夢見る掃除人 / 2007.08.22 20:55 / 推薦数 : 4
1990年代に見られた脳死議論の熱気は、移植法案の採択以後、下火になり、マスコミの興味ある題目ではもはやなくなった感がある。ドナーカードの普及や啓蒙にもかかわらず、ここ10年間、脳死ドナーはわずか数十例と停滞し、アメリカの100分の1程度に過ぎない。脳死ドナーがアメリカに比べて圧倒的に少ないことが、日本における脳死移植の停滞のもっとも大きな理由の一つであることは論を待たない。はたして、日本人はアメリカ人より生物学的に「脳死が少ない」のだろうか。。。
日本における脳死判定の細かな規則や手続きは、ケンケンガクガクの脳死議論の末に、脳死移植のメッカであるアメリカさえも驚くであろうと思われるほど詳細を極めている。「死の判定」がこんなにも大がかりで詳細であるということは、医学の歴史上はじめての体験かもしれない。しかるに、アメリカは、簡単な判定方法と手続きでたんたんと行われている。脳死という生命の終わりのノーリターンを境に、治療するべきものと、そうでないものとの区別がはっきりしている。脳死をもって、治療の打ち切りを家族に提案する、そこで家族は大方が同意し、移植のドナーの提案がそれから少しして(30分後?ないし数日後には)行われている。脳死の判定にアメリカ人はあまりこだわらないようである。臓器提供も積極的だ。最近は脳死ドナーのほかに、心停止ドナーでの提供も増えつつあるという。
日本では一般に、脳死を明らかに想定できていても、一時的に呼吸器をはずしてまで脳死の判定を積極的に行うことはない。家族には「もう望みはありませんが、最後までできるだけのことはしましょう。」「はい。お願いします。」ということで、最後の最後まで自然に心停止するまで、ずるずる治療行為を長引かせてしまうことが多いだろう。多くの良性疾患の治療と同じような、濃密な全身管理(栄養点滴、抗生剤、呼吸器管理など)が漫然と行われていることもある。
こうした医療行為は、「死を遅らせる」ためであり、治療とはいいがたい。
アメリカと日本の脳死後の対処の違いは、まさにこうした治療の打ち切り方と、「死の受け入れ」方にあると思われる。それは感性の違いが多少左右しているかもしれないが、宗教的なものではなく、国民性でもなく、もっと現実的に「いつまで治療費が払えるか」ではあるまいか。
アメリカ人は脳死後にも濃密な治療を続けることを望まない。治療費が大変であるからに他ならない。日本はどんなに治療費がかかっても、ほとんどが医療保険で賄われる。差額ベッド代はもどらないが、自己負担分はほとんどが返還される。医療側も、脳死症例に漫然と治療行為を行なってもお咎めはない。
本日の逆説的結論は以下のようになります。
「アメリカも、日本のように手厚い無制限の医療保険制度に恵まれるならば、脳死移植はもとより、心停止移植も激減するに違いない。」
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