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「苦しみの時代」 >
夢見る掃除人 / 2007.09.23 23:08 / 推薦数 : 5
サマリアの無償の行為は、私たちのこころを支えているものだと思います。地震で崖が崩落し、トラックの中にガレキに閉じ込められた母親と2人の子供を救出するスーパーレスキュー隊の救出活動が全国に放映されたことがありました。今日もその再現映像が放映されていました。
いつ再崩落するか分らないガレキの中からかろうじて幼児1人を救出しえたとき、全国の人々、そしてマスコミも、驚きとともに、拍手と歓声に沸き立った。
あのときは、ほんとうに画面に釘付けだった。岩場の隙間に(死ぬかも知れない)危険を冒して、体ごと入り込む若い救急隊員の決意は何だったんだろう。誰も止められない。それを許可した上官も、単なる勇気や計算では説明できない何かに突き動かされて命令したのだろう。「よし!行けー!」
テレビ画面を見ている私たちの中が、その場にいれば、「どけろ!俺が行く。」「だめだ。危険だ。」「行かして下さい」「妻子はどうする」「万が一のときは、どうか骨を届けてください」。。。という者も出てくるでしょうね。戦時中ですか!というくらい自分を失うことがある。
私たち医療者も、こうした最終的な(サマリアに試される)決断を迫られることがある。
何日も、術後の出血と再手術とその後の経過を、誰にも任せられない。任せたくない。「俺が見なくて誰がみる。」「もう帰れ。」「心配です。」「安定したからいったん帰れ。」。。。案の定、呼吸があやしくなる。ベッドで不穏な行動が始まる。やはり居てよかった。。。そんな毎日の連続でも、こころが満たされていく感動は、まさしくサマリア人だけではなく、日本人すべてが持っているこころの原点です。どんな仕事にも、こうしたこころがあっていまの日本があるのでしょう。
サマリア法は、日本には必要ないでしょう。ことに、医療過失や医療事故を裁く法廷で、被告を守る盾にはならないでしょう。
助からなかった母親ともう一人の幼児が、タンカーで運ばれていくとき私たちは、レスキュー隊員を責めることは決してありません。また、万が一、救急隊員が殉職することがあっても、その指示をめぐり争うことはない。。。
昨今、もっと早く検査をしていれば、もっと早く搬送されていれば、もうすこし輸血が早かったら。。。という「治療行為の選択と結果」をめぐる「仮想的利益(もしそのとき~でありさえすれば、そうはならなかったはずという、時間をさかのぼった議論)」で、過失・無過失責任が争われることがある。こうした、争いにおいては、サマリア法は無力です。治療は病める人を救う行為ですが、災害や事故における救出活動とは同義ではないと解釈されているからにほかなりません。「より有益なもの」を提供する行為、契約の履行と解釈されているからです。
国民皆保険という制度は、「予め支払われた(拠出済みの)契約」として、医師に「応召義務」、「より有益な治療の選択と行為の履行義務」が負わされているようです。
個々の治療の選択における「説明と承諾」は、医療者に課せられた履行義務から発生する「予期し得ない事故」「医療ミス」を相殺するものではありません。
したがって、家族や社会からみて疑念を生じる死亡事故(術中死)、治療に伴う死亡(薬剤投与)、医療機器の不具合による死亡事故などでは、詳細な検証が必要になります。嫌疑や当座の事実証拠だけで身柄を拘束される事態が生じています。いわゆる犯罪者扱いと同列になってしまうわけです。
医療事故と犯罪が、証拠保全、逮捕という同じ手続きで処理されることが、医療現場を混乱させ、士気を削いでいる結果になっています。医療が高度化し、集約化されていく中で、医療ミスや事故の頻度も今後ますます増えていくことでしょう。
そこで、こうしたミスや事故を公平に検し審査する過程が必要になってきたのではないか、これまでにない新しい法的な手法が必要なのではあるまいか。
医療を監視するとともに、受益者側の権利と人権だけでなく、治療者権利と人権をも保障する制度が必要であると考えるわけです。そして、「治療行為に伴う過失やミスや予期し得ない結果は、単純に傷害事件や業務上過失と同列に扱わない」というコモンセンスを醸成していくことが早急に求められていると思います。
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お裾分け、頂戴しました。
で、ビールの後は何になさいます。銀河カクテルかしら。少しずつお飲み。まだ、夜はこれからよ。
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