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2007.11.29 22:58 |  生活 / くらし  |  趣味  |  旅行 / 宿  |  はま あるき  | 推薦数 : 0

長宗我部元親の兵火について

   今、四国遍路中(区切り打ち)ですが、四国88ヶ所の多くの寺院が、(例えば第2番の極楽寺)長曾我部の兵火で消失したと説明文があります。長曾我部氏はけしからん人物かと思っていましたが、調べると、むしろ豊臣秀吉のほうがけしからんと思えてきました。以下、私の長曾我部元親に関する要約です。

 

 

長宗我部元親(15441599

 長宗我部を「長曾我部」と書く文献もある。
 長宗我部氏は室町時代一貫して四国探題で幕府管領でもある細川氏と結び、その権力を背景に勢力を拡大した結果、土佐七族の一つにのし上がり、元親の祖父、元秀(兼序)になると、土佐の豪族たちの筆頭となった。
 元親は土佐の岡豊城に生まれた。幼名は弥三郎。元親は背も高く体格も優れていたが、色白で無口、人見知りも多かったため、家臣から姫若子とあだ名され、やや軽んじられていたようでもある。しかし天正3年(1575)、土佐一国を平定。天正13年(1585)の春ころまでに、ほぼ四国全土を平定しきった。

 

 

秀吉に伊予と讃岐を差し出すよう求められたが、元親は四国のうち伊予一国を秀吉に差し出し、自分は残り三国を領有したいと言った。秀吉には、これはむしろ元親の現状認識の甘さ、傲慢と見なされ、秀吉の軍は羽柴秀長を総大将に、総兵力12万余を三手に分け、四国征伐のため四国に入った。圧倒的な大軍を前に、4万の兵しかもたない元親は同(1587)年8月6日、2ヶ月で降伏。それでも秀吉の寛大な処置により、土佐一国のみ安堵された。
 翌14年、秀吉が九州の大友宗麟から求援を頼まれ、島津氏を討つべく軍を起こすと、元親はこれを援けるため、讃岐の十河存保と淡路の仙石秀久らと、豊後から九州に入った。十河存保と、元親の嫡子信親は激戦の中で戦死。生き残った者たちと舟で伊予の日振島に引き上げた元親も、ようやく岡豊の居城に帰ると、大高坂城(現在の高知城)を築いて居城とし、岡豊城は廃した。
 大高坂山城には3年ほど居城し、小田原征伐から帰った元親は、こんどは浦戸に新城を築き、天正19年(1591)末ごろ移った。当時、川の流れは現在とは違い、大高坂は洪水の害が多く、治水工事は難航したという。浦戸は海寄りだが、水軍の基地や商業的な水運の意味ではよく機能したのかもしれない。
 太閤秀吉は朝鮮出兵の令を発し、元親は三千兵を率いて浦戸を発った。
慶長2年(1597)6月、元親は朝鮮に再征。
慶長4年(1599)5月19日、元親は伏見の邸で生涯を閉じた。61歳。

 

 

 

 

【こたつ城(http://kotatujo.cool.ne.jp/index.htm)より引用。詳しくはこのHPを!】

 

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