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2007.09.29 13:28 |  診療  |  仕事 / 職場  |  生活 / くらし  |  夢見る掃除人  | 推薦数 : 2

「みてごらん」

自由に 空を飛べない
羽を失った 鳥よ
悲しまないで
 
空は きみのものだ
見てごらん
美しい 虹を
 
思いのままに 遠くへ行けない
綱につながれた 山羊よ
泣かないで
 
地平線は きみのものだ
見てごらん
美しい 夕焼けを
 
飛べなくても 見えるものがあるよ
行けなくても わかるものがあるよ
 
山羊は 空を飛べとは言われない
鳥は 綱につながれることもない
 
だれしも できないことがあるけれど
だれでも できることがあるはずさ
 

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2007.09.28 07:53 |  開業 / 病院経営  |  仕事 / 職場  |  夢見る掃除人  | 推薦数 : 1

「最後の選択」

「せんせい わたしはいつまで生きられるでしょう。」
「大丈夫です。点滴とアミノ酸で守られていますから。」
 
「いつになったら 私の臓器が出るんですか?」
「もうすぐかもしれません。でも、長くかかるかもしれません。」
 
「そのときまで わたしは生きられますか?」
「生きて下さい」
  
「せんせい わたしは元気な頃は、よく山に登ったんです。」
「どんな山に?」
「冬山です。」
「それは怖いですね、何処にいるか分からなくなるのが山ですからね。」
「そうなんです。雪山を下ってくると、木で出来た道しるべがあったんです。
左へ行くと安全に確実に里に帰ることのできる道、右へ行くと深い谷へ行き迷い込む死に至る道。よく見ると、その道しるべは誰かがいたずらしたらしい形跡があったんです。釘で止められているだけの粗末な矢印です。。。3時を過ぎると、山は夜に入ります。はやく里までたどり着かなければなりません。
 いたずらする人は、もとの矢印を逆にします。右へ進むと里に帰る道、左へ行くと深い谷。。。良心ある人は、いたずらされた道しるべを必ず元通りにして、みんなが安全に帰れようにと願い、道しるべを治します。
でも、ほんとうの意地悪はどうすると思います?せんせい。。。一旦逆にしてその後にひねりなおして元通りにするのです。あたかも元の方角を逆にしたかのようにわざと見せかけて。。。わざわざ一旦道しるべを逆にひねって、良心あるものの真似をして丁寧に元にひねり返すのです。ひねくれた奴が、その反対方向へ行くことを楽しむためです。。。
雪で冷たくなった脚が、少しずつ膝まで登ってきています。。。。数時間も歩くと、確実に歩けなくなります。とどまっても死にます。。。せんせいはどっちへ進みますか。矢印のままですか?。。。それともその反対ですか。」
二つに別れた道で、彼は、ほんとうの恐怖を見たはずです。
 
彼は、数日後、私のいない夜に、突然の呼吸困難に陥った。当直医が挿管をし、心臓マッサージをしたが間に合わなかった。慢性の低アルブミン血症と肝不全、敗血症であった。突然の死であった。道しるべの解答を言い残さずに。。。
 さて、私は、彼が雪山で選んだほんとうの道を知りません。どちらを信じて、彼はそのとき生き延びたのだろう。彼は死ぬ前に、次のようなことを私に真剣に問いかけていたのだ。。。
「人間を信じてよかったといいながら死ぬか、信じられないといいながら死んでいくか」。。。それは、彼が死ぬ間際に、わたしに投げかけた「最後の問いかけ」だったのだ。。。
 
わたしは、彼の永遠に開くことのない目元に「満たされた笑み」をかすかに見たような気がした。。。
  
「信じる道を、迷わず行け!」

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2007.09.27 21:39 |  診療  |  仕事 / 職場  |  夢見る掃除人  | 推薦数 : 2

「そばにいるよ」

 
「この苦しみを どうか分かってください
お願いです ほんの少しでいいですから」
 
「この悲しみを どうか分かって下さい
お願いです ほんの少しでいいですから」
 
あまねく世の うめきのひとかけらでも 
わたしたちは ほんとうに癒しただろうか。。。
 
あまねく人々の 涙の一粒でも
わたしたちは ほんとうに触れただろうか。。。
 
わたしたちが しばしば見るのは
苦しみのうめきと 悲しみの涙だ
 
見ても ほんとうに見たことにはならない
知っても ほんとうに知ったことにはならない
 
でも わたしたちは 感じている
それが ほんとうであることを
 
だから どうか許して下さい 
あなたの苦しみと悲しみを 
身代わることのできない わたしたちを
 
 
 
