(注:中岡 慎太郎(なかおか しんたろう)(1838年~1867)は、日本の幕末の志士 (活動家)である。陸援隊隊長。海援隊の坂本竜馬とともに長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)の会合・盟約に奔走する。慶応3年(1867年)には藩から赦免され陸援隊を組織し、隊長となる。同年12月、京都近江屋に坂本龍馬とともに滞在中、見廻組の佐々木只三郎らに襲撃され、瀕死の重傷を負う。犯行の様子などを語り、龍馬に二日遅れる11月17日に死去、享年29歳。)
室戸岬を東に回るとすぐ室戸岬バス停で、すぐ上に大きな中岡慎太郎の銅像がたっています。この銅像を説明文を見ないで、坂本竜馬の銅像と思い違いする人が多いそうです。(注:中岡 慎太郎(なかおか しんたろう)(1838年~1867)は、日本の幕末の志士 (活動家)である。陸援隊隊長。海援隊の坂本竜馬とともに長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)の会合・盟約に奔走する。慶応3年(1867年)には藩から赦免され陸援隊を組織し、隊長となる。同年12月、京都近江屋に坂本龍馬とともに滞在中、見廻組の佐々木只三郎らに襲撃され、瀕死の重傷を負う。犯行の様子などを語り、龍馬に二日遅れる11月17日に死去、享年29歳。)
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2007年12月16日(日)四国第八十四番札所屋島寺を巡拝しました。大きな狸の夫婦が並んでいます。狸のお母さんの左の乳にはかわいい赤ちゃんが吸いついています。右の乳は、触ると乳が出やすくなる御利益があるとのことで、てかてかに光っています。私も関係ないけどタッチ。 屋島寺の箕山大真明神の狸太三郎は佐渡の三郎狸と淡路の芝衛独と共に日本の三大名狸と言われ、空海の道案内をしたと言われています。
狸といえば、お勧めの狸がテーマの面白い絵本があります。
福音館書店 :1980年
はまあるきの四国お遍路日誌
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「遍路」はたんに、巡礼のことと思っていましたが、由来を知りたくなって調べてみました。
『四国遍路と世界の巡礼』(法蔵社)(2007)の中の論文に次のような説明がありました。
「遍路」と「巡礼」はいくつも聖地を巡歴する行為。二つの言葉のうち、より広い意味をもつのは「巡礼」。「遍路」は四国の主に海岸部をめぐるというこの巡礼地の立地をさす「へち(辺地・辺路)」の語に由来すると考えられている。本来、巡礼空間ないしは巡礼空間の環境をさす語であったものが、のちにそこを巡礼する行為(および行為者)をさすようになったのである。近世までは、「辺路」と書いて、「へんろ」と読ませる表記も一般的であった。今では四国八十八ヶ所と、四国八十八ヶ所を各地にうつした症巡礼地の巡礼にカギって使われている。
『四国遍路と世界の巡礼』(法蔵社)(2007)の中の論文に次のような説明がありました。
「遍路」と「巡礼」はいくつも聖地を巡歴する行為。二つの言葉のうち、より広い意味をもつのは「巡礼」。「遍路」は四国の主に海岸部をめぐるというこの巡礼地の立地をさす「へち(辺地・辺路)」の語に由来すると考えられている。本来、巡礼空間ないしは巡礼空間の環境をさす語であったものが、のちにそこを巡礼する行為(および行為者)をさすようになったのである。近世までは、「辺路」と書いて、「へんろ」と読ませる表記も一般的であった。今では四国八十八ヶ所と、四国八十八ヶ所を各地にうつした症巡礼地の巡礼にカギって使われている。
はまあるき
はまあるきの四国お遍路日誌http://www2.ocn.ne.jp/~haguman/ohenro
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四国の室戸岬や、足摺岬で 補陀洛渡海(ふだらくとかい)が行われたことがあると聞いたので、調べてみました。
補陀洛(ふだら)とは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。補陀洛は『華厳経』ではインドの南端に位置するとされる。またチベットのダライ・ラマの宮殿がポタラ宮と呼ばれたのもこれにちなむ。中世日本では、はるか南洋上に「補陀洛」が存在すると信じられ、これを目指して船出することを「補陀洛渡海」と称した。記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から40件を超える補陀洛渡海が行われており、そのうち25件が那智の補陀洛山寺から出発している。1000年に賀上(がとう)上人が室戸から補陀洛渡海した様が、『観音講式』(貞慶[じょうけい:1155~1213]に記されている。
