人は生まれてしばらくはオムツのお世話になります。そして、悲しいことですが、死ぬ前にもオムツのお世話にならなければならないことがあります。
私は老人病棟で紙オムツが使われている光景を、かつて日常の風景として眺めていました。そこで、その紙オムツを自分でも体験しておこうと考えました。これは「自分が他人に行なう医療的な行為はすべて医者である自分でも体験しておくべきだ」などというご立派な考えからではありません(もしこれを本気でやるとなると、手術などの血が流れるようなあるいは放射線療法のような下手すると自分の健康や命に関わる医療行為もすべて我が身で味わわなければならないことになり、とても私の身が保ちません)。知らないから知りたい、というまったく単純な好奇心からの思いつきだったのですが、もしかしたら実際の仕事の上で役に立つヒントが得られるかもしれない、という勘定高い目論見もあったのかもしれません。まあ人の心の深淵は自分でもわからないものですし、案外それほど深い意味はなかったのかもしれません。
私は現物を手に持って、まず看護婦さんやケアワーカーさんに絶対に尿を外に漏らさないような付け方のコツを習いました。自分の子どものオムツ交換は散々やってますが、大人用はどうも勝手が違いますから、まずは慣れた人にしっかり教わっておくべきでしょう。貴重な情報が無料で手にはいるのですから使わない手はありません。特に今回はオムツをつけてその上にズボンを履く予定ですので、絶対に漏らすわけにはいかない、と私の顔はすごく真剣だったことでしょう。
さて、パンツを脱いでオムツを当ててみると、どうもごわごわします。股の間の異物感と動作時のがさがさ感が、とっても邪魔です。履いただけでこんなにとまどいを感じ情けなく思うとは、私は自分が意外に弱いことがわかりました。
さて、排尿ですが……できません。当直室のベッドに身体を横にしてリラックスをして括約筋を開こうとするのですが、幼児期からおしっこはトイレでと躾られた後遺症(?)でしょうか、どうしても出てこないのです。余談ですが、将来骨折などで身動き取れなくなってベッドで便をしなくちゃいけなくなる予定の方は、ベッドの中で排尿や排便ができるようにあらかじめ練習しておいた方が良いかもしれません。
仕方がないので体を起こし、洋式トイレに腰掛けているつもりで少し力みました。やっとちょろちょろと出始めました。それにつれてぽわんと股間が暖かくなります。ちょろちょろじょろじょろとがんばって、なんとか膀胱が空になりました。それほどの異臭はありません。健康な尿にはアンモニアはそんなに含まれていないはずだから臭くないのだな、とちょっとだけ医学的なことを考えながら立ち上がると、股間の異物感は増加しています。紙オムツの吸水ポリマーがちゃんとお仕事をして、水分を含んで膨れたのです。股間にごわごわした分厚い異物が張り付いた感じは、生理時にナプキンを使う女性ならおなじみかもしれませんが、私にはなんとも妙な感覚です。妙な初体験です。
ここでさっさとオムツを外してしまうと「上手く排泄できた、よかったよかった」で終わってしまいますから、しばらく我慢してみることにしました。布オムツと違って紙オムツは表面がさらさらで快適、というのがウリのはずですから、それがどこまで本当かを確かめてみたい、という思惑もありますし、オムツをつけたまま気がつかれずに放置されている寝たきり老人がどのように感じているのかを体験する意味もあります。
とりあえず手を突っ込んで触ってみます。おむつの表面というか内面は特に濡れてはいません。科学の勝利です。TVコマーシャルどおり「さらさら」です。歩いて吸水ポリマーに圧力を加えてみます。もしかしたら水分が逆流してにじみ出てくるかもしれない、と思ったのですが、さすがにそんなこともありません。ただ、膨れたオムツが物理的に邪魔で股関節の動きが制限されるのと、含んだ水分の重さで腰が下に引っ張られる感覚があるのにはどうも違和感を感じてしまいます。
さらに、しばらくすると別の現象が生じてきました。股間が妙にぽかぽか暖かいのです。深部体温と同じ温度の水分が放出されてゲル化して、しかもそれが体表にほぼ密着しているわけですから温度がいつまでも下がらないのでしょう。股間がごわごわしてしかもぽかぽかしているというのは……大変不快です。柔らかい炬燵を股ぐらに当てているのではないのですから。そのうち、湿った感じがでてきました。もう一度私は手を突っ込んで触ってみましたが、別に濡れてはいません。どうも、閉鎖空間で逃げ場を失った水蒸気が、オムツの内側で飽和状態に達してしまったようです。ゲル化しているとは言っても水分は水分ですから、水蒸気の供給に不足はないのでしょう。
ずしりと重くてなま暖かくて湿気ている股間……これはたまりません。
それでも私はしばらく耐えましたが、結局排尿後一時間経ったところでギブアップをしました。暖かくて湿ったコンニャクを股間にずっと貼り付けているような不快感にはもう耐えられなくなってしまったのです。私は軟弱者です。
本当は大便の方も体験するべきなのでしょうが、根性無しの私はもうギブアップでした。「今は便意は無いし」と誰に向かってか一人呟きましたが、さて、それは本当でしょうか?