わたしたちもまた 苦しみと悲しみを背負いながら 
あなたの そばにいるよ
 

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2007.09.25 17:12 |  診療  |  医療制度 / 行政  |  医療事故  |  夢見る掃除人  | 推薦数 : 2

「苦しみの時代」

悲しみの心は なぜ こんなにももろく
人の祈りさえも 聞こえないのだろう
  
欲深き心は なぜ こんなにも頑丈に
人の願いに 逆らっているのだろう
  
忘れかけたものを 消し去るには
わたしたちの悔いは あまりにも傷深く
  
失われたものを 取りもどすには 
わたしたちの祈りの なんと弱々しいことか
  
荒れ果てたこころが 癒されるには
この時代の苦しみは あまりにも底深く
  
汚された誇りが つぐなわれるには
渾身の浄化の なんとのろいことか
  
しばし立ちつくせ そして思い起こせ
わたしたちは きずつけるために生まれたのではない
わたしたちは つぐなうために生まれたのではない
わたしたちは のろわれるために生まれたのでもない
。。。救うために生まれたはずだ。

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2007.09.23 23:08 |  診療  |  医療制度 / 行政  |  医療事故  |  夢見る掃除人  | 推薦数 : 4

「救出と治療のサマリア」

サマリアの無償の行為は、私たちのこころを支えているものだと思います。地震で崖が崩落し、トラックの中にガレキに閉じ込められた母親と2人の子供を救出するスーパーレスキュー隊の救出活動が全国に放映されたことがありました。今日もその再現映像が放映されていました。
いつ再崩落するか分らないガレキの中からかろうじて幼児1人を救出しえたとき、全国の人々、そしてマスコミも、驚きとともに、拍手と歓声に沸き立った。
あのときは、ほんとうに画面に釘付けだった。岩場の隙間に(死ぬかも知れない)危険を冒して、体ごと入り込む若い救急隊員の決意は何だったんだろう。誰も止められない。それを許可した上官も、単なる勇気や計算では説明できない何かに突き動かされて命令したのだろう。「よし!行けー!」
 テレビ画面を見ている私たちの中が、その場にいれば、「どけろ!俺が行く。」「だめだ。危険だ。」「行かして下さい」「妻子はどうする」「万が一のときは、どうか骨を届けてください」。。。という者も出てくるでしょうね。戦時中ですか!というくらい自分を失うことがある。
 私たち医療者も、こうした最終的な(サマリアに試される)決断を迫られることがある。
 何日も、術後の出血と再手術とその後の経過を、誰にも任せられない。任せたくない。「俺が見なくて誰がみる。」「もう帰れ。」「心配です。」「安定したからいったん帰れ。」。。。案の定、呼吸があやしくなる。ベッドで不穏な行動が始まる。やはり居てよかった。。。そんな毎日の連続でも、こころが満たされていく感動は、まさしくサマリア人だけではなく、日本人すべてが持っているこころの原点です。どんな仕事にも、こうしたこころがあっていまの日本があるのでしょう。
 サマリア法は、日本には必要ないでしょう。ことに、医療過失や医療事故を裁く法廷で、被告を守る盾にはならないでしょう。
   
 助からなかった母親ともう一人の幼児が、タンカーで運ばれていくとき私たちは、レスキュー隊員を責めることは決してありません。また、万が一、救急隊員が殉職することがあっても、その指示をめぐり争うことはない。。。
 昨今、もっと早く検査をしていれば、もっと早く搬送されていれば、もうすこし輸血が早かったら。。。という「治療行為の選択と結果」をめぐる「仮想的利益(もしそのとき~でありさえすれば、そうはならなかったはずという、時間をさかのぼった議論)」で、過失・無過失責任が争われることがある。こうした、争いにおいては、サマリア法は無力です。治療は病める人を救う行為ですが、災害や事故における救出活動とは同義ではないと解釈されているからにほかなりません。「より有益なもの」を提供する行為、契約の履行と解釈されているからです。
 
 国民皆保険という制度は、「予め支払われた(拠出済みの)契約」として、医師に「応召義務」、「より有益な治療の選択と行為の履行義務」が負わされているようです。 
個々の治療の選択における「説明と承諾」は、医療者に課せられた履行義務から発生する「予期し得ない事故」「医療ミス」を相殺するものではありません。
  
