』(レーニン全集第31巻)レーニン 著、 ソ同盟共産党中央委員会附属マルクス=エンゲルス=レーニン研究所 編、マルクス=レーニン主義研究所 訳、 大月書店、1959年(72年19刷)、1500円
 執筆は1920年ですが、ここでレーニンが盛んに攻撃している「小児病患者」は、ドイツ共産党(左派)です。「ブレスト講和」でドイツ共産党左派が「ドイツ帝国主義者」と“妥協”したのが、お気に召さなかったらしく、もうけちょんけちょん。その攻撃の熱心さを読んでいると、ある種の子供のひたむきさも私は連想します。

 そうそう「臆病」は「臆の病」でしたっけ?

 最近は「症候群(シンドローム)」が「なんにでもくっつくことば」として愛用されているようです。「のび太ジャイアン症候群」「ピーターパン症候群」「サンドイッチ症候群」「スパゲッティ症候群」「空の巣症候群」「チャイナ・シンドローム」「アクチベーション・シンドローム」「メタボリック・シンドローム」……思い出しながら書いていてきっとこういったのをまとめたサイトがあるはず、と検索してみて……まあどんな気分がしたかは、ぜひ皆さんもご自分で見つけて読んでみて、同じ気分を味わってください。人間の“想像力の豊かさ”を、たっぷり味わうことができます。


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2012.02.08 06:49 |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  おかだ  | 推薦数 : 1

帳尻は合う?

キョーリン製薬HD:架空投資話で前会長が巨額詐取被害」(毎日)
 製薬会社は「杏林製薬」で、持ち株会社は「キョーリン製薬ホールディングス」だ、ということを私はこの記事で初めて知りました……ということはともかく、「JTが都内に持つ3200平方メートルの土地を購入して転売すれば30億円の利益が出る」という詐欺に引っかかって30億円の被害……結局詐欺師の側に「30億円の利益」がちゃんと出たわけですね。
 ……計算、間違ってます?
 しかしその土地に80億(110億?)の価値があるのだとしたら、それをコインパーキングにしているJTも太っ腹ですねえ。せめて固定資産税分くらいの収入が上がっているのでしょうか?

 


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2012.02.07 18:59 |  その他(一般)  |  おかだ  | 推薦数 : 0

文字通り(2-41)「鶏」

「地鶏」……飛んでいたら天鶏
「鶏飯」……鶏のご飯
「銀鶏」……銀無垢の鶏像
「鶏群の一鶴」……自己評価はみにくい鶏の子
「鶏口となるも牛後となるなかれ」……肛門になる(あるいはそのそばにいる)のは嫌われる
「一番鶏」……優勝おめでとう
「鶏冠」……戴冠をした鶏
「烏骨鶏」……鶏だと思って解剖をしたら、あらびっくり
「参鶏湯」……俺も入れろと浴場に鶏がやってきた
「牛刀をもって鶏を割く」……大は小を兼ねる
「鶏は三歩歩けば忘れる」……三歩が数えられるうちはまだ大丈夫


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2012.02.07 06:59 |  診療  |  映画 / 音楽 / 読書  |  その他(一般)  |  おかだ  | 推薦数 : 1

音楽療法

 音楽には不思議な力があります。人を落ち着かせたり、逆に鼓舞したり、気分や感情や雰囲気にダイレクトに作用する力が。
 古代から人類は音楽を様々な目的で使ってきました。たとえば宗教や儀式の場で音楽は重要です。キリスト教教会でのミサ曲とかバリ島のケチャなどのレコードを聴いていると「現場にいたら魂が洗われるんだろうな」と思うことがありますし、仏教の声明でも似たことを感じます。録音を聞くだけで軽いトリップ感覚が味わえますから。