もっとも、「やる以上はちゃんと大便までやるべきだ」と主張される方がおられたら、どうぞ志願してください、というか、一人で勝手にやってみて下さい。紙オムツさえ手に入れば誰でもどこでも試すことはできるのですから。きっと貴重な体験ですよ。
※昨日のエントリー「産む体位」を書いたことで、前世紀に自分が紙オムツの体験をしていたことを思い出しましたので、当時のメモを探し出してまとめてみました。
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TVで料理番組を見ていたら、鍋の中の白っぽいソースに何やら黒いものを加えて泡立て器でぐるぐるかき混ぜ始めました。画面には鍋の中が大写しになっていて、泡立て器をアップで追いかけてくれます。目が回って気持ち悪くなってきました。鍋の中をアップで写す必要があるとしても、回転する泡立て器を追いかける必要があるのですか?
スポーツ番組を見ていたら、ゴルフでも野球でもやたらと「球の大写し」をやってくれます。
ゴルフだったら画面の真ん中にゴルフボールがあって、選手がドライバーですこーんと打ったらカメラがそのボールをアップで追いかけます。下手すると球筋とかコースの全体像が全然わかりません。
野球だったら、スロー再生のところで、ピッチャーがボールを握った手のアップで始まり投球動作からミットに収まる(あるいは打たれる)までずっとアップで写そうとします。球は画面の真ん中ですが、腕は下がったり上がったりしてびゅんと放るのですから回りの光景が揺れて揺れて、船酔いをしそうです。球の握りがわかるという利点はありますが、もうちょっとピッチャーとキャッチャーとバッターの駆け引きを楽しませてくれませんか? 無いものねだりになるかもしれませんが、できることなら、野球場にいる時と同じように、野手の守備陣形や球筋によるその変更なんかも見せて欲しいものです。
もちろん激しく動く泡立て器や球をずっとレンズが画面中央に捉えてしかもピントを合わせ続けているのは、プロのカメラマンとしては凄いことをやっているのでしょう。
だけど一視聴者としては、泡立て器や球のアップを見つめたくてTVを見ているわけではないのです。まあ、そんな人もいるのでしょうが、私は「料理」や「スポーツ」を見たいのです。カメラマンの腕自慢は要りません。
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産科は英語でobstetricsです。ラテン語のobstetrixは「産婆」で、obstareは「前に立つ」。すると古代ローマのお産は、座位で行われていたのであろう、が私の推測です。産婦が寝ていたら「前」には立てませんから。もちろん立位でも産婆が「前に立つ」ことは理論的には可能ですが、赤ちゃんが文字通り「産み落とされる」ことになって危険そうです(そんな体位で産む文化も世界にはある、とは聞いたことがありますが)。
ところで、今の日本の産科では仰臥位が主流ですが、あれって力みやすいのでしょうか? 私が紙おむつを体験した時には、寝た状態ではとても力めませんでした(あれで足を上げたらもっと腹筋がゆるみそう)。というか、尿でさえ最初はなかなか出せませんでした。やっぱり座った方がお腹からはものを出しやすいように感じます(トイレではないところで排便することに対する禁忌が無意識に働いて括約筋を過剰に緊張させていたのかもしれませんが)。
赤ちゃんはものではない?
物ではありませんが者ですから同じように扱っちゃ、駄目かな?