 したがって、家族や社会からみて疑念を生じる死亡事故(術中死)、治療に伴う死亡(薬剤投与)、医療機器の不具合による死亡事故などでは、詳細な検証が必要になります。嫌疑や当座の事実証拠だけで身柄を拘束される事態が生じています。いわゆる犯罪者扱いと同列になってしまうわけです。
 医療事故と犯罪が、証拠保全、逮捕という同じ手続きで処理されることが、医療現場を混乱させ、士気を削いでいる結果になっています。医療が高度化し、集約化されていく中で、医療ミスや事故の頻度も今後ますます増えていくことでしょう。
 
 そこで、こうしたミスや事故を公平に検し審査する過程が必要になってきたのではないか、これまでにない新しい法的な手法が必要なのではあるまいか。
 医療を監視するとともに、受益者側の権利と人権だけでなく、治療者権利と人権をも保障する制度が必要であると考えるわけです。そして、「治療行為に伴う過失やミスや予期し得ない結果は、単純に傷害事件や業務上過失と同列に扱わない」というコモンセンスを醸成していくことが早急に求められていると思います。
 

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サマリア法の立法化を願う人は、日本では少数派?。。。日本では、「アメリカのように立法化までしなくても、善意による行為に訴追はない」と、一般に解釈されているようですね。
しかし、昨今の事件における、不可抗力的なまれな予期せぬ事態(事故)では、そうした前置きは取り払われて、無過失責任が積極的に問われ始めています。
はたして、サマリア法が立法化されることで、こうした係争における議論の仕方が変わるでしょうか。。。ん~。こりゃちょっとむずかしいぞ。
 知り合いのアメリカ人が言っていました。「サマリア法があっても、旅行中に遭遇する急病人の援助に、やはり積極的には手を挙げたがらない。特に同国のアメリカ人の場合は。」ということだそうです。
 サマリア法が敢えて立法化された背景には、そうした訴訟の多い国柄にあって、助けを求めている緊急時に訴訟を気にせずに、とにかく名乗り出て助けてあげましょうという願いから生まれたのではないかと思います。
  
アメリカでは、支払のできない人は病院から追い出されるのが当たり前。支払あってのインフォームド・コンセント。薬のこと、治療のこと、手術のこと、なんでも聞いて当たり前。たしかに外来に来る外人は、風でも何でもなんでもしつこく分かるまできいてくる。「It’s all right. Don’t worry.大丈夫、大丈夫!」「Leave it to me.任せなさい」「That’s it.じゃまたね。」なんて言っても引きさ下がらない。あれやこれやと、よく柿食う客もとへ、よくきくお客です。そうした「自己責任」と「自費での支払い義務」は切っても切れない関係にあるようだ。欧米の風土というか、かれらの歴史が生み出した、物事の決め方、契約のあり方と言えるでしょう。
すなわち、アメリカにおけるサマリア法の立法化は、そうした契約社会、訴訟国家、非皆保険を背景にして生まれた副産物なのかもしれません。
    
 さて、日本は、国民皆保険です。保険証さえあれば「だれでも、いつでも、どこでも」最高の治療をしてもらえてあたりまえ。なにがベストかを決めるのは、長いこと、医師のほうでした。最近は、医師に任せるのではなく、対等に質問してじゅうぶん理解した上で、選択できるということが周知されるようになってきました。医療側も、よく聞く、よく説明する、訴えられないようにきちんとする、いつ何時ナンクセつけられて訴えられてもしょうがない覚悟でやる、双方が対等の関係という意識で医療をする姿勢が一般的になってきました。「よっしゃよっしゃ外来」は比較的少なくなってきた感があります。
 
しかし、まだまだ、欧米のように対等になりきれないのが医療を受ける側のスタンスのようです。ほとんど頭をぺこぺこ下げてしまう。そんなに下げなくてもいいのですといっても駄目です。ぺこぺこしてしまう。一番いいものを欧米よりもずっとずっと安い値段で受けられるからではありません。。風邪薬から移植に至るまで、なんでも欧米の十分の一程度の値段で受けられるからでもありません。日本人はサマリア人に似ているのです。サマリア人がサマリア法を立法化しなかったように、日本人もサマリア法を立法化しないでしょう。なぜなら、サマリア法の精神が日本人の国民皆保険を支えているからです。
 
 したがって、日本における無過失責任を問う訴訟においては、サマリア法が、原告、被告いずれにも、またよもや医療側にもっぱら、有利に作用することはないでしょう。
 
もっと違った考え方が必要です。すなわち、原告の訴えや検察の訴追だけで逮捕される閉塞した状況から医療を守るためには、無過失責任補償保険制度、訴訟共同預かり制度のような客観的なものを、今後作らなければならないのではないか。。。