 世の中にはいろいろ変った(世間にはあまり知られていない)職業がありますが、「音楽療法士」もその一つと言えるでしょう。音楽の効果を“治療”に使う人たちです。

参考サイト:「音楽療法WEBガイド

 このサイトを読むと、本当に様々な領域で音楽療法が用いられていることがわかります。私は精神科や心理学の領域での芸術療法の一環としての音楽療法は知っていましたが、それ以外にもけっこうあることには驚きました。
 音楽療法について述べた本はいろいろありますが、『音楽と感情の心理学』(P・N・ジュスリン&J・A・スロボダ 編、大串健吾・星野悦子・山田真司 監訳、誠信書房、2008年(10年2刷)、5600円(税別))
の第4章「音楽と感情──音楽療法からの展望」はなかなかスリリングなものでした。そもそもこの本はタイトルの通り「感情」と「心理学」を扱ったものですが、「音楽心理学で最も権威ある『音楽の心理学』には感情に関する章がなく、最も広範に感情を扱った『感情のハンドブック』には音楽の章がない」なんて挑発的な文章から始まる刺激的な本なのです。
 もうちょっと“穏やか”な入門書、たとえば『音楽療法のすすめ ──実践現場からのヒント』(小坂哲也・立石宏昭 編著、 ミネルヴァ書房、2006年、2200円(税別))なんてのもあります。実践している人の本だからか、わかりやすいものでした。

 そうそう、「がん生検時の疼痛緩和に音楽や外部音遮断は有効?」(MTPro)という面白い記事もありました。残念ながら音楽が不安や疼痛を軽減する、とは言えなかったようですが、生検時の収縮期血圧の上昇を抑える作用はあるようです。それと、この記事を読むことで「生検時に患者さんは不安や疼痛を感じている」ということに改めて気がつく医療者もいるかもしれません。だとしたらこの研究で使われた音楽も無駄ではなかった、と言えそうです。

 先日、μさんという患者さんと話していたらご自分の音楽体験を教えてくれました。μさんは脳卒中後遺症で重度の右片麻痺になっています。それでもアクティブにいろいろな活動をされているのですが、好きだった楽器演奏は片手では難しくて「私がピアニストだったら、左手一本でも弾ける曲があるのになあ」などと言われていました(たしかに「左手のためのピアノ協奏曲」(ラヴェル)、「ピアノ協奏曲第4番/左手のための」(プロコフィエフ)、「パレルゴン」(リヒャルト・シュトラウス)、「ディヴァージョンズ」(ベンジャミン・ブリテン)、「ピアノ協奏曲」(コルンゴルト)、「左手のための2つの小品(前奏曲、夜想曲)」(スクリャーピン)などがあります。日本では舘野泉というピアニストがその分野では有名だそうです)。それでもμさんは音楽を楽しもうと、ある日好きな交響曲を大音量で聴きながらその総譜を目の前に広げて読んでいたのだそうです。で、譜面をめくろうとしたら、動かないはずの麻痺側の右上肢が音楽に合わせてぴくぴくと動いているのに気づいた。これまで何年も動こうとしていなかったのに。これまでもその曲は何度も聴いていましたが、右腕は動きませんでした。ただ、総譜を集中して見ていたのはその時が初めてだったのだそうです。耳と目を同じ音楽に没入させることで、脳内に何か新しい回路が開通したのかもしれません。

 音楽には不思議な力があります。

 

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2012.02.06 18:43 |  医療制度 / 行政  |  映画 / 音楽 / 読書  |  社会・歴史  |  おかだ  | 推薦数 : 1

非常に役に立たない

 大災害の時に限らず、日常生活でも人間というのはけっこう簡単に頭に血が上るものですが(簡単に頭に血が上る人がいますが)、どんな時でも冷静沈着な人もいます。これは貴重な資質と言えます。ただ、「冷静」なのではなくて「鈍いだけ」だと、結局役には立たないのですが。

 ところで「非常時に役に立たない組織」というものもあります(「時」は取った方が良い組織もあるでしょうが、話が別になるのでここでは触れません)。
 私がすぐに思いだすのは、直近の東北大震災・福島原発事故のときの日本政府の対応(もちろん阪神淡路大震災のときのもセットで)。BSEの時の英国政府の対応(もちろん日本政府のBSE(や口蹄疫など)への対応もセットで)(*1)。エイズが知られるようになってしばらくの間のアメリカ政府の対応(もちろん日本政府の対応もセットで)(*2)。「SARS」や「新型インフルエンザ」の時の日本政府の対応。