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文部科学省は2001年に「科学技術基本計画」を発表しました。いろいろもったいぶったことばが並んでいますが「2.21世紀初頭に我が国が目指すべき国の姿と科学技術政策の理念」の中には「具体的には、国際的に評価の高い論文の比率が増加、国際的科学賞の受賞者を欧州主要国並に輩出(50年間にノーベル賞受賞者30人程度)、優れた外国人研究者の集まる研究拠点が相当数できること等をめざす。」とあります。例によって抽象的でなんとも不明瞭な文章です。たとえば上記の文中で一見もっとも具体性のありそうな「50年間にノーベル賞受賞者30人程度」だけに限定してもまるっきりぼろぼろ。ちょこっとそこだけでも解析してみましょう。
「50年」をいつからカウントするのか明記されていない(特に基礎研究の場合、その結果が出たり評価が確定するのは論文が発表されてからずいぶん先です)/「ノーベル賞」のどの賞かが明記されていない/「30人」が日本人なのか、日本で研究した日本人に限定なのか、外国で研究した日本人も含めるのか、日本で研究した外国人も含めるのか、外国に国籍を変えた元日本人も含めるのか、業績を上げてから日本に国籍を変えた元外国人も含めるのか、が明記されていない(もしかして少しでも「日本」に関係があったら全部カウント?)/数値目標っぽいのに「程度」がついている(これがたとえば「以上」なら私は(数字はともかく日本語としては)OKですが……)……さてさて、結局何を言いたいのか「具体的」にきちんと何が伝えられています? 私には杜撰さしか伝わってきません。
今回のノーベル賞受賞のめでたい騒ぎで文部科学省は「具体的」に「ノーベル賞受賞」を何人とカウントするのでしょう? 物理学賞の益川さんと小林さんは「日本の業績」でカウントしてよいでしょう。でも化学賞の下村さんと物理学賞の南部さんの研究の地盤はアメリカです。つまり「日本の業績」ではなくて「アメリカの業績」。南部さんにいたっては国籍もアメリカです。
さて、何人?
科学技術基本計画は「日本の科学技術の環境のレベルアップ(優秀な人が頭脳流出をしなくてもすみ、日本でばりばりと業績を上げられるような研究環境の整備。個人的にはサンタフェ研究所のようなものが日本にできて欲しいと切に願います)」を目指す計画のはずですが、それをする前に、「基本計画を作る人の(知識と日本語と教養と論理と視野の広さの)基本的なレベルアップ」をしておかないと計画倒れ(言いっぱなし)になるのがオチじゃないかしら。
ところで、基本計画が閣議決定されて7年間、「日本のレベル」はどのくらい上がっています? 「今年“日本人”が4人もノーベル賞! 日本の科学技術の将来はこれで安泰」「2001年からの8年で7人だ。最初の10年の“ノルマ”はクリアできた!」「いやいや、1年で4人だから50年に直せば200人だ!」なんておめでたいことを言ってるようでは駄目ですよ。
※蛇足です。今回の記者会見などを見ていて思うのですが、せめて「反物質の作り方」「対象性が破れなかったらどうなっていたのか」「クオークがなぜ4種類ではだめで6種類必要なのか」「素粒子研究がなぜ宇宙論につながるのか」などの回答を素人にもわかる平易なことばで引き出せる知的なインタビューアーを配して欲しい、と感じました。学者には「素人にわかる平易なことばで」が苦手な人は多いから、そこを“翻訳”してみせるのが学者と素人の間に入ることばのプロの腕の見せ所でしょう。あるいは学術ではなくてもっと柔らかい話題たとえば人間関係を聞くのなら、私だったら(「クオーク」の名付け親の)ゲルマンとの交友がどの程度かとかにも興味があるんですけどねえ。
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私が若い頃働いていた県立病院は赤字が問題で、そのことで院長は定期的に県庁に呼び出されていました。「明日は議会で赤字について説明しなきゃいけないんだ」とげんなりした顔でぼやいていた姿を私はお気の毒になあ、という思いとともに覚えています(私は下っ端だったから、お気楽だったのですが)。だけど、病棟は常に満床で外来にも患者が溢れていてそれで赤字になるのは、院長のせいではないとも思っていました。だって当時の院長には明らかに実質的な人事権も予算編成権もなかったのですから。(医者の人事は大学が、それ以外の人事は県庁が、予算は議会が握っていました)
民間病院は企業ですから、赤字はまずいでしょう。でも公的病院では経済オンリーではないちょっと違った角度からの政治的判断も必要だと私は思っています。
たとえば経営者や管理者の放漫経営が原因の赤字は、これは民間でも公立でも完全に駄目です。だけど、たとえば県の中核病院で、他の民間病院では不可能な(あるいはコストがペイしないから民間では行われない)高度な治療をそこで行なっていたために赤字になった、は、県民の安全保障(いざというときのための高度な医療を準備)のためのコストとして捉えたら「黒字でないから駄目」とは軽くは言えないように思います(もちろんとんでもない巨額の赤字は駄目かもしれませんが)。
ところで……公的な行政機関や出先機関で「黒字」の所って、あるのでしょうか。現金の流れだけ見たら税務署は「黒字」ですが、あれは「税務署の収入」ではありません。
「赤字の消防署」「赤字の義務教育」「議会が赤字なのは問題だ」って、ふつう言いませんよね? 「自衛隊の赤字は問題だ」とも言いません(そもそも消防署や学校や自衛隊が黒字か赤字かは問題になりましたっけ?)。道路やダムはお金を使えば使うほど出先機関は本省から褒められます。ああそれなのにそれなのに、公的病院は黒字にしないと怒られるのです。
なぜ?