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2007.09.17 12:11 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  医療制度 / 行政  |  仕事 / 職場  |  夢見る掃除人  | 推薦数 : 2

「福祉の幻想」

当スリーエムブログにおけるある人気ブログ(ほ○まで@)で、このたび話題になってにぎわった医療の「幻想」について、私の所感を述べさせていただきます。
  
以下原文通り。
夫の老夫婦と、2人の子供を抱えた奥様からの○海大学付属病院に関する投書ですね。
ご老人が車いすから立ち上ろうとして、転倒し大腿骨骨折したが、診断したあと、入院も治療もせず、他の病院へ転送された、とのこと。
 
奥様はその場におられなかったようですが、いろいろな事情があったはずです。
認知症高齢者の大腿骨骨折となれば、術後も長期入院の可能性が高く、リハビリもうまくいくとは限りませんので、寝たきりになる可能性もあります。その病院での収容能力や入院基準、紹介・転送基準などにより、思い込んでいた「いつでも入院させてくれる」が通らずに、こうした不満やクレームが生まれることはあるでしょう。
 
医療側と医療を受ける側とのすれ違いは、その病院だけに限るものではないでしょうね。どこにでもあるようです。
医療を受ける側は、「いつでも」「どこでも」「だれでも」「なんでも」「いつまでも」、トコトン最高の手厚い治療と看護と介護を受けることができるという「権利意識」と「福祉幻想」が、国民皆保険の時代になって当然のことのように浸透してきました。そんなに成熟した「幸福で安心できる」時代ではまだありません。
 
医療を提供す側にも限界が見えてきました。不満「タラタラ」「夜も眠れん」であります。「奴隷状態」であります。
 
しかし、こうした受ける側からの一方的な要求や不満を責めることもできません。医療を提供すること、制度や運営のありかたに何か不具合があれば、受ける側になって、それを変えて「いかなければならない」「いくことができる」立場にあるからです。私たちは医療者なのです。
受ける側の間違った、行き過ぎた、勘違いした「権利意識」と「幻想」を批判しても、最後の終着点は受ける側の「味方」でなければ、医療は成り立たない。。。
以上が私のコメントでしたが、本当に安心して受けられる医療とは何か、医療者としてのスタンスはどうあるべきか。。。医療を受ける側も提供する側も、ともに「生と老い」、「病いと死」を抱えているのです。

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2007.09.14 20:18 |  診療  |  仕事 / 職場  |  生活 / くらし  |  夢見る掃除人  | 推薦数 : 1

「刷り込まれた眼」

先日、テレビでやっていた。プ○ピアは人工の毛髪であるが、これを是非「つけヒゲ」で発売してほしいという声が殺到したらしい。つけヒゲ?。。。なんで?
    
 団塊の世代は、小さい頃から「みんなと同じ」でないといけない、ひげは兵隊のようにきちんと毎日剃るものと教えられたので、社内で堂々とひげを生やそうものなら、以後昇格なしが通例であった。それでも勇気をもって生やす奴は、よほど仕事に自信があるか、無精か「生やしてこそ男」をアピールできるほんとのひげおとこのどちらかであった。
 
最近は、イラク派兵の大将がヒゲを生やしていた。みんな真似した。「アラブはヒゲがないのは、男に○○○がないのと同じくらい恥ずかしいこと」らしく、「ナメラレルト、生きて帰れない」ということだったらしいが、兵隊がヒゲを生やしていいなら、俺たちも。。。ということで、団塊の世代が真っ先に人工ヒゲに殺到した。会社の若い連中も真似してつけ始めたという。時代は変わったのかもしれません。
  
 さて、出来栄えは?。。。周りに言わせると、「なんかへん」。。。
人工だからね。でも、週末だけ付けると、勇気が出て、社交的になり、気分が大らかになるとのこと。週末だけですか。。。そのまま付けて出勤すると、これまたヤバイ日本の大方の会社の風土は昔とさほど変わっていないので要注意だ。。。
  