(私見ですが、仏教では仏さまのお蔭で今自分が有難く存在しているので、頂いた命を粗末にしてはいけないと言うのが教えで、補陀洛思想は仏教からの逸脱というべきでしょう。)
生命について:『法句経』では「人に生まるるは難く、いま生命あるは難く、世に仏あるは難く、仏の教えを聞くは有難し。」とあります。仏教はその教えから根底にニヒリズムがあるように思われがちですが、煩悩を滅することによりこの世の現実の姿(実相)を感得しようとするもので、自己否定をするものではなく一切を肯定しようとする面が強い教えです。
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大変参考になりました。
八十八ヶ所と数が決まったのは17世紀初めで、
平安時代は主に修行僧が海岸沿いに、はっきり決まってはいなかった
寺院を巡っていたそうです。
江戸時代初期の一般人の巡礼は、宿屋食事で、苦労が多かったそうです。
イギリスや、フランスや、イタリアやエルサレムの巡礼の話も興味深かったです。
「四国遍路と世界の巡礼」公開シンポジウム・研究集会
平成19年度愛媛大学研究開発支援経費(COE育成支援研究)・科学研究費補助金(基盤研究B)
研究集会
会場で売っていた下記の本を買いました。
お遍路に関する歴史的な検証で、まさに、「目から鱗」的な本です。
「 四国遍路と世界の巡礼」
四国遍路と世界の巡礼研究会 編法蔵館 (ISBN:978-4-8318-5681-4
2007年05月
2,310円(税込)
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空海は42寺を開基したことになっていました。行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668年~749年)は奈良時代の僧である。 父は百済系渡来人氏族の末裔一族の高志才智とされる。河内国大鳥郡(現在の堺市)の生まれ。681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済や治水、架橋などの社会事業に活動した。民衆を煽動する人物であり寺外の活動が「僧尼令」に違反するとし、糾弾されて弾圧を受けた。741年月に聖武天皇が行基と会見し、東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。勧進の効果大きく745年に朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られた。大仏造営中の81歳で入滅。
はまあるきの四国お遍路日誌http://www2.ocn.ne.jp/~haguman/ohenro.htm
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2007年11月18日(日)78番札所 郷照寺(ごうしょうじ)を巡礼しました。郷照寺の宗派は時宗で、鎌倉時代に一遍(いっぺん)上人により始められた「南無阿弥陀仏」と唱え踊り念仏をする道場だったとそうです。納経所の人たちも笑顔で迎えてくださり、これも遊行上人、一遍上人の影響かと。いまでも踊り念仏があれば、是非踊ってみたいものです。
(注:四国八十八ヶ所霊場の宗派:天台宗は4ヶ寺で、禅宗は3ヶ寺で、時宗は1ヶ寺:ご存知でしょうが鎌倉時代に時宗以外に浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗が始まり、現在の主な宗派が出揃ったと教科書にあります。)
(注:一遍【1239 –1289】は鎌倉時代中期の僧。時宗の開祖。一遍は房号で、法諱は智真。遊行上人、捨聖(すてひじり)とよばれる。伊予国の豪族、別府通広の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれる。10才のとき母が死ぬと天台宗継教寺で出家。一時伊予に戻るが、32歳で再び出家、六字名号「南無阿弥陀仏」を記した念仏札を配り始める。さらに、各地を行脚するうち、信濃国で踊念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものという。16年かけて陸奥(むつ)から九州大隈(おおすみ)まで日本中を遊行(ゆぎょ)した。51歳で兵庫津の真光寺で没した。盆踊りや、出雲 阿国(いずも おくに)の歌舞伎踊りも踊念仏がルーツ。
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