 以上の“サンプル”から“一般解”を導くと「官僚組織は非常時には役に立たない」となりそうです。
 どうしてこんなに政府や官僚組織というのは「非常時」には役に立たないのでしょう。それも日本だけではなさそうなので、「官僚組織」に関してグルーバルな視点から何らかの“一般解”がありそうです。
 ここで「どうして官僚(組織)の動きはお粗末なのか」を考えるときに、大まかに二つの着眼点があります。ひとつは「官僚(個人)がアホだからきちんとした対応ができない」と「個人」に注目する。もう一つは「組織そのものが内包する弱点ゆえに、どんなに優秀な人間を集めても、組織としての対応がきちんとできない」という「組織」に注目する考え方。
 そこをもう少し深く、「どうして非常時に組織の動きはお粗末なのか(お粗末な動きしかできない組織があるのか)」を追究した本があります。『エイズ・ディザースター』というタイトルですが、副題が「ニューヨーク市と国の失策」とそのものずばりです(*3)。
 この本では「組織」は「不完全な道具である」と定義されています。そして「組織は多くの時間をかけても、正当な目的を達成することができないが、その目的はかならず明快で合理的な言葉で述べられているので、人はそれにまどわされる。」と辛辣なことばが並んでいます。いや、これはアメリカについて述べた本ですよね。
 ただし「すべての組織」が「不完全な道具」ではありません。「きちんと機能する道具」もあります。では「不完全な道具」の不完全さはどこからくるのでしょう。
 『エイズ・ディザースター』ではいくつかの要素が指摘されています。たとえば「その組織の目標がゆるやかにしか定義されていない」「個人のイデオロギーや信念を無視できない」「みんなが心から同意した目標から組織をそらしてしまうような偶然、事件とか、予期せぬ相互作用がたくさんある」。
 この本によると、「平時だったら、なんとかボロを出さずにやっていけるだけの組織」は最初から「不完全な道具」にすぎない、ということのようです。だけど、平時に「とても上手く機能している行政組織」でさえ、「縦割り行政」であちこちに「すきま」や「溝」があるわけ(みなさん、これはよくご存じですよね)。まして“非常時”には、見慣れた風景は破壊され、要するに廃墟が一面に広がっているわけです。「縦割り行政」が上手く機能できるスペース(日常)は「非常時」には非常に少なくなっているのです。つまり「縦割り行政」そのものが「非常時には役に立たないように制度設計をしてみました」という主張なのでしょう。

*1)『死の病原体プリオン』リチャード・ローズ 著、 桃井健司・網屋慎哉 訳、 草思社、1998年(2001年16刷)、1900円(税別)
 「真犯人はイギリス大蔵省だ」というヒュー・フレイザー博士のことばがこの本にあります。BSEが初めて発見されたときに、適切な補償を出したり流通を禁止した汚染飼料を買い上げたりしておけば大きな問題にならなかったのに、禁止令だけ出して監視も罰則もなしですませたものだから、結局汚染飼料は流通し続け、BSEは拡大した、と。

*2)『そしてエイズは蔓延した(上)』ランディ・シルツ 著、 曽田能宗 訳、 草思社、1991年、2854円(税込み)
 『そしてエイズは蔓延した(下)』ランディ・シルツ 著、 曽田能宗 訳、 草思社、1991年、2854円(税込み)
*3)『エイズ・ディザースター ──ニューヨーク市と国の失策』チャールズ・ペロー 著、 浜谷喜美子 訳、 石川寛俊・松下一成 監訳、 1994年、2548円


 ならばどうすればいいか。まずは「自分たちの組織が不完全である」ことをふだんから前提にすること。つまり「官僚組織は“不完全な道具”でしかない」と明確に認識する。その上で組織の構成員が、学ぶ意欲を持ち実際に行為として学ぶことでしょう。歴史や先人や自分たちとは違って上手く非常事態に対処している組織から、学ぶ(つまり、用心深い医者が「失敗」に備えておくように、官僚組織も「非常時」を想定して準備をしておく……「自分は失敗しない」と信じているお偉いお役人には無理かなあ……)。
 それと「不完全な道具」を使う側の「使い方」も問題となるでしょう。
 「人は間違いを犯す存在である」を前提として、医療安全を私は考えています。すると「官僚組織は不完全な道具である」を前提として、ふだんの行政と非常時の対応とを分けて考える必要がある、ということになりそうです。それは政治家の仕事?  それとも、主権者の仕事?(「お上にお任せ」と言っていたら、駄目ですよねえ)

 そうそう、こんなことばもあります。
・「自分が理解もしていないことでなんらかの決定をしなければならないときには、自分の良心に恥じないようにすべきだ」(アラン・ディッキンソンのことば)(出典は(*1))
・平凡な人間でも、平凡な突き破る道が一つある。それは、自分自身の能力の限界を冷静に見極め、自分一人でなにもかもやろうとせずに他者にまかせることの重要性を認識したときに目の前に開けてくる。(出典は(*4))

*4)『十字軍物語2』塩野七生 著、 新潮社、2011年、2500円(税別)


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