 して、ヒゲだけで顔や人格のイメージがかなり変わるが、面白いことに一回でもその顔を見ると、そのイメージがしばらく取れない。一旦刷り込まれたイメージの残像が残る。「刷り込み現象」である。「あれ?今日は付いていたっけ?」「なかったわよ。」「いや~。あったよ」「え~。うそぉ。なかったっぽくない。」「もう一度、本人見てこい。電話で聞いてみるかい。。。」
 ************************** 
    ヒゲなんかどーだっていいじゃあ~りませんか!
    いえ、よくありませんっ!!。
  **************************
 一度でも印象に残る事件やエピソードがあると、「あ~。あそこね。」とか、「大丈夫かな」とか、「その後、どうしてんだろね。」「また、あそこか」が取れないのが刷り込み現象です。
「信頼回復に向けて。。。」と何度言っても、10年はかかる。裁判所が「無罪です」といっても、名誉回復の道のりは長い。マスコミや宣伝は、こうした人間の心理を知っているかのように、刷り込みに余念がない。わたしたちはこうした刷り込みに囚われない「新しい眼」を持たなければならないと思う今日この頃です。

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「研修医ってなんですかぁ。」と、ものごころついた小さな患者さま。 
 
「勉強中のお医者さんだよ。」と、天の声。
 
 「なんかできるんですか?」
  
「なにもできないよ。」
  
「なにもできないのにしてるんですかぁ。わたしたちの体に。」
 
「。。。だいじょうぶだよ。心配なの。」
 
 「だって、わかってるからしてるんでしょ。いろんなこと。何がいけなくて何がいいのか。」
 
「。。。そうだよ。たくさんべんきょうしてきたからね。」
 
 「わたしのからだがわかってるの?」
 
「。、。。今はまだ分からないさ。。。でもね。知ってるよ、きっと。きみの痛みを。」
 
 「ほんとうに?」
 
「そうだよ。だって、きみを助けるために生まれてきたんだから。」
 
  *********** 
  
。。。研修医諸君!  
   
 できない、ただそれだけで、くじけるなよ。
   
できなくたっていい。
  
できるのは時間の問題だ。
  
 きみたちは、他の人ができないいろんな試練を越えてきたはずだ。
 
でも、できるようになったら、これだけは忘れるなよ。
  
 できるためだけに、ただそのことのために、生まれてきたのではない、ということを。
  
 。。。だから、迷わず、すべてのちからを尽くせ!
 
   病める人々は、きみたちの味方だ。
   

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職場の争いをたとえて「修羅場」。。。と申す、ある院長(み○りん)ブログを発見。確かに、これに勝る表現はないね。。。患者さまからは見えない、もう一つの地獄・魔界です。
以下、日々争いに苦戦する開業医に捧ぐ。。。
医師であり経営者でもある開業医は、患者さまを前に対坐しながら、うしろに従業員という修羅(阿修羅)を背負っています。
さて、修羅は、古来インドのヒンドゥ教に出てくる挑戦的な鬼神であり、常に帝釈天と争い、かならず負けるが何度でもシツコクよみがえって戦いをしかけてくる。争いが絶えることなく続く魔界を「修羅場」といいます。
修羅は、人間と畜生の間に位置する格式の低い存在ですが、そのバイタリティーとしつこい蘇生能力が、のちの仏教ではたいそう持ち上げられて、「仏法の守護神」として祀られ、その格式を救済されることになる。
 日本には、これによく似た格式に「天邪鬼(アマノジャク)」がいる。民話の中では、「人に逆らい、人の邪魔をし、わざと人に逆らって片意地を通す」(広辞苑)厄介者をいう。
「お前はアマノジャクだね。」
かあちゃんが、何かにつけてよく私に言っていた。
「あまのじゃくっ?」
「ここに載ってるでしょ?ほら」
「。。。!?」
絵本の中で、アマノジャクは瓜子姫(ウリコヒメ)の衣を奪い、ヒメに化けて空を飛び人を惑わすが、スズメにバレテ、桃太郎のような成敗に長けたツワモノに滅ぼされる。その格式は21世紀の今日でも低く、四天王の帝釈天の足に無残に踏みしだかれているのを、京都の平等院で見たことがある。その惨めなさまは救済されることなく、戒めの形として、今日も観光客のさらしものになっている。
さて、経営者は、医療と経営にあたって、俸給の分配、仕事の軽重、地位の上下と言い分の正悪で日々争い続けるアマノジャクたちと、守護神としての阿修羅をよく見分けて、使い分けなければならない。アマノジャクを時に誉めたたえ、時に叱責し、時に激励し、多くは涙をのんでむしろ奴隷のように従わなければならない。
従業員の教育にあたっては、アマノジャクを放し飼いにしておくことなく、院長の後方とその陰で、患者さまをいたわる守護神へと教育し成長させることを本懐とするべきである。。。そして、安定と成長は、生き生きとしたアマノジャクたちが、嬉々として守護神に従う修羅場にのみ開けるものなのかもしれない。

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