「現金収入」があるからかな? だけど、「安全保障」の分まで赤字・黒字で判定して良いのでしょうか?
アメリカの保険制度では、病院が黒字であることだけではなくて保険会社も黒字であることが求められます。医療費が高くなるわけです。おっと、実は病院の経営状態はどうでも良いのかもしれません。保険会社から見たら病院なんか取り替えのきくコマでしかないでしょうから。「赤字の自治体病院なんかどんどん潰せばいい」という人から見ても、病院はきっと何かの(おそらくは自分の政治的な主張を実現するための)コマでしかないのでしょうね。
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「人の不安」は商売のよいネタになります。たとえば老後への生活不安は積立貯金や個人年金という“商品”を生みました。これは真っ当な商売といえますが、私から見てあまり真っ当とは言いにくい商売もけっこうこの世にははびこっています。
たとえば、病気への不安を使って、あるいはことさらあおることでの怪しげな健康食品や健康器具の販売。
私は外来でよく「人に勧められたんだけど、○○って、健康に良いんでしょうか?」と聞かれることがあります。成分が表示されていてそれが薬との悪い相互作用がないものだったら「その味が好きでお金に余裕があるのだったらお好きにどうぞ」と答えます。でも、訳のわからない原理を主張する健康器具や正体不明の健康食品の場合は「ここにセールスマンを連れてきなさい。主張の根拠がわからないので、詳しく問いただしたいから」と言うこともあります(いつも言うわけではありませんが)。ちなみにそれで私の外来に売り込みに来たセールスマンは、まだいません。しかし、健康食品にぽんと1万円払う(そしてそのことを自慢そうに言う)人が、医療機関での3000円に「高い」と文句を言うのを見ていると、なんだかなあ、とも思いますな。
子どもの将来への不安を商売のネタにしているものもあります。教育産業にも、真っ当なものも真っ当ではないものも混じっている様子ですが、これをきちんと見抜くのには相当な眼力と覚悟が必要でしょうね。
ということで、もしも新しい商売を興したかったら、新しい心配のネタを見つけてそれを社会的に煽ればよい、ということになりますね。上手くやればぼろい儲けになるかもしれません。それで嬉しいか、子どもに向かって「父ちゃん(母ちゃん)はこういうことで儲けているんだよ」と堂々と言えるかどうかは、話が別ですが。
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ブログを始めてはやくも11ヶ月め、この夏までは順調にアクセス数が伸びましたが、暑くなってからは大体1日に700〜1000、たまに1000アクセスを越える日があるけれどそれは月に5〜7日くらい、で安定モードに入っていました。それが先月末からアクセス数が増えています。先月29日から一日アクセス数1000以上が10日間も連続し、アクセスランキングも先月には33〜35位のあたりで落ち着いていたのがごろごろ転がっていつのまにか27位。
アクセス数が増えたのは単純に嬉しいし励みになりますが、なぜ増えたのかがわかりません。
……私、なにか問題発言でもやらかしましたか?(自覚症状ナシ) 急にアクセスが増えた9月29日の記事は死語シリーズの「ミネソタ・コード」というきわめて地味な話題だったんですけどねえ。
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『ローマ人の物語』(塩野七生)の第III巻「勝者の混迷」に紀元前5世紀頃の古代ギリシアのアテネでの奴隷の値段ランクが載っています。高い順に並べると……
1 熟練技術者
2 一般職人(店長、職人、芸人)
3 舞踏や奏楽の技能を持つ女奴隷
4 家事従事の男女奴隷
5 非熟練労働者(農園や鉱山)
6 子供の奴隷
奴隷のピンとキリの値段の差が40倍。値段の差はともかく、並んだ順番はまあ妥当なものでしょう。私個人としては「3」がもうちょっと上でもいいんじゃないか、と思いますが、それは個人の好みの問題です。で、1の熟練技術者の売値は、最下層のアテネ市民の年収の2〜3倍。ちなみに当時のアテネ市民(両親ともにアテネ生まれの自由民で選挙権を有する成年男子)の数は4万人。店や農園の成年男子の奴隷が3万5千人、家事労働の男女奴隷が2万5千人、未成年の男女奴隷が1万人、鉱山の奴隷が2万人だったそうです。
興味深いのは1の熟練技術者の中身です。本書で例示されているのは、「医者、エンジニア、高級品製作の職人(例えば壺の絵付け師)」……なるほど、医者は奴隷だったんですね。それはそうでしょう。哲学・政治・教育などを論じることが“仕事”のアテネ自由市民が、ウンコやおしっこや吐物や血液にまみれる汚れ仕事を喜んでやるとは思えませんから。(古代ギリシアでは基本的に「手を動かす労働」は奴隷のものでした。例外的に建築や美術制作は自由市民が喜んでやっていましたが、あくまで例外です) ヒポクラテスのような自由市民の医者もいますが、それは「医学者」であって、疾病理論や教育や医の倫理を論じることはしますが、結局現場で汗をかいて汚れ仕事をするのは奴隷の役目です。その“伝統”は中世ヨーロッパにまっすぐ引き継がれます。(大学出のおえらい医者(主に内科医)が診察をして治療の指示をし、外科的処置(主に瀉血)は徒弟制度の床屋外科/薬の処方は薬種商が行う、という分業をしていました。身分として、床屋外科や薬種商は医者より一段も二段も下です。そういえば、医者が腕組みをして指示をして、看護婦さんが走り回る、という少し前の日本の姿も、似た構図ですね)
さらにこの本には古代ローマの奴隷の値段ランクもあります。
1 教師(ギリシア人)
2 熟練技術者(医者、建築家、彫刻家、画家)
3 上級技能者(交易に従事、農園経営、主人の秘書)
4 一般職人(店のマネージャー、職人、芸人、剣闘士)
5 舞踏や奏楽の技能を持つ女奴隷
6 家事従事の男女奴隷
7 非熟練労働者(農園や鉱山)
8 子供の奴隷
国としての教育水準が低いから貴族はそれぞれギリシア人の奴隷を家庭教師にして教育を受ける、というのは、国の品格が凄いんだか凄くないんだかわかりません。ともかく、教師が高かったために奴隷の値段の格差はピンとキリとで100倍にもなっていますが、医者が奴隷であることは古代ギリシアと同じです。で、紀元前1世紀のイタリア半島の人口推計では、自由民(ローマ市民権を持つ人、老人や女子供も含む)は600〜700万人、奴隷は200〜300万人。
古代ギリシアでは奴隷が自由民になることは考えられないことでした。「単一民族主義」だったのです。しかし古代ローマでは奴隷が解放奴隷になる(さらには本人あるいはその子がローマ市民権を得る)ことは珍しいことではありませんでした(だから古代アテネよりもローマの方が奴隷の比率が低いのでしょう)。ついでですが、古代ローマでの奴隷の定義は「自分で自分の運命を決めることが許されない人」だそうです。ご主人様が「お前を解放する」と法務官の前で言ってくれない限り、ずっと奴隷のままなのです。ただし、いろいろな意味で“改革者”であるユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は「教師と医師にはローマ市民権を与える」と法で定めました。「国の礎は教育と医療であり、それは奴隷ではなくて自由な市民にやらせた方が結局国のためになる」と見抜いた人は、奴隷制が「常識」だった古代にも存在していたのです。(奴隷制のない現代でさえも、そのユリウス・カエサルの意図と行動の意味を理解できない人間がいるのにはげんなりですが)
さて、今の日本の医者は自由市民でしょうか、それとも奴隷? 「もちろん自由市民だ」と胸を張って主張したいところですが、政府やマスコミの一部は「医者の自由意思」が大嫌いのようです。「休むな」「休日も働け」「深夜も働け」「救急車は断るな」「不平を言うな」「医療費抑制のお達しには素直に従え」「指示したところ(田舎や医者が足りない分野)で働け」と言いたい、つまり「こうしろああしろ」と言ったら四の五の言わずに「へへ〜」と従うことを要求しています。つまりは医者を「奴隷扱い」したいわけ。では、日本の医者は古代ギリシアかローマか、どちらの扱いを受けるのでしょう? まあ、どちらにしても奴隷であることは同じなのですが……いや、違います。解放の可能性のこともありますが、もう一つ。古代の奴隷には、権利はありませんが義務もありませんでした。あなたと同等の権利を持つ「市民」ではないのですから、当然「市民」として果たすべき義務もないのです。ですから軍務(自由市民の最大の義務)も税金をおさめる義務もありませんでした。でも今の日本の「奴隷」は「権利は認めないぞ、でも義務はしっかり果たせ」と要求されます。さらにいうなら、その奴隷扱い、医者だけではありませんね。「なんちゃって管理職」に代表されるような、一見自由市民だけれど「自分で自分の運命を決めることが許されない人」は、日本の社会にたんと存在しています。さらに、「ネットカフェ難民」などと呼ばれる人たちは「一見自由市民}でさえない扱いのようです。
日本社会はもしかしたら奴隷社会が近代的に偽装しているものなのかもしれません。近代社会の理念(人権、自由、平等など)の都合のよい部分だけをつまみ食いされて。
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病院勤務医に当直はつきものです。そのスケジュールは病院によって様々ですが、大きな病院では平日と休日の二本立てでまるっきり機械的に順番が回ってきます。しかし医師が10人もいないような病院では、曜日固定制(何曜日に誰が当直、が決まっている)のところが結構あります。休日・祝日はそれとはまた別の系統で当直が回ってきますが、曜日を固定してもらうと、病院の方もあまり悩まずに済みますし、こちらも自分のスケジュールが組みやすくなる、というメリットがあります。
ところがもっと小さな編成だと話が変わってきます。診療所を除くと、私の場合は今までの経験での最少人数は医師4人の病院ですが、これだと、平日の当直が週に1〜2回、土日通しの当直が月に最低1回でした。祝日があったらそちらも4回に1回は当直になります。だから当時は祝日とか連休はあまり嬉しくありませんでした。仕事が増えるだけでしたから。
それとは別の「少人数当直」もあります。
たとえば総合病院で、小児科だけは当直体制が別だて、というところがけっこうあります。「子どもは小さな大人ではない」は小児科の授業の初っぱなに習った言葉ですが、他の科の医者がたとえば小児の喘息発作や腹痛を診ても、診断はつけられないし治療しようにも薬の量の計算ができない、ということで結局小児科医を呼び出すことになります。これがまた回数が多いの。毎晩毎晩当直医に呼び出されたら、これは小児科医の方が悲鳴を上げます。そこでいっそ小児科だけ別枠にしてしまえ、という発想が生まれます。「病院の当直」とは別に小児科医が待機していて、時間外の小児患者は最初からそちらを呼ぶ、とするわけです。(当直室には正規の当直医が寝ていますから、多くの場合は宅直(自宅にいて電話で呼び出される)となります)
けっこう大きな病院でも、小児科医が二人とか三人のところはいくらでもあります。で、二人の病院だと「隔日宅直」です。病棟からもけっこう電話はかかってきますから、二人とも寝られないのではなくて、一人が病棟と外来を受け持ってもう一人は「ああ、今夜はおそらくたたき起こされることはない。幸せ」と寝られる幸福を噛みしめるわけです。で、それを一晩おきに繰り返す。
ところが、病院の事務の頭が固いと「書類上は病院の当直をしていない。それは他の科の医師に対して“不公平”である」と小児科医にも機械的に病院の当直が当てられることがあります。それが宅直の日ならまあまだ問題はありませんが(病院に泊まって、自分の病棟も診ればいいのですから)もしも宅直の谷間に当たったら?
さらに、ふだん自分の当直の時に「子どもは診ない」と言って小児科医を呼び出していた人が、その逆の立場になったときに必ず気持ちよく出てきてくれるかと言えば……
これは産科など、病棟で緊急事態が起きる可能性が多くて時間外の患者も多い科には共通の問題でしょう。では、その科のドクターが気持ちよく末長く働けるようにするために、どんな知恵を絞る必要があるのでしょうか……というか、知恵を絞る気を皆さんお持ちです? 知恵を絞るための前提条件としての現状把握を具体的にする気も皆さんお持ちです?
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中国のミルク混入で有名になったメラミンですが、我が家にもメラミンが存在しているのを息子が発見しました。ごく少数のメラミン食器が食器棚にあることは私も知っていましたが、それ以外に「メラミンスポンジ」という形で。このスポンジは、水を含ませて絞ってから軽く拭くだけで汚れがみるみる取れる、という優れものなのだそうです。我が家のにはさらに重曹も最初から含まれていて、ますます効果がありそうです。ちょっと調べてみると、食器だけではなくて網戸を綺麗に掃除するのに絶大の効果、と報告しているサイトもありました。なんでも使っているうちにまるで消しゴムのようにすり減っていくのだそうです。ということは気になるのはそのカスというか飛散する微粒子ですが……
そこで、素朴な疑問ですが「メラミンって、なに? 本当に危ないの?」。
PDFファイルですが「メラミン」http://www.jetoc.or.jp/HP_SIDS/pdffiles/J108-78-1.pdf によると……
物質名は「Melamine; ,3,5-Triazine-2,4,6-triamine」で、構造式は「C3H6N6」……なるほど、「N」が多いからメラミン樹脂の原料をミルクに混ぜるとタンパク質が多いと分析機を錯覚させることができるわけですね。(そういや昭和の昔(それも相当昔)、日本のある酪農家で、牛乳を“増量”しようと水で薄めてそこにデンプンを加えて見た目を誤魔化していた、という証言を聞いたことがあります。どこでも発想は似ているんだな) で、健康情報では「メラミンの毒性は低い。反復ばく露は膀胱結石とその他の尿路病変を引き起こす。雄ラットのみに膀胱結石による長期の刺激後に膀胱腫瘍が生じる。メラミンは遺伝毒性を持たない」とあります。
「科学のQ&A」 http://sqa.scienceportal.jp/qa4345223.html には、根拠は書いてありませんが「メラミンの毒性は食塩の2倍程度」とあって、尿中で不溶化して石になることが問題、とあります。
毎日新聞の記事 http://mainichi.jp/select/opinion/closeup/news/20080921ddm003040169000c.html には「メラミンは毒性は低いとされ、米食品医薬品局(FDA)はメラミンの1日摂取耐容量を、体重1キロあたり0.63ミリグラムとしている。今回問題となった中国の粉ミルクには、最も高い製品で1キロあたり2563ミリグラム、それ以外の製品で同0.09~619ミリグラム含まれていた。」とあるのですが……これって「メラミンの毒性は低い」と言っていたはずが、「体重1キロ」と「製品1キロ」とを同じ段落に混在させることで、単純に数字だけ見る人には「今回のメラミン含有食品は大変危険」と印象づける効果を出していませんか? たとえば「1歳の乳児の体重とミルクを飲む量からの危険性の計算」は具体的にできるはずですが……まあ、毎日新聞ですから、この程度の科学センスと日本語品質の記事で十分なのかな。
※過去に「メラミン食器は危険」運動が一時ありました。私の記憶では最初は「環境ホルモンだから危険」だったのが「環境ホルモン」自体が死語になって下火に(環境省が環境ホルモンのリストをいつの間にか削除したことは以前書きました。「飲用水に医薬品残留」)。「メラミン食器からホルムアルデヒドが溶出するから危険」という意見もありましたが、実は自然食品の方がよほどたくさんホルムアルデヒドを含んでいることがわかってこれも下火に。
「危険の可能性がゼロではない(でも現実問題としては対策は不必要)」と「実際的に危険(対策を立てる必要がある)」とはできるだけきちんと区別する必要があると私は考えます。そして、こういった「運動」に関しては、節目節目に中間“決算”をするべきではないか、とも。
で「我が家のメラミン」ですが、別に“追放”はしません。食器やスポンジを食べる予定はありませんので、そのまま本来のお仕事で役立ってもらいます